第89話 回廊の先に
魔物を倒しながら暫く進むと、回廊はいつの間にか曲がり角の少ない直線に近い形へ変わっていた。
魔物がいない代わりに、逃げ道を作らせないと言わんばかりに左右の壁は湿り気を帯びていて、石の継ぎ目から滲む瘴気がゆっくりと脈打っている。さっきまで幻惑を生んでいた黒い膜は剥がれたはずなのに、今度は別の圧が押し寄せてきた。
ルーシャの〈浄灯〉が、淡く揺れる。光が揺れるたび、壁の瘴気が嫌そうに退くのが見えた。
それでも、完全には消えない。まるで「ここから先は違う」とでも告げるように、一定の濃さを保っていた。
ロイドの〈呪印〉が、ぞくりと熱を帯びた。
さっきまでの時とは質が違う、もっと原始的で、もっと直球の──〝餌〟を嗅ぎつけた獣みたいな反応だった。
(……近いな)
直感が、背骨を叩く。
足元から伝わってくる微細な振動や壁から滲む瘴気の流れ、それから空気の湿度。その全てが、ひとつの場所へ向かって収束していた。
「なんかさー。ここ歩いてると、背中に視線刺さってる感じしない?」
フランが前を歩きながら、わざと明るく言った。
「ええ。この通りに入ったあたりから、ずっとね。何だか覗き見をされている気分だわ」
「お風呂覗かれてる時とかこんな感じなのかなー」
「やめてよ、気持ち悪い。想像しただけで吐き気がしてきたわ」
エレナがすかさず軽口で返す。
軽口の形をした確認。それができるあたり、ふたりは本当に息が合うのだと思う。
「ルーシャも、覗き魔は許せないよね?」
「もちろんです!」
フランの軽口に、ルーシャも乗っかる。尤も、ルーシャは大真面目に答えただけなのだろうが。
(ったく……どこまでお気楽なんだか)
ロイドは後ろの会話に耳を傾けつつ、短く息を吐いた。
会話的に男として入りにくいというのは確かにあったのだけれど、ここの空気の冷たさが楽観的になることを許してくれない。
この直線の回廊に入ってから気温が下がったように思う。寒いのではなく、冷たい感じだ。皮膚の表面ではなく、骨の内側を冷やしてくるような冷たさがある。
彼女らもそれを感じているからこそ、軽口で紛らわせているのかもしれないが。
さらに歩くこと数分──回廊の先が、ゆっくりと開けた。
そこにあったのは、大きな扉だった。
ただの通路の終端ではない。神殿の奥に置かれるべきものが、無理やり地下に埋め込まれたような圧倒的な存在感だった。
石造りの扉は半ば崩れかけている。左右の柱はひび割れ、上部のアーチも欠けて、隙間から黒紫の瘴気が漏れていた。
それは霧というより、粘り気のある煙だ。重く沈み、床を這い、ゆっくりと呼吸するように膨らんでは縮む。
いや。
呼吸しているのは、瘴気だけではない。
扉そのものが、内側から脈打っているような感覚があった。
無機物にも関わらず、それでもロイドの感覚が脈だと告げてくる。
「──ッ!?」
びくん、と右手の〈呪印〉が、跳ねた。
今までとは比べものにならない。肉を抉るみたいな疼きと骨に爪を立てるみたいな熱。喉の奥に鉄錆の味が広がり、視界の隅が一瞬だけ暗くなる。
(ようやくお出ましか……?)
言葉にしなくても、わかる。
ここまでの罠も、幻惑も、全部がこの扉へ繋がっていた。
ロイドは足を止め、剣を構える前に、一度だけ仲間たちへ視線を向けた。
彼女たちも何かを感じ取ったのだろう。
フランは鉄槌の柄を握り直し、エレナは杖先を床へ向け、ルーシャは光を揺らさぬよう呼吸を整えている。
「……この奥に、相当な奴がいる。準備はいいか?」
ロイドは低い声で告げた。
自分の声が、少しだけ硬かった。
怖いわけではない。だが、身体が勝手に決闘を前にした形へと収束していく。
「ここまで来ておいて、今更怖気づくと思う?」
フランが口角を上げて応えた。
その軽さが、今は頼もしい。
エレナも肩を竦めて続いた。
「まあ、それもそうね。帰るのも大変だし、倒した方が早いんじゃないかしら」
ふたりは顔を見合わせ、まるでいつもの仕事の段取りを確認するみたいに、軽口を叩き合った。
だが、その目は笑っていない。
覚悟を決めた目だ。
ロイドは最後に、ルーシャを見た。
彼女は、もちろん怯えてなどおらず……穏やかな表情を浮かべていた。
聖女としての役割を背負っているというより、ひとりの仲間として、ここに立っているような表情。
「皆で帰りましょう」
ルーシャはにこやかに頷き、短く言った。
その言葉が、胸に落ちた。
シンプルで当たり前で、それなのに──今までロイドが一番言えなかった言葉と、同じ形をしている。
ロイドは小さく息を吐いて、頷く。
「ああ、もちろんだ。皆で、な」
──皆で。
その音が、自分の口から自然に出たことに、ロイドは一瞬だけ驚いた。
昔だったら言えなかった。
自分が誰かの仲間になる資格なんてないと思っていたから。追放された後も、勝手に切り離されたと思い込んでいた。
だが、今は違う。
ここにいるのは、互いに背中を預けられる仲間で。
失敗しても笑えて。
不安や迷いに襲われても、袖を掴んで引き戻してくれる。
(何だか……今が一番楽しいのかもな)
そんな実感を持ちつつ、ロイドは扉へ向き直った。
濃い瘴気が隙間から漏れ、紫黒に光っている。〈浄灯〉がその濁りに触れる度、じゅ、と嫌な音がした。浄化されているのに、それが全く追いついていない。
扉の前に立っただけで、圧がのしかかってきた。
胸の奥が、僅かに軋む。
それでも、引くわけにはいかなかった。
右手の〈呪印〉が、興奮したみたいに熱を増す。
喰える。喰わなければならない。
そんな衝動が、腕の中でうごめいた。
(落ち着け)
ロイドは心の中で自分に言い聞かせ、扉へ手を伸ばす。
石の表面は冷たかった。いや、冷たいを通り越して、触れた指先の温度を奪っていく。
その時。
中から、低い唸り声が漏れた。
獣の声だ。
いや──笑い声にも聞こえる。
こちらを迎え入れるのではなく、歓迎するのでもなく、〝待っていた〟という響きさえあった。
フランが息を呑み、エレナが杖を握り直す。ルーシャは顔を引き締め、手元の光を一段と強めた。
「……行くか」
ロイドは扉に力を込めた。
ぎ、と石が軋む。
崩れかけた扉が、抵抗する。
それでも押し開けると、隙間が生まれ――そこから紫黒の光が、ほとばしった。
瘴気が噴き出し、空気が一瞬で染まる。
奥にある何かが、目を開けたような気配。
ロイドの右手が熱を帯びる。〈呪印〉が──もう待てない、と告げていた。




