第10話 布が肌を這う音
焚き火がぱちぱちと小さく音を立てる中、ルーシャは空になった椀をそっと重ねて、膝の上で手を組んだまま目を伏せた。
焚き火の向こう側にいる彼女の横顔は、昼間よりもいくらか柔らかい印象を与える。白銀の髪に火の揺らめきに照らされ、どこか幻想的に見えた。
ロイドは、最後のひと口を飲み干して椀を下ろすと、小さく息を吐いた。
食事のあとは、言葉が少なくなる。あたたかい余韻と眠気が、静かにふたりの間に広がっていた。
結界の中には魔物が入ってこないそうなので、このまま寝てしまっても問題はない。ただ、大丈夫だと言われても、そう簡単に信じられないのも事実。夜も更け、周囲では凶暴な魔物が活発化してくる頃だ。一応、安全が確保されるまでは起きておいた方がいいのかもしれない──などと考えていると、ルーシャが小さく咳払いをした。
「あの……ロイド。申し訳ないのですが、少しの間後ろを向いていて頂けないでしょうか?」
ちらりとロイドを見て、おずおずと彼女は言った。
その頬はほんの少し赤く、妙に恥ずかしそうだ。
「え? それは構わないが、どうした?」
「……その、身体を拭きたくて」
ぽつりと落ちた言葉に、ロイドはようやく意味を理解する。
そうだった。ルーシャはこの数日間も逃亡生活を続けており、人里にも降りられない状況だった。当然、風呂など入れているはずもない。その状態でロイドと密着をしていたわけで……女性なら、色々思うところがあるのは当たり前だ。もしかすると、今日一日中ずっと気にしていたのかもしれない。
「わ、悪い! 気が利かなかった。それなら、どこか近くの川で水でも汲んでくるよ」
「だ、大丈夫です! これがありますから」
ロイドがどぎまぎしながら立ち上がろうとすると、ルーシャは慌てて引き留めた。
彼女の手には、手のひら大の水晶玉のようなものがある。魔法アイテムだろうか? 初めて見るものだった。
ロイドは訊いた。
「それは?」
「生活用の魔導具って言うんでしょうか? 〝精霊珠〟と教会では呼ばれていました。魔力を込めることで、水を出したり温めたり、風を送ったりできるんです」
「そんな便利なものがあるのか! 初耳だ」
ロイドは感嘆とともに身を乗り出した。
旅でも戦場でも、喉の渇きは命に関わる。これまでもそんな便利道具があれば、ずいぶんと助かっただろうに。どうして出回っていないのだろうか? 大金を積んででも手に入れたい代物だ。
「実は、教会が密かに作ってた魔道具らしくて……私も〝聖女〟に選ばれて初めて、その存在を教えられました」
ルーシャがロイドに〝精霊珠〟を手渡した。
水晶玉なのに、思ったより軽くて驚いた。軽量化の魔法が込められているのだろうか。
見てくれはただの水晶玉だが、手にとると色々な魔力が中を渦巻いているのがわかる。触れただけでは、どういった原理でここから水が出たり風が出たりするのかさっぱりとわからなかった。
「地下牢にいたんだろ? よくそんなものを持ち出せたな」
ロイドはルーシャに〝精霊珠〟を返すと、訊いた。
異端の魔女として地下牢に入れられているのに、こんな貴重なものを持たせてもらえるはずがない。
「逃げる時に……彼に渡されたんです。旅に役立つから持っていけ、と」
「なるほどな。そいつは余程、気の利く奴だったんだな」
「……そうですね。優しい人でした」
ルーシャは視線を落とし、寂しげに微笑んだ。
その表情に、ロイドの胸がきゅうと締めつけられる。
その『彼』とは、ルーシャが最後まで聖女と信じて、例の脱獄を手助けした者のことだろう。彼、と呼ぶからにはそれはきっと男性で……その男も、自分の命を賭して彼女の脱獄を企てるぐらいだ。もしかすると、ただの信徒ではなくて、ルーシャと親しい間柄だったのかもしれない。
どう親しい仲だったのか──それを想像すると、ロイドの胸の奥がずきりと痛んだ。
(何を考えてるんだ、俺は)
そもそも……ただ一緒に逃げているだけで、こんなことを考えてしまうことそのものが、彼女にとっては失礼に当たるだろう。
やがて、ルーシャは空いた器に〝精霊珠〟に魔力を込めて水を生成し、絹布をその水に浸し始めた。
ロイドは、はっとして慌てて背を向けた。
「やっぱり俺は席を外した方がよくないか?」
「い、いえ! それはさすがに申し訳ないですから。それに……結界の外に出てしまうと、危ないですし」
「そ、そうか? じゃあ、まあ……」
曖昧に返事をしながら、ロイドは後ろを向いた。
背後から、ルーシャが身じろぎする衣擦れの音が聞こえてくる。サラサラと微かに絡み合う音が耳に刺さり、途端に変に意識してしまった。
絹布が水を含む音。そのあとの、身体を撫でるような、ぴちゃ、ぴちゃと水音が聞こえてきた。
水音が耳に届くたび、ロイドの頭の中に鮮明な情景が浮かびかけて、慌てて草を数えて意識を誤魔化す。
だが、何をどうやっても無意味だ。脳裏の妄想は止まらず、煩悩が喉元までこみ上げてくる。
(全く……俺って奴は、どこまで未熟なんだ)
ロイドはぐっと目を瞑って、煩悩を押し殺す。
まだまだ、修行が足りないらしい。




