第90話 魔犬王 スカルハウンド・ロード
扉を押し開けた瞬間、冷え切った空気が一気に流れ込んできた。回廊とは比べものにならない広さが、暗闇の向こうに口を開けている。
そこは広間だった。天井は高く、神殿として造られた頃の名残を感じさせるが、その上部には黒い靄が澱のように溜まり、ゆっくりと蠢いている。空気が重く、息を吸い込むだけで、肺の奥に煤のようなものが沈殿していく錯覚を覚えた。
壁面には、崩れ落ちた柱や倒れた祈りの像が無秩序に散らばっている。かつては誰かが跪き、祈りを捧げていたのだろう場所は、今や黒く焦げた石床だけを残して荒れ果てていた。
足を踏み入れた途端、ロイドの右手が嫌な熱を帯びる。〈呪印〉が、警戒とも嫌悪ともつかない反応を返していた。
(臭うな……)
鼻腔を突くのは、ただの瘴気ではない。死の気配と、焦げ付いたような熱が混ざり合った匂いだ。喉の奥がひりつき、思わず唾を飲み込む。
広間の中央に、大きな影があった。
最初は瓦礫の山にしか見えなかった。崩れた石材と骨片が折り重なっているだけの、無意味な塊。しかし、その影は微かに上下し、低く唸るような音を立てていた。
呼吸だ。そう理解した直後──暗闇の中に、青白い光が灯った。
眼窩の奥で小さな炎が点り、それが瞬く間に広がっていく。光が強まるにつれ、影の輪郭が見えてきた。
それは、燃え残った獣の形をした巨大な骸だった。焦げた骨格に、大きな犬のような形をしている。
そして──地面から、この世のものとは思えない咆哮が響き渡ってきた。
『グォォォォオオオオオオオンッッッ!!』
足元の石床に亀裂が走り、細かな砂塵が跳ね上がる。
広間の中央が盛り上がり、まるで地獄の蓋が押し破られるみたいに、影がせり上がった。
現れたのは、魔犬だった。
肉も血もない。あるのは、黒く煤けた骨格と、その隙間に絡みつく炎だけだ。背からは業火のような熱が揺らめき、身体の内側から燃えているようにも見える。
眼窩に灯る青白い炎は冷たく、視線を向けられただけで皮膚が粟立った。口を開けば、緑色の火が唾液みたいに垂れ、落ちた瞬間に石床を焦がして小さな音を立てている。
死と焦熱が混ざった臭気が、どっと押し寄せた。
この魔物のことは、話に聞いたことはあるが、実際に見るのは初めてだ。
魔犬王──またの名を、スカルハウンド・ロード。
(やれやれ……デカい番犬が出てきたもんだ)
ロイドは、肩を落として息を吐いた。
目の前のそれは、確かに如何にも〝番犬〟っぽい顔をしている。侵入者を許さないために置かれた門番。だが、少々大きすぎるのではないだろうか。存在感が、扉そのものより重い。
エレナの声が、喉の奥で引っかかったみたいに震える。
「う、嘘でしょ?」
「スカルハウンド・ロード、だよね……?」
フランも同じような反応だった。いつでも明るい彼女が、その表情に恐怖すら浮かべている。
どうしてだろうと思い返し、すぐに思い至る。
そういえば、彼女たちは一度こいつに苦汁を舐めさせられていたのだ。
詳細を聞いたわけではないが、ロイドを追放した後にトラッド遺跡に向かい──ちなみにロイド在籍時からユリウスはトラッド遺跡に行きたがっていたが、危険だと思いロイドが何度も反対していた過去がある──そこでユリウス一行は酷い目に遭ったそうだ。確かフランも深手を負ったと言っていた記憶がある。
エレナとフランの中では、その時の絶望の象徴としてスカルハウンド・ロードが今も尚存在し続けているのだろう。
「どうしたんですか?」
ふたりの様子がおかしいからだろう。ルーシャが心配そうに眉を寄せた。
「……あたしら、ロイドがいなくなってから一回こいつとやりあってるんだよ」
フランはいつもみたいに笑おうとしたが、口元が引きつっている。余程の恐怖を感じたのだろう。
「逃げるのが精一杯ってくらい、ボコボコにやられたわね」
エレナも自嘲的に笑い、番犬へと視線を送っていた。
それを聞いて、ルーシャが思わず息を呑む。
彼女にとって〝魔犬王〟は初見だ。だが、エレナとフランの反応で、その危険性を察したのだろう。
スカルハウンド・ロードが、ゆっくり首を持ち上げる。
骨の隙間から緑の炎が垂れ、床を焦がす音が広間に響いた。その音がやけに生々しい。
「こいつが親玉かな?」
フランが、ちらりとロイドの方を見て訊いた。
「いや……こいつはその番犬ってとこだろうな」
ロイドは答えると、右手の疼きを確かめた。
呪印が反応しているのは、目の前の魔犬だけではない。もっと奥。靄の向こう、広間の奥行きにもっと別の濃さがあるように感じた。
親玉は、この先にいる。こいつは謂わば、そこに立ちはだかる門番みたいなものだ。
「こいつが番犬って……親玉、どれだけ強いのよ」
フランが頬を引き攣らせると、スカルハウンド・ロードの眼窩の火が強まった。
理解されたことへの苛立ちか、或いは食べ物が逃げないと確信した歓喜か。そこまではわからなかった。
「どうする? こいつも相当ヤバいわよ?」
エレナが不安そうに呟く。
いつもなら軽口で誤魔化すのに、今はその声さえも硬い。
「どうする、か……」
ロイドはじっとスカルハウンド・ロードを睨んだ。
骨格の厚み。炎の質。空気の歪み方。足元を伝う圧。
確かに、強いのだとは思う。だが──。
そこで、隣のルーシャと目が合う。
まるでこちらの意図を汲み取ったかのように、彼女は何も言わず、こくりと頷いた。
(全く……さすがだな)
ロイドは思わず口角を上げる。
言葉にしなくても伝わるというのがこれほど嬉しいとは思いも寄らなかった。
そして、仲間たちへ背を向けないまま、低く告げた。
「……下がってろ。俺とルーシャだけでやる」
「はい」
ルーシャは少しだけ困ったように笑い、ロイドの隣に並んだ。
「は?」
「本気?」
フランが目を丸くし、エレナが一瞬だけ唖然とする。
「本気さ。こんな雑魚に、お前らの魔力を使わせるわけにはいかないからな」
ロイドはにやりと笑って、魔剣〝ルクード〟を抜いた。
刃が空気を裂く。
漆黒の刃は、青白い炎の光を受けて鈍く光り、床に影を落とした。
その影が、スカルハウンド・ロードの骨の輪郭と重なる。
こちらの敵意を察したスカルハウンド・ロードが唸り、前脚を踏み出した。
石床が、じゅ、と音を立てて焦げていく。緑の炎が尾を引き、広間に腐った熱を撒き散らした。
「行くぞ、ルーシャ。くれぐれも無茶するなよ」
「それはこっちの台詞です。無茶するのはいっつもロイドじゃないですか」
ルーシャが咎めるように返し、手のひらを番犬へと向けた。
その横顔は自信で満ちていて、うっすらと笑みさえ浮かんでいる。
きっと、ロイドと同じものを感じたのだろう。
「……今日は、控えめにしておくよ」
ロイドも軽口を叩きつつ、重心を落とした。
びりびりと疼く右手の痛みと熱が、今は嫌じゃなかった。血が巡り、筋肉が覚醒し、視界が研ぎ澄まされていく。
スカルハウンド・ロードを見た瞬間、確信したのだ。
自分たちがこんな奴に負けるはずがない、と。




