第11話 呪いと優しさ
きっと、気まずかったのはルーシャも同じだったのだと思う。
沈黙の間を持て余したように、彼女の声が背後から届いた。
「ロイドは……疑わないんですね」
唐突な問いかけに、ロイドはふと我に返った。
無論、振り返ることは許されないので、そのままの姿勢で返す。
「……? 何の話だ?」
「私が〝聖女〟だという話を、です。だって、偽者として教会から追われていたら、普通はそっちを信じるじゃないですか」
声とともに、布を水に浸す音と、擦れる音が聞こえた。拭っていた身体のどこかを移動したのだろう。どこを移動したのかは考えないようにしながら、ロイドは森の奥を見つめて答えた。
「普通はそうなのかもしれないな。でも、俺はあんたを信じると決めた。それだけだよ」
それに、と一旦言葉を区切って続けた。
「実際、こいつの暴走を沈めて見せたからな。こんな芸当ができるのは、本物の〝聖女〟じゃないと不可能だ。俺にとっては、それだけで信じるに値する」
視線を落とし、ロイドは自分の右手に目をやった。
黒く浮かび上がる痣のような模様──〈呪印〉。〝影の一族〟の証であり、持つ者に圧倒的な力を与える呪術刻印。だが、ロイドのそれはあまりに強大過ぎて、その能力を自身で御すことができない。力を使えば、たちまち呪術に呑まれてしまう。それが、ロイドにとっての〈呪印〉だった。
(ただ……まあ、言われてみれば、ルーシャの言うことも尤もだよな)
女が偽聖女の魔女だと疑われて神官に追われていれば、普通は神官たちを信じる。
だが、ロイドは最初から彼女を疑っていなかった。なぜだろうと自分に問いかけても、理屈では説明できない。
彼女の声を聞いた時、そして涙を見た時に、何かを感じ取った。それはまるで、〈呪印〉そのものが、彼女を求めていたかのようだった。
(……本能、なのかな?)
ふとそんな単語が脳裏を過った。
呪いに本能があるのか、或いは呪いに侵されたロイド自身の本能なのかはわらかない。だが、妙にその言葉がしっくりと来た。
きっと、この呪いを抑えたいと誰よりも願っていたのは、自分自身なのだから。
背後でまた、布の擦れる音がした。今度は衣擦れに混じって、絹が肌を滑る柔らかな音が微かに耳に届く。どうやら、身体を拭き終えて、服を着直しているらしい。
「お待たせしました。もう大丈夫です。気を遣わせて、申し訳ありません」
ロイドは小さく頷いてから、ようやく振り返った。
焚き火の明かりに照らされたルーシャは、少しすっきりした表情をしていた。身体を拭いて落ち着いたのだろう。
だが同時に、どこか気恥ずかしそうでもある。男の前で服を脱ぎ、肌を晒していたのだから、それも当然かもしれない。
彼女はすっと近づき、ロイドの正面に屈んだ。そして、そっと右手の痣に視線を落とす。
「これが〈呪印〉と呼ばれる紋様なのは、知っています。でも、詳しくは知らなくて……よかったら教えてくれませんか?」
髪と同じ白銀色の睫毛を揺らし、ルーシャは真っすぐにロイドを見つめた。その眼差しに、思わず心臓が跳ねた。
「私も……ロイドのことが、知りたいです」
ルーシャの指先が、そっとロイドの痣に触れる。
その手は、水の温度が残っていたのか、ひんやりとしていて気持ちよかった。触れているのは皮膚の上だけのはずなのに、まるでその指先が、痣の奥に潜んだ何かまでに届いているような感覚だ。
ロイドは短く息を吐き、視線をに落とした。
「……まあ、ル―シャは俺の暴走を止めてくれたんだ。知る権利があるよな」
ぽつりと落とされたその言葉に、ル―シャの眼差しが微かに揺れた。
ロイドは片膝を抱えるようにして座り直すと、静かに語り始める。
「……昔から、俺の右腕にはこの紋様があった。感情が揺れると、さっきみたいに勝手に力が暴走しやがる。サイアクな代物だ」
焚き火の揺らめきの中で、ロイドが右袖を捲り上げた。
黒い漆のような〈呪印〉が、腕の内側に張り付くように走っている。
遠目には痣のように見えるが、近くで見ると魔術刻印のようにもでもある。
初めて力が暴走したのは、五歳の時だった。村を出て街に向かっている最中、両親が山賊に襲われた。目の前で両親が殺されそうになって、感情が昂った時……ロイドの腕に、突如この〈呪印〉が腕に突如浮かび上がった。それからは想像に容易い。先ほどのように瘴気を纏って圧倒的な力を得たが、自分で力を制御できず、皆殺しにしてしまった。
「ご両親も、手に掛けてしまったのですか……?」
ルーシャが悲痛に満ちた瞳で訊いた。
ロイドは自嘲するように笑って、肩を竦めた。
「さあな。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。俺の意識が戻った時には、周囲には死体しか転がってなかったからな」
「そうですか……」
安堵したような、辛そうな、何とも言えない表情になって、ルーシャが焚き火に視線を落とした。
その事実がわからないのが、唯一の救いだったのかもしれない。
両親が殺されたことによって〈呪印〉が目覚め、暴走したのか、殺され掛けた段階で呪いが暴走して、全員殺してしまったのか。その記憶が、ロイドにはないのだ。
焚き火の中でパチ、と小さな破裂音が鳴った。
「その後、俺は突如現れた祖父と名乗る人物に引き取られて、山奥の隠れ里で育てられた。俺が〝影の一族〟だって知ったのは、その何年か後だったよ」
「……祖父と名乗る人物? 本当の祖父ではなかった、ということでしょうか?」
「いや、それもわからない。確認のしようがなかったからな。祖父だと言われたら、そう信じるしかなかった。でも、一応話の辻褄は合っていたよ」
ルーシャの問いに、首を横に振った。
祖父曰く、ロイドの母が祖父の娘で、偶然出会った男と恋に落ちて、駆け落ち。隠れ里から出て行ったそうだ。母には〈呪印〉が浮かばず、〝影の一族〟としての力には目覚めなかったらしい。祖父もそれでもう良いかと思っていたようだ。
しかし、その子供であるロイドに隔世遺伝で力が目覚めてしまった。しかも、通常の〈呪印〉よりも、遥かに大きな力を持って。
そこで、祖父が教育、基管理することになった。剣も祖父から習ったものだ。
ル―シャが静かに口を開いた。
「それで、その〝影の一族〟というのは……?」
「かつて国王直託の隠密騎士団だった、と聞いているよ」
俺も詳しくは知らないけどな、とロイドは付け加えた。
〝影の一族〟の役目は、は『秩序を乱すもの』を闇に還すこと。闇と呪いを操り、光が届かない場所で王国を守ってきた。反乱分子を始末したり、或いは国の秩序を揺るがしかねない問題が生じれば暗躍していたそうだ。ロイドの持つ魔剣〝ルクード〟も代々〝影の一族〟に伝わるもので、祖父から譲り受けた。
知っているのは、その程度のことだ。
「……そんな話、初めて聞きました」
説明を聞くと、ルーシャがその大きな瞳をぱちくりと瞬いた。
その表情には、困惑と微かな驚きが見て取れる。
「だろうな。今ではその存在自体がなかったことにされているらしい。書物にも、王国の記録にも残されていない。危険分子として、その存在が消されたんだ」
祖父から聞かされたことは、それだけだった。
どこにも記録が残っていないというなら、ロイドひとりでは調べる術がない。祖父の妄言なのか、本当の話なのか、里を出るまでその確証は持てていなかった。
そんな中で、その話が本当だと知れたのが……国王からの呼び出しと、ユリウスの補佐役として支えてほしいという王命だった。
ロイドはふと視線を落とし、自身の腕に刻まれた紋様を見つめた。
「祖父曰く、この〈呪印〉は一族の中でも特別力を持つ者にだけ生じるらしくてな。〈共鳴スキル〉を遥かに超える力を与えられた一方で、暴走すれば誰であろうと区別なく巻き込む。何とも使い勝手の悪い切り札だよ」
ルーシャは居たたまれないような表情を浮かべて、ロイドの話を黙って聞いてくれていた。
ロイドは嘆息して、言葉を紡いだ。
「それからは、力を使えば恐れられ、使わなければいざという時役に立てない。こんな陰気な性格だから、〈共鳴スキル〉も誰とも発動しなかったしな。誰とも……心を繋げられなかったんだ」
しかし、そんなロイドに初めての変化が訪れた。
それが、この〝白聖女〟との出会いだ。
彼女と完全に共鳴できたわけではないけれど、それに近しいような反応はあった。いや、この強大な力を暴走せずに抑え込めただけでも、ロイドからすれば共鳴したようなものだ。
「……でも、ル―シャがそんな俺の糞っ垂れた呪いを恐れないで抑え込んでくれた。俺は……それが、何よりも嬉しかったんだ」
苦笑するように、ロイドは話を締めくくった。
「これが、俺があんたを信じて、その狂った教会から守ってやりたいって思った理由さ」
「ロイド……」
焚き火の音だけが静かに響く中、ル―シャがぽつりと呟いた。
潤んだ声。彼女の瞳に、じわりと涙が浮かんでいた。
けれど、すぐに柔らかな笑顔を浮かべてみせて、こう言ったのだった。
「私は、あなたの力を〝呪い〟だなんて思ってませんよ?」
「えっ?」
「だって……あなたが力を使う時は、必ず誰かを守る時じゃないですか」
それはまるで、諭すようで、優しく宥めるようでもあって。嫣然として微笑み掛けてくれる彼女に、思わず瞼の裏がじわりと熱くなるような感覚に、襲われた。
そうだ。自分でも無自覚だったが、ロイドが力を解放するのは、必ずと言っていいほど、『誰かを守りたい時』だった。
誰にも言ったことがなかった本音を言い当てられた気がして、そして誰かに気付いてもらいたかった本音もあって、そんなふたつの感情が、胸の中で混ざり合って、何とも言えない気持ちにさせた。
「たとえ誰かがそれを〝呪い〟だと言っても、あなたが誰かを守るために使っているなら、それは〝優しさ〟だと思います。少なくとも、私はその〝優しさ〟で救われましたから」
「ルーシャ……」
思わず彼女の名前を呟いて、ロイドは顔を伏せる。
そんな風に言われたの初めてだった。いや、ロイド自身、そんな風に思ったことなどなかった。
忌むべき呪いだとしか、自分の力を見たことがない。この力を優しさだと言ってくれる人が存在するなど、想像もしなかった。
ルーシャは続けた。
「私、ずっと『世界』のために力を使うよう教えられてきました。そうあるべきだと、私自身も思っています。でも……あなたと出会って、それが少し変わりました」
「俺と出会って……? どう変わったんだ?」
「……あなたのために力を使いたいって。どうしてか、そう思うようになったんです。もちろん、それは理屈とかで説明できるものではないのですけれど……でも、それが『世界のために力を使う』ことになるんじゃないかって、今は思ってます。ちょっと大袈裟過ぎるでしょうか?」
そう言ってくすくす笑う彼女は、優しくて、神々しくて。まるで大地母神リーファが目の前にいるのかと錯覚してしまうほど、優しさと慈愛に満ちた少女が、そこにいた。
それは、ロイドがずっと誰かから言われたいと思っていた言葉。そして、ロイド自身も、そんな人のために自分の力を使えたらと思っていた。
心が、あたたかく溶けていくのを感じる。
これが、信頼や安堵から得られる感情なのかもしれない。
「……もう俺の話はいいだろ。そろそろ寝るぞ。明日は一日中歩くからな」
ロイドはぶっきらぼうな物言いでそう言った。
何だか、このままでは本当に泣いてしまいそうな気がしたのだ。
「はいっ。それでは、おやすみなさい、ロイド」
ルーシャは柔らかくそう言って、ロイドに微笑み掛けた。
その声はどこか軽やかで、嬉しそうでもあって。ロイドの冷えた心を、じんわりとあたためていく。
そんな彼女にどんどん惹かれていく自分を、自覚せざるを得なかった。




