第93話 瘴印王
膜が消えた途端、通路を満たしていた冷気が、嘘みたいに引いた。代わりに流れ込んできたのは、腐った甘さと、灰の匂いだった。
焦げた木材を舐めたような苦味が喉の奥に貼りつき、肺に入った空気がじわりと鈍く重い。さっきまでの冷たさとは、明らかに違っていた。
これは、温度ではなく質の問題だ。生き物の呼吸に向かない空気が、ここを満たしている。
(……やっぱり、ここが本命か)
ロイドは一歩踏み出しながら、足裏の感触を確かめた。石床は乾いているのに、どこか湿り気のある粘りが残っている。瘴気の名残が、床の目地に染み込んでいるのだろう。
ロイドたちが立つのは、大広間だった。おそらく、この神殿の最深部なのだろう。もう別の道は見当たらない。
だだっ広い空間が、暗闇の奥で口を開けていた。天井は高く、石柱が等間隔に並び、床には巨大な円を描く紋様が刻まれている。
ひと目でわかる。ここは儀式の場だ。祈りや契約ではなく、もっと嫌なもの──たとえば、瘴気を束ねたり、封印したりするための場、だといえようか。
円の中心に、祭壇のような台座があった。
王座に見えなくもない。本来、誰かがそこに座り、見下ろすための場所。いや、実際にそこには誰かがいた。
台座の上に、影があったのだ。
それは立っているのではなく、吊られているように見えた。足が床を踏んでいないのに存在している。周囲を漂う瘴気が、糸のように絡みつき、影を支えていた。まるでこの部屋そのものが、そいつを奉じているみたいに。
ロイドの指が、無意識に魔剣〝ルクード〟の柄を撫でた。隣ではルーシャが半歩前に出かけ、すぐに踏みとどまって息を呑む。
(こいつは、やばいな……)
瘴気の次元が違う。濃いとか重いとか、そういう段階ではなかった。空間そのものが、毒と死の気配で塗り替えられている。呼吸をするだけで、身体の中のどこかが錆びていく気分だ。
影が、ゆっくりとこちらを向いた。
その姿が見えた瞬間、フランとエレナの顔色が目に見えて落ちた。
ロイドも、内心で短く息を吐く。
骸骨だ。
だが、ただ白く乾いた死骸ではない。骨は年月に晒された象牙の色ではなく、煤と瘴気に染め上げられたような鈍い黒を帯びていた。輪郭は細く、痩せているはずなのに、そこには妙に〝王〟の重さがあった。
頭に載る王冠は、金属の光を失い、錆と瘴の膜に覆われている。それでも崩れ落ちないのは、飾り物ではなく──この魔物がそれを『役目』として被っているからだろう。
纏う法衣も古かった。布地は腐り、裂け、どこかで朽ちているはずなのに、肝心なところだけは形を保っている。風のない広間で、裾だけがわずかに揺れていて、まるで空気が動いたのではなく、瘴気が〝息〟をしたかのようだった。
眼窩の奥には、淡い紫の灯りが浮かんでいる。炎の揺らぎではない。熱も音もないのに、確かな視線としてこちらを貫いていた。意思がそこに棲みつき、骨を器として使っている。そう思わせる静けさだった。
そして何より──周囲の瘴気が、臣下のように膝をついていた。
ロイドの目にはそう見えた。瘴気が渦を巻き、影へ向かって頭を垂れている。あれは環境ではない。支配だ。この魔物がこの部屋を、いや、この神殿全てを従わせている。
この魔物、この気配。実際に見るのは初めてだが、古い魔物の書物で読んだことがある。この魔物の名は──。
「……瘴印王か。こいつはまた、厄介な奴が出てきたもんだ」
ロイドが呟くと、ルーシャも乾いた息を吸い込み、目を細めた。
「凄い瘴気です……こんなに強い瘴気を持つ魔物は初めて見ました」
「ああ。そうそうお目にかかれないよ。俺も、生きてるうちに目の当たりにするとは思ってもいなかったしな」
ロイドは苦笑した。だが、笑っている場合ではない。
スカルハウンド・ロードを番犬として置ける魔物など、そう多くないとは思っていた。魔族か支配階級の魔物かのどちらかだろうと思っていたが……嫌な予感ほど当たる。
「瘴印王って……嘘でしょ? あ、あたしほんとに役に立てる?」
フランの声は、震えていた。
ユリウス一行とともにレッドドラゴンにさえ臆することなく立ち向かっていた彼女が、ここまで露骨に弱気を見せるのは珍しい。
だが、その恐怖も当然だ。少なくとも、レッドドラゴンの比ではない。
「不死系最強クラスの魔物じゃない! スカルハウンド・ロードだけでも十分ヤバかったのに……ふざないでよ」
エレナは吐き捨てるように言った。怒りというより、恐怖を押し殺すためのものだろう。
「狼狽えんな。確かに強いだろうが、勝てないほどの相手じゃない」
ロイドは前を見たまま、短く言った。
自分の言葉に、ほんの少しだけ重みが乗るのを感じる。
確かに、勝てないほどの強さではなかった。
だがそれは、ロイドとルーシャの〈共鳴〉があることを前提にした計算だ。
もしこれが、以前のパーティーのままだったら。
ルーシャがいなくて、代わりにユリウスがここに立っていたなら。
百回挑んでも勝ち目はなかっただろう。そう断言できる。
ロイドのこめかみを、汗が伝う。
怖いわけではない。だが、ここまでの強さを持つ相手と戦うのは、さすがにロイドも初めてだ。魔剣の柄を握る手が、僅かに湿る
その時だった。
骨だけの顔が、わずかに歪んだように見えた。
実際には頬も唇もないのに、笑ったとわかる圧が広間を満たしたのだ。
紫の灯りが、ロイドとルーシャへ刺さる。視線というより、それは呪いに近かった。
「……黒き呪いと白の祈りか。全く……我の目覚めを妨げるのは、いつもお前たちだな」
低い声が、石柱の間を這って響いた。
耳に届く音なのに、頭の内側で直接鳴るような感覚がある。
(どういうことだ?)
ロイドの背中を、嫌な汗が滑った。
明らかに、それはロイドとルーシャに向けられた言葉だった。
(やっぱり、あの壁画は俺とルーシャみたいな関係性だったてのか?)
〈呪印〉が疼いた。さっき膜を喰って満足したはずなのに、今度は別の熱を持っている。
獲物を前にした興奮。あるいは──同族への嫌悪。
「ロイド」
ルーシャが名を呼ぶ。
その声だけで、ロイドは意識を引き戻された。
「気になるのはわかります。私も、同じですから。でも……今は、目の前の敵に集中しましょう」
ルーシャは瘴印王を睨みつけたまま言った。
彼女がはっきりと『敵』と言葉にするのは珍しい。それはおそらく、彼女の聖女としての本能だ。天に召すなどという表現、慈悲さえも無駄なほどに、この生物は悪に満ちている。
「ああ……俺たちが負けたら、村の連中が寝床を失くすからな。それだけは、あっちゃならない」
ロイドは一歩前へ出ると、ルーシャも隣に立った。
「う、うぅ……やっぱ、やるしかないんだよね?」
「当たり前よ。どのみち、勝つしか生き残る道もないんだから」
フランとエレナが、それぞれ覚悟を決めて、半歩ほど後ろに続いた。
四人の足音が、円の紋様の上で重なり──瘴印王と対峙する。
「生憎だが、お前の言ってることは何のことだがさっぱりだ。呪いだとか白い祈りだとか、そんなものはどうでもいい」
ロイドは、紫の灯りを真正面から睨みつけて言い切った。
謎は、確かに気になる。だが、それを追うのは今ではない。
「ただひとつ言えることは……お前は、また眠らされるってことだ。二度と目覚めないようにな」
ロイドは剣を抜いた。
魔剣〝ルクード〟の黒刃が、広間の紫に鈍く反射する。
ルーシャも胸に五芒星を描き、エレナは杖を握り直して、フランは鉄槌を肩に乗せた。
足の震えを誤魔化すように、フランが強く息を吐くのが聞こえた。
瘴印王が、ゆっくりと腕を広げた。瘴気が呼応し、円の紋様が脈打つように暗く光る。
「面白い……やってみせるがいい。あの時とは違うぞ」
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気がさらに重く沈んだ。
戦いが、始まる。




