第19話 白聖女のお風呂タイム(ルーシャ視点)
女湯の出入口に立ったルーシャは、もう一度フードを深く被り直し、振り返ってロイドの姿を目で追った。
だが、既に彼は男湯の方へと姿を消してしまっていた。
ひとりきりになった静けさの中、そっと息を吐く。鼓動がわずかに早まっていることに、自分で気づいた。
(そういえば……別々になるのは初めてですね)
思えば、ロイドと行動を共にするようになってから、ずっと一緒にいた。
彼の手引きで教会の地下牢──こんなものが教会施設にあったことすら驚きだが──から抜け出して、もう一週間以上になる。その大半を、初対面の男性であるロイドと共に過ごしていた。今思えば、不思議なものだ。
(彼は……無事でしょうか?)
ふと、自分を慕ってくれていた男性のことを思い出す。
彼は自分の身を危険に晒す覚悟で、教会側の言い分を不当なものとしてルーシャを逃がした。しかも、貴重な魔導具〝精霊珠〟を渡してまで。
脱走が知られるまで幾分か時間があったが、それでも誰が脱走の手引きをしたかは当然調べられるはずで……そうなると、容疑者として彼の名前が上がるのは、間違いない。
『こんな腐った教会のために、〝白聖女〟が死ぬなんてことは許されない。君は一旦どこかに身を隠せ。時がくれば、迎えに行く』
彼は、そんな風に言ってくれていた。
だが、本当にそんな時が来るのだろうか? 甚だ疑問だった。
(……いけません。今は、それどころではありませんね。早くお風呂を済ませないと、ロイドに迷惑を掛けてしまいます)
ただでさえ、人生で初めての大衆浴場だ。
修道院でも大浴場があったが、本当に勝手が同じかどうかまではわからない。そこでは顔なじみの修道女たちとしか会わなかったし、聖女になってからは個室に風呂が割り当てられていたので、見知らぬ人とお風呂をともにするという経験もなかった。
入り口近くに据えられた番台には、ふくよかで優しげな女性が座っていた。目が合うと、にこやかに声をかけてくる。
「ご一緒の男性があなたの分のお代を払っていったわよ。ゆっくりしてってね」
「は……はい。ありがとうございます」
ぺこりと小さく頭を下げてから、ルーシャはそっと脱衣所の扉を開けた。
内側には、石と木を基調にした簡素ながらも清潔感のある空間が広がっていた。湯気の香りがほのかに漂ってくる。
(思ったより……静か、なんですね)
利用者はちらほらとしかおらず、ざっと数えると五人程度だった。中年の女性が二人、若い娘が一人、あとは母親に連れられた幼い子どもがふたり。
皆、慣れた様子で衣服を畳み、籠にしまって湯けむりの奥へと消えていく。
ルーシャはそっと視線を巡らせながら、自分の枠を確保した。
棚にローブをかけようとしたとき、ふと目に入ったのは、同じ空間にいる女性たちの体つきだった。
豊かに丸みを帯びた腰や胸、しなやかで柔らかな肌。特に若い娘の肉付きは、同じ女でも目を奪われるほど女性らしかった。
(わぁ……皆さん、綺麗です)
ルーシャは思わず息を呑んだ。
胸の奥に何かがもやっと渦を巻く。羞恥と、ほんの少しの劣等感に似た何か。
見られるわけではないと頭では理解している。ここにいる誰も、自分のことなど気にしていないだろう。同性同士であれば、裸であることに特別な意味はない。
小さく息を吐いて、帯を解いた。フードを外し、ゆっくりとローブを脱ぐ。
「……もう少し、女性らしい体付きになってくれるといいのですが」
露わになった自分の身体を見下ろし、ルーシャは思わず溜め息を吐いた。
白く、華奢な手足。滑らかで繊細な肌。くびれはあるけれど、胸は小ぶり。まるで成長途中の少女のようだ。
(やっぱり、男性はもっと女性らしい方がいいですよね……)
ふと、頭の中でロイドのことが浮かんでしまって、落ち込んでしまう。
彼はいつも気遣ってくれるけれど、それは女性であるというより、聖女であるから気遣ってくれているだけな気がした。
否定しても外見が変わるわけではないのだけれど、どこかでロイドの目に映る自分を意識してしまう。彼からよく見られたい、といつも頭の片隅で考えていた。
「……何を考えてるんでしょうね、私は」
自らの頬が若干熱を持っていることを意識しつつ、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
今は、そんなことを悩んでいる場合ではない。
ルーシャは雑念を振り払い、タオルを胸元に抱えて浴場の扉を開いた。
湯気がほのかに立ちのぼる浴室に足を踏み入れた瞬間、ルーシャは思わず目を丸くした。
(わあ……こんなに大きなお風呂、初めてです)
木造の高い天井に、壁は灰色の石張り。床も同じく石で敷き詰められており、中央には十人以上が入れそうな広い湯船が湯気をたたえていた。
薄明かりが天窓から差し込み、湯面に浮かぶ湯けむりがゆらゆらと揺れている。その光が石の壁に反射して、まるで水中にいるような幻想的な光景を作り出していた。
洗い場の一角に身を置くと、ルーシャは桶に湯を汲み、そっと掛け湯をした。
肌に落ちる温もりが、緊張を少しずつ解いていく。
それから桶の中にこっそりと精霊珠を置いて水を生成する。
こうしていつでも水が使い放題なのが、この魔導具のいいところだ。
備え付けの洗髪剤と木の柄のついたブラシを手に取ると、丁寧に髪を泡立て始めた。
(ああ……やっと、洗えました。気持ちいい……)
もこもこの泡が髪に絡みつき、指先が気持ちよくすべる。
移動中も、何なら昨夜も身体は拭いていたが、髪を洗うことはなかなか叶わなかった。一応途中で採取した植物と水と混ぜ合わせて香代わりに髪につけていたが、気持ち悪さが消えるわけではない。
「はぁ……」
感嘆の息を吐く。
こうして人間らしい生活をまた送れると思わなかった。
あの薄暗く、湿気と黴の匂いが染みついた狭い石室。床に敷かれたボロ布の上で、身体を丸めるようにして過ごした数日。
脱走してからも、山の中で野宿をしたり、最低限の水で身体を拭くだけの生活が続いていた。
もう風呂に入るなど二度と叶わないのではないかと思っていたが、思っていたよりも早く、こうして人間らしい生活を送れるようになった。それもこれも、ロイドと出会ったお陰だ。
不愛想なように見えて、その実、いつも自分のことを気遣ってくれる人。口数こそ少ないが、時折見せる照れたような笑顔。
逃走中、馬の上ではずっと身体が触れ合ってしまっていたが、それが余計に心配でならない。ずっと一緒にいたのに、ちゃんと身体を洗えたのはこれが初めてなのだ。
できるだけ身体は拭くようにしていたし、香代わりの水も髪につけていたけれど……やはり気になってしまう。
(うぅぅ。ロイドに臭いって思われていたらどうしましょう? 不安すぎます……)
どうしようもなかったことではあるが、羞恥と後悔と、ほんの少しの切なさが胸の奥で絡み合い、喉がきゅっと締め付けられるようだった。
その感情を泡と一緒に洗い流すように、勢いよく桶で髪と身体をすすいだ。
洗髪剤の香りがふわりと鼻先をかすめ、気持ちが少しだけ和らいだ気がする。
それから湯舟まで移動して、ゆっくりとその中に足から沈めていく。
肌を包み込むような湯の温もりが、全身をやさしく撫でていく。
「あったかいです……」
思わず、小さな声が漏れた。
目を閉じて肩まで浸かりながら、全身がじんわりと溶けていくような感覚に身を任せる。
やっぱりお風呂は気持ちいい。本当は毎日入りたいが、さすがにそれは贅沢というものだろう。
週に何度かは町まで来ると言っていたし、その機会にまたこうして大衆浴場を利用させてもらえばいい。
湯の中では、時間がゆっくりと流れているように感じられた。
ようやく得られた静けさと安らぎの中で、自然と心がほぐれていく。
ルーシャは髪の先を軽く絞るようにして、もう一度肩まで沈めた。
(お風呂のことも、ベッドのことも……ロイド、ずっと私のことを気に掛けてくれています。私も、何かしてあげられたらいいのですが)
どうして彼がここまでしてくれるのかはわからない。
彼の持つ〈呪印〉の暴走を防げるのが自分だけというのもあるが、それにしても、彼はあまりにも面倒見が良すぎた。
だからこそ、余計に何かを返したくなる。何か、彼のためにできることはないだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、気づけば湯に浸かってずいぶんと時間が経っていた。




