第92話 最後の足掻き
ルーシャはたハンカチを畳んでポケットに入れると、ロイドを見上げた。
「怪我はありませんか?」
「当たり前だろ」
そう返しながら、ロイドは一度だけフランとエレナを見た。
ふたりはまだ半分呆れた顔のままだが、視線の奥には確かな緊張がある。
ついさっきまでの軽口が、もう遠い。
「ここからが本番だ。次は多分、こんなには上手くいかないからな。お前たちの力も借りることになる」
「はいはい。そのためにふたりで戦ってくれたんだよね?」
「私たちで役に立てればいいんだけどね」
フランが肩を竦め、エレナは苦い笑みを浮かべてみせた。
ただ、実際にこのふたりが頼りになるのは事実だ。親玉の生態がわからない以上、エレナの知識が頼りになることがあるだろうし、フランにはいざという時にルーシャを守ってもらわなければならない。ロイドとルーシャふたりでは、どうしても無理がある。
「頼りにしてるさ。実際、ふたりがいなきゃここまで来れなかっただろうしな」
ロイドが言うと、ふたりは顔を見合わせてふっと笑みを浮かべた。
先頭へ向き直り、四人で奥へと向かう。
隊列はいつの間にか決まっていた。ロイドが前に立ち、ルーシャが半歩後ろ。その背後を、フランとエレナが並んでついてくる。
広間を抜けた先は、再び細い通路だった。
石造りの壁にはひび割れが走り、古い紋様が刻まれている。神殿らしい意匠のはずなのに、どこか傷跡みたいに見えるのは、そこへ瘴気が染み込んでいるせいだ。
湿り気のある冷気が頬を撫でた。寒いのではない。皮膚を撫でる温度が一段落ちて、骨の奥を静かに冷やしてくるのだ。
歩くほど、空気が重くなる。さっきまで霧のように漂っていた瘴気は、次第に“粘り”を持ち始め、息を吸うだけで喉に薄い膜が貼られる感覚がした。
足元の亀裂から、黒い靄が細く立ち上る。
それはただ漂っているのではなく、壁の紋様へ吸い込まれていった。まるで水路に流れ込む水のように、一定の方向を持っている。
ロイドは速度を落とさず、その現象を目で追った。
通路全体が呼吸している。そう感じるほど、瘴気は規則的に動いていた。
やがて、通路の先に異物のようなものが見え始めた。
扉ではない。石の枠がアーチ状に立ち上がり、その内部に薄い膜が張られていた。水面を覗き込んだ時みたいに、向こう側の景色がゆらりと歪んで見えた。
空気そのものが揺らいでいる。壁の紋様から吸い込まれていた瘴気の流れが、最後にはそこへ集まっているのがわかった。
(……境界、か?)
ロイドが足を止めるより先に、ルーシャは半歩前へ出て、右手をかざした。指先の白い光が控えめに灯り、膜が僅かに揺れる。
それは拒絶ではなく、むしろこちらの存在を受け入れるように、膜が波打つ。
そして、ルーシャの白い光が吸われそうになった。
「……ッ」
ルーシャの眉が僅かに寄って、すぐに手を引いた。
引いた指先を握り込み、反射的に手を払うような仕草をしていた。
「ちょっと、大丈夫!?」
エレナが心配そうにルーシャに駆け寄った。
「すみません、大丈夫です。でも……ちょっと嫌な感じがしまして。触っておいて、正解でした」
ルーシャは苦笑しながら答え、指先を眺めた。
その声に動揺はない。だが、言葉の端に嫌悪感が混ざっているようにも見えた。さっきの番犬の瘴気とは別種の、触れただけで肌に残るような、不快な粘り。
「結界か?」
ロイドが尋ねると、ルーシャは境界の膜を見つめたまま、静かに頷いた。
「ううん……結界というより、神殿中の瘴気を集めて、ここに壁を作っているようです」
「通り道を塞ぐための仕掛けみたいなもんか?」
「そうですね。どちらかというと、その感覚に近いと思います」
彼女は同意し、右手を握り込んで開いている。
エレナが眉を顰めて訊いた。
「結局、この膜は何なの?」
「簡単に言うと、色んな毒がたくさん混じってる瘴気の膜、という感じでした。あ、私はすぐに浄化したので、平気ですよ?」
そう言ってルーシャは、先ほど膜に触れた右手を軽く見せ、にこりと微笑んだ。
その笑顔はいつも通りなのに、ロイドは目を細める。
さっき、彼女は膜に触れた瞬間に手を引いて、払っていた。あれは拒絶反応ではなく、一瞬だけ毒に侵されたのだ。
それに、ルーシャの光も吸い取っていたように見える。毒以外にも、魔力や体力も吸収する効果があると考えた方がいいだろう。
(何もせず通れば、それだけで身体に負担を掛けるってことか)
肌に触れるだけで蝕む類の瘴気。削り取られる体力と鈍る集中。
そういう地味な嫌がらせを、最後の最後に仕込んできたというわけか
ただ──それほど厄介な代物でもない。
必死に足掻いているのが透けて見えた。
ロイドたちを真正面から止められないから、少しでも弱らせたいのだろう。その努力が逆に、相手の焦りを証明していた。
「これ、絶対やばいやつだよね……い、一回引き返す?」
フランが喉を鳴らし、冗談めかした口調で言った。
肩越しに視線を向けてみると、その目は笑っていなかった。冗談の形を取っているだけで、本音も少しは混ざっているようだ。
ロイドとエレナが呆れたように返す。
「またあの雑魚どもの相手をしたいのか?」
「あと、あの気持ち悪い罠もね」
「それも嫌だけどぉ」
嘆くように言ったフランに、エレナが鼻で笑い、ルーシャも小さく口元を緩めた。
緊張の中に、ほんの少しだけ空気が緩む。そういう瞬間があるだけで、やはりだいぶ違うものだ。
「大丈夫ですよ。私たちなら、きっと勝てますから」
ルーシャが膜を見つめ直し、今度はまっすぐに言った。
その言葉にフランが唇を尖らせながら頷き、エレナも同意するように肩を竦めてみせる。
ロイドは、その様子を見ながら胸の奥で何かが落ち着くのを感じた。
怖がっていないわけではない。嫌な予感は確かにある。だが、それ以上に、仲間がここにいるという事実が、妙に頼もしかった。
「ロイド」
ルーシャがこちらを見上げてから、膜の方をちらりと見やった。
「ああ」
ロイドは頷いてから、自らの右手を見下ろした。さっきから、〈呪印〉がやたらと疼く。まるで『もう待てない』とでも言うみたいに、骨の奥から熱が滲み出ていた。
(……うるさい奴だな。わかったよ)
ロイドは小さく口角を上げ、境界へ向き直った。
迷いを見せるのは、柄じゃない。進むべき時は進む。それだけだ。
ロイドとルーシャは並ぶと、ふたりで薄い膜に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、膜が水面のように波打ち、黒い靄が糸を引くように絡みついてくる。冷たさとも熱さとも違う、内臓を撫でられるような不快感が背骨を走った。
だが、その〝嫌なもの〟を、〈呪印〉が喰らっていく。
手のひらの奥が開くような感覚とともに、膜を形作っていた瘴気が吸い寄せられていった。黒い粘りが、煙ではなく、何かの臓物みたいに引きちぎられ、ロイドの腕へと流れ込んでくる。
それと同時に、ルーシャの白い光が静かに重なった。〈浄灯〉の光がゆっくりとロイドの右手を包み込んでいき、〈呪印〉が喰い取った瘴気の残滓を洗い流していく。
黒が白に飲まれ、白が空気に溶けていって。次第に境界の膜は、抵抗する暇もなく痩せ細り、最後には糸が切れるみたいに、ふっと消えた。
「さて、これで丸裸だな」
ロイドは剣に手をかけ、奥を睨みつけた。
敵の切り札は、もうない。
あとは、親玉を倒すだけだ。




