第87話 漆黒の剣を掲げる剣士と、光を携える聖女
罠地帯を抜けた瞬間、空気の質が変わった。
瘴気の滴が落ちる音が遠ざかり、代わりに、石造りの回廊が持つ古い静けさが戻ってくる。壁の黒ずみはまだ残っているが、あれほど喉に張りついていた苦味が、急に薄まった。
ロイドは足を止め、周囲を一度だけ見回す。
回廊の先に、小さな扉のような開口部があった。半分崩れた石柱に囲まれた空間で、外側の暗さに比べれば、そこは奇妙なほど乾いていた。
ルーシャの光の球が、ふわりとその場所へ漂う。
光が触れた瞬間、壁の瘴気が嫌がるように退いた。まるで、その空間だけはまだ女神の息が残っているみたいだった。
「ここだけ瘴気が消えてるな。ちょっと休むか」
「ですね。女神様のご加護が残ってるみたいです」
ロイドの提案に、ルーシャが目を柔らかく細めた。
中に入ってみると、その小部屋は〝祈の間〟という言葉がしっくり来た。
正面の奥には、小さな女神像が鎮座している。翼と円環──先ほどとおってきた回廊の壁に刻まれていたものと同じ意匠だ。
ただ、ここではそれがまだ形を保っていた。風化しているとはいえ、女神の輪郭がかろうじて残り、ひび割れた石に祈りの名残が染み込んでいる。
ルーシャは像の前へ進み、膝をついた。
両手を胸の前で組み、静かに祈る。だが、彼女が息を整えた瞬間、空気が少しだけ澄んだ気がした。
横ではフランが慌てて同じように膝をついた。
〝白聖女〟の振る舞いを見て、慌てて自分も神官であることを思い出したのだろう。こういうところが、彼女らしい。
エレナは祈らず、その代わりに壁際へ回って周囲の魔力を探っていた。ここが安全圏かどうかを確認してくれているのだろう。こういったところが彼女に後衛を任せられる所以である。
昔だったら、それもロイドがやっていたことではあるが──今は、仲間たちの方が頼りになるくらいだ。
(んじゃ……俺は休ませてもらうかな)
ロイドはその様子を見ながら、背中を石壁へ預けた。
先ほどの罠地帯は、面倒だった。踏ませたい石、誘導したい場所。瘴気の手は、その意思を隠さなかった。
つまり、奥にいる親玉は、こちらの反応を試していると見て間違いない。隊列、判断、連携、役割──その全てを。
(厄介なもんだ……)
今は、束の間の休息といったところだろうか。この休息だって、もしかすると休まされているのかもしれない。
休ませることで油断させている可能性もあった。或いは、今のうちに何らかの準備をしているのかもしれない。
嫌な予感は、拭えなかった。だが、それでも休める時に休んでおかないと、いざという時に力が発揮できない。
ルーシャが祈りを終え、静かに立ち上がった。
フランもそれに合わせて立ち上がり、ふたり同時に一度だけ女神像へ頭を下げる。
これもきっと、作法なのだろう。ただ、ふたりの動きが完全に合致していたので、ロイドは心の中だけで笑った。
ルーシャは荷物を下ろし、水筒を取り出す。
そして、簡素な携行食──村人にもらった干し肉とパンの包み──を取り出して、三人へ手渡していく。
乾いた肉の匂いが、小部屋に広がった。
瘴気の臭いに慣れてしまっていたせいか、それだけで少し生き返る。
「せっかくもらったご飯なのに、こんな場所だと味が落ちちゃうよね」
フランがパンを受け取って、ぶつぶつ言う。
だが、その手はもう半分口へ運ぶ準備をしていた。
エレナが呆れたように指摘する。
「文句言いながらもしっかり食べてるじゃない」
「そりゃ食べるでしょ! お腹空いたら戦えないし!」
フランは開き直るように言い、干し肉を噛み切った。
歯ごたえのある音が、やけに大きく響く。
「いいから、黙って食えっての。もう休める機会なんて多分ないんだからな」
ロイドはパンを口に運びながら、呆れつつ言った。
自分の声が少しだけ硬いのは、疲労のせいだけではない。奥へ進むほど、〈呪印〉が反応を強めている。
たった今、瘴気の空気が軽くなったこの場所でさえ、右手の奥ではうっすらと味を感じていた。
「ロイドも、もう少し気を休めてください。ここなら安心ですから」
ルーシャは言って、水筒を差し出した。
「まあ……それもそうなんだけどな」
ロイドはそれを受け取って喉を潤す。冷たい水が食道を落ちていく感覚が、現実を戻してくれる。
エレナとフランが何やら言い合っているのを眺めていると、ふとルーシャと目が合った。
ロイドが苦笑してみせると、ルーシャも小さく笑い返す。
(きっと、エレナとフランは〝なんでも屋〟をやってる時も、ずっとこんな感じなんだろうな)
空気を張り詰めすぎず、必要な時にちゃんと引き締め、抜くべきところで抜く。
それは生き残るための知恵であり、仲間の形でもあった。仲の良い彼女たちだからこその関係性だろう。
食べ終えてしばらくすると、フランとエレナが壁の方へ歩いていった。
祈りの間の壁にもレリーフが刻まれていた。回廊のそれと同じく、祈る人々や、光を掲げる聖女の姿がそこに描かれている。
ただ、ここは小部屋だからなのか、風化が少なかった。線がまだ残っている。
「これもきっと、昔は綺麗だったんだろうなぁ」
フランが壁に近づき、眺めながら呟く。
「そうね……って、ちょっと待って」
エレナが頷きかけて――その途中で、声色を変えた。
空気が一段落ちる。
ロイドは反射的に剣へ手を伸ばしかけ、すぐに止めた。
エレナの反応的に、敵襲ではなさそうだ。
ルーシャも同じように顔を上げる。
ふたりでエレナのもとへ歩み寄った。
「……?」
ルーシャが小首を傾げた。
「これが、どうしかしたか?」
ロイドもレリーフへ視線を向け、短く訊いた。
エレナは杖先でレリーフの一部を指し示す。
そこには、光を掲げる聖女の横に、剣士の姿が彫られていた。
「これ、あなたの剣にそっくりじゃない?」
「そんなバカな」
ロイドは即座に否定しかけて──言葉を飲み込んだ。
確かに、似ている。
漆黒の刃と無駄のない直線的な意匠。柄の装飾まで、驚くほど一致していた。
レリーフの剣は石の影で黒く見えるだけかもしれないが、その形状があまりにも──魔剣〝ルクード〟に近すぎる。
「確かに、似てますね」
ルーシャが、息を潜めるようにに言った。
フランもぐいっと身を乗り出し、指差して声を上げる。
「あ、ほんとだ! これ、柄のところとか殆ど同じじゃない? ……っていうか」
その言葉の途中で、フランとエレナが同時にロイドとルーシャを見る。
ふたりとも、同じような顔をしていた。
変なものを見た時の顔。確信に近いものを掴んだ時の顔。
ロイドは眉を顰めた。
「ん?」
「私たちが、どうかしましたか?」
ルーシャも、何もわかっていないまま訊き返す。
そこで、エレナが溜め息を吐いた。
まるで、『そこからか』と言いたげだ。
「剣だけじゃなくて……ふたりにそっくりなんだよ」
フランがエレナの言葉を代弁して、言った。
「はぁ?」
思わずロイドは間の抜けた声を漏らしてしまった。
ルーシャも反射で否定しようとする。
「何言ってるんですか。そんなことあるわけ──」
だが、言葉が途中で止まる。
ルーシャの視線がレリーフへ吸い寄せられたからだ。
ロイドも同じだった。
古いレリーフは掠れていて、顔立ちまでははっきり残っていない。だが、聖女の佇まい──柔らかな姿勢と、光を掲げる指先の繊細さ、それから剣士の方も前へ出るような体重の乗せ方と、剣を構える角度が、どこかロイドの癖に似ている。
(……いや、こじつけだろ)
そう思うのに、似ていると言われた途端、似て見える。人の目なんて、そんなものだ。そう思ったのに──決定的なものが、あった。
黒剣を持つ剣士の右手。
そこに、模様が刻まれていた。
渦を巻くような線。刻印のような、呪いのような──見慣れた形。
「ロイド……これって」
ルーシャの声が震えた。
「ああ。俺の〈呪印〉にそっくりだ」
ロイドは息を呑み、低く答える。
空気が、止まった。
聖女と〈呪印〉。
そんな組み合わせが、そうそうあるはずがない。偶然にしては出来過ぎていた。
そう思った瞬間、背中の奥がぞくりと冷える。
その沈黙を割ったのは、エレナだった。
彼女はレリーフを見上げたまま、ゆっくりと口を開く。
「──黒の呪いと白の奇跡が交わる時、世界は救われる」
「え?」
ロイドとルーシャが同時にエレナを向いた。
その言葉が、祈りの間に妙に響いたからだ。
フランが思い出したように手を叩いた。
「あ、それ前にも言ってたよね!」
「ええ。昔読んだ呪いに関する書籍に書かれていた一節よ」
エレナは頷き、ロイドとルーシャを見比べる。
黒の呪いと白の奇跡。そんな言葉を聞いたのは初めてだ。
だが、このレリーフ、黒の呪い、白の奇跡、〈呪印〉、〝白聖女〟……それらが揃うと、途端に全てが合致してきてしまう。
「もしかしたら……あなたたちが出会ったことって、もっと特別な意味があるのかもしれないわね?」
エレナは、意味ありげに呟いた。
「俺と……ルーシャが?」
ロイドとルーシャは、思わず顔を見合わせた。
ルーシャの瞳が、ほんのわずか揺れている。
ただ偶然出会っただけだと思っていた。
追放された自分と、追われていた聖女。
助けて、守って、気づけば隣にいて、結ばれて──それだけのはずだった。
だが、初めてルーシャを見た時、ロイドは何を感じただろうか?
守らなければ、という胸の奥を刺した使命感のような衝動。あれが単なる気まぐれではなく、何かに導かれたものだとしたら。
ロイドは、首を振るようにして否定する。
「いや……偶然だろ」
「さすがにこの絵だけで決めつけるのは、私もちょっと……」
ルーシャも、慌てて同意するように言った。
その言葉に、エレナがふっと頬を綻ばせる。
先ほどまでの真剣さが、どこか悪戯っぽい色に変わった。
「あら。てっきり『私たち、前世から結ばれていたのね!』ってまたラブラブするかと思ったのに」
「え!? 冗談だったの!?」
エレナの軽口に、フランが目を丸くした。
「私だって、学者の端くれよ? この絵と本の一節だけでそこまで決めつけるわけないじゃない」
エレナは肩を竦めた。
冗談だとわかって、ルーシャの頬がみるみる赤くなる。
「もう、からかわないでくださいっ!」
怒っているけれど、それは柔らかくて。
フランが笑い、エレナも口元を緩める。
ロイドも、釣られて息を吐いた。
祈りの間に、ようやく人間らしい温度が戻った。
(いやいや、さすがにないって……)
ロイドはそう自分に言い聞かせながら、レリーフを仰ぎ見た。
漆黒の剣を掲げる剣士と、光を携える聖女。
掠れた線の向こうで、ふたりは確かに〝並んで〟いた。
偶然だ。
きっと、ただの偶然。
そうでなければ、この先に待っているものの意味が重くなりすぎる。
(世界を救うだとか何だとか……そういうのは、柄じゃないんだ。俺はただ──)
ロイドは、無意識に右手を握る。
〈呪印〉が、微かに熱を持ったような気がした。
(ルーシャと一緒に、いたいだけなんだよ)
そんな願望にも似た思いをそっと心の奥にしまって。
女神像を、見上げた。




