第20話 新生活に向けて
男湯の出口を出て、浴場の玄関脇でロイドが待っていると、ほどなくして女湯の方の引き戸が静かに開いた。
顔を出したのは、フードの代わりにタオルを被ったルーシャだった。
白いローブを羽織ってはいるものの、風呂上がりのその姿は、普段の彼女とはどこか印象が違って見えた。しっとりと濡れた銀髪が肩先に流れ、頬は湯上がりの火照りでほんのりと赤い。肌もつややかで、何よりその目が潤んでいるようにすら見えた。
ロイドは一瞬、息を呑んだ。
なんというか──その、色っぽい。
(……おいおい)
慌てて視線を逸らすも、気づかれてしまったらしい。ルーシャはくすりと笑い、濡れた髪に手を触れた。
「濡れたままですみません。一応、できるだけタオルドライをするようにしたのですが……さすがに人前で精霊珠を使って乾かすわけにもいきませんし」
「気にするな。俺だって髪は濡れたままだしな」
ロイドも自分の髪に手をやった。ロイドの長めの髪も、しっとりと水を含んだままだ。むしろ、他の利用客を見ても皆髪は濡れている。乾いている方が不自然だった。
ちなみに、彼女は大浴場に精霊珠を持ち込んで、桶の中に隠しながら使用していたらしい。確かに、水を無限に生成できるなら、頭を洗う際などは結構便利だ。
「結構周囲の目は気にしましたけどね。バレると事ですから」
「確かに」
さすがに教会が秘密裏に開発していた魔導具を人前で堂々とは使えない。もしそれが公になると、回り回って彼女の存在が教会側にバレてしまいかねない。
ロイドはルーシャの説明を聞きながら、ふと頭の中で何かが繋がったような感覚を覚えた。
(あっ、そっか。俺たちには精霊珠があるんだった)
この便利アイテムがあれば、風呂場は案外何とかなるかもしれない。浴槽の貯水も簡単にできるし、何なら湯を沸かすことだってできるのではないだろうか。それなら、石窯を直せなくても、浴槽と排水菅だけ何とか修理できれば、すぐに風呂場を利用できる。
ロイドはそのまま話を切り出した。
「その精霊珠はお湯も生成できるのか?」
「お湯ですか? お湯そのものは出せませんが、お水を温めることならできますよ?」
「温めるって、どうやって?」
「熱を発するように魔力を込めて、精霊珠をお水に浸けるだけです。それがどうかしましたか?」
ルーシャは顎に手を当て、小首を傾げた。
曰く、精霊珠で生成できるものは多々あるが、都度生成できるものは一種類のみ。水と冷気、水と熱など正反対の属性を同時に生成するのは難しいらしい。しかし、それぞれ別個に発動させれば話は別。生成した水を温めることなどは可能なようだ。
ちなみに、温風などは性質的にそこまで差がないので、問題ないらしい。
「なるほど……じゃあ、案外何とかなるかもな」
「はい?」
「実は、俺たちが使わせてもらってる家の裏に、浴室小屋があってな。ボロボロだったんで、何とか直せないかと思ってさっき帳場の親父さんに相談してみたんだ」
「直せるんですか!?」
そこで、ルーシャの目がぱっと輝いた。
「多分な。浴槽と排水管、それから煙道が壊れてたんだけど、それの直し方はさっき親父さんから聞いてきた。窯の石組みだけちょっとどう直せばいいのかわからなかったんだけど、精霊珠があればクリアできそうだ」
止水剤とルーシャの修繕魔法で浴槽と排水溝を直して、後は熱を逃がす煙道は新しく壁に抜き穴を作れば大丈夫そうだ。
「毎日……お風呂に入れるんですか?」
「直せたらな」
「うぅぅ……それは幸せ過ぎます」
「いや、感動するのはまだ早いから」
ルーシャが感極まって泣き出しそうだったので、慌てて止めた。
余程この数日間の逃亡生活が辛く、そしてこの大浴場でのお風呂タイムが幸せだったのだろう。
ただ、そんな彼女を見ていると、絶対に直すしかないなとも思わされた。あの浴室小屋を、明日からすぐにでも手をつけよう。
大衆浴場を出たふたりは、湯上がりの余韻を引きずりながら、街中を歩いていた。
ルーシャはさっきまでの火照りが少し落ち着いたのか、頬に残った赤みを気にするようにローブの襟を直している。
(さて……ベッドマットの前に、服だよな)
ロイドは隣のルーシャを見て、ふとそう思う。
というのも、今のルーシャの服装は、どちらかというと目立つものだ。白を基調としたローブに繊細な刺繍、細部には銀糸が使われ、明らかに一般人の服ではない。教会関係者だと知られれば厄介なことになりかねなかった。街中をうろつくなら、なるべく目立たない服装に着替えさせた方がいい。
中央通り沿いにある店を見ていくと、『旅衣のヨナス』と書かれた店の看板が目に入った。ふたりして店の扉をくぐると、中は素朴な麻布や綿布の服がずらりと並べられていた。
店の奥から出てきたのは、丸太のような腕をした中年の女性店主だった。
「あら、いらっしゃい。教会関係者さんかしら?」
女性店主はルーシャを見て、開口一番に言った。
「まあ、そんなところだ。ただ、この子はまだ修行中の身でな。もうちょっと地味な服がないかって話をしてたんだ」
ロイドが出任せで言うと、店主はあっさり信じて快く店内の案内をしてくれた。
並べられた服の中から、彼女は次々と目立たず、それでいて動きやすい服を選び出す。淡い茶やグレーを基調としたワンピース、丈の長いスカート、簡素なローブ。どれも修道女や村娘が着ていそうなものばかりだ。
そして、最後に差し出されたのが──
「こちらのケープはどうでしょう? フード付きで顔も隠せますし、雨除けにもなります」
それは、くすんだ青灰色のケープだった。内側は薄手の裏地が貼られており、寒暖の差にも対応できそうだ。
ルーシャはケープを手に取ると、そっと顔に近づけて布の感触を確かめていた。
「わっ、素敵な生地ですね。ちくちくしませんし、着心地も良さそうです」
「試着させてもらうか?」
「はい、お願いします」
ルーシャは店主に案内されて、奥の試着室へと入っていった。
それから数分後──ひらり、と布の揺れる音と共に、ルーシャが姿を現した。
装いは、淡いベージュのワンピースにシンプルなベルトを巻き、上から青灰色のフード付きケープを羽織っている。華やかさはないが、どこか品のある雰囲気だった。長い銀髪がケープの裾からふわりと覗き、湯上がりでやや潤んだ浅葱色の瞳がきらきらと輝いている。
そんなルーシャを見て、ロイドは小さく息を呑んだ。
「どうでしょう? 似合ってますか?」
彼女は少し照れくさそうに裾を摘まみ、くるりとその場で一回転してみせる。そして、覗くようにおずおずとロイドの方を見上げた。
「ああ、似合ってるよ。どこからどう見ても可愛らしい修道女だ」
「ふふっ、それならよかったです。何だか昔を思い出してしまいますね」
ロイドの言葉にルーシャは小さく吹き出して、もう一度軽くスカートの裾をつまみ上げて回ってみせる。
その動作は年相応に少女らしく、どこか楽しげだった。聖衣を脱ぐことで、〝聖女〟という役割からも解放された感覚なのかもしれない。
(……ほんと言うと、ちょっとオーラが修道女っぽくはないんだけどな)
ロイドは内心でこっそりとそんな感想を付け足した。
見た目は、確かにどこにでもいそうな修道女。けれど、隠しきれない気品というか、神々しさのようなものが滲み出ていた。それでも、この服なら以前の聖衣よりも目立たず過ごせるだろう。
他にも何着か似たような服を購入して、ついでにロイドの服も数着だけ買ってから店を出た。
「よし、服はこれでいいな。じゃあ次はマットレス買いに行くか。ついでに荷車も買わなきゃなぁ」
「あ、食材も買わないとですよ! 夕飯が作れません」
「そうだった!︎ありがとう、完全に忘れてたよ」
「やることが盛りだくさんですねっ」
ルーシャの声が、楽しそうに弾む。フードの下からも、笑顔が零れていた。
案外、今の生活を楽しんでいるようだ。
(風呂に住環境に食事に……ほんと、やらなきゃいけないことが多いな)
とはいえ、悪くはない。
いや、むしろ──こういう日常こそ、ずっと守っていきたいとすら思えた。




