第86話 ふたりの成長
広間を抜けた先の回廊は、また形を変えていた。
天井がぐっと低くなり、通路は細長い。左右の壁が近く、肩をすぼめて歩きたくなるほど圧迫感がある。
そして──水滴の音が、さっきよりはっきりしていた。
ぽと。ぽと、ぽと。
落ちてくるのは水ではない。
黒ずんだ滴だ。瘴気が液体になりきれず、天井から滲み落ちていた。
落ちた場所の石畳が、じわりと黒く染まる。
ロイドは足を止めた。呼吸の奥に、鉄錆びた臭いが混じる。
ルーシャの〈浄灯〉があるとはいえ、これは質が悪い。粘り気があるし、まるで腐った蜂蜜みたいに、光の加護そのものを弱めてくる。
ぽと──滴が落ちた場所から、黒い〝何か〟が生まれた。
霧が凝縮し、指のように細い触手が伸びる。
手のひらほどの大きさで、石畳を這うようにうごめき、ひょい、と起き上がった。
それは、小さな手だった。人の子どもの手を模したような、指の本数だけ整った瘴気の手。
当然、こちらの心理としてはその手を避けて歩こうとするのだが──。
(罠、だな……)
ロイドが声を出そうとした、その時だった。
「待って」
フランが先に声を張った。
鉄槌を担いだまま前へ一歩踏み出しかけて、すぐに動きを止める。
彼女は、軽い調子のままなのに目だけが真剣だった。
床の石畳を見下ろし、首を傾げる。
石の継ぎ目。色。濡れ方。瘴気の流れ。足元に落ちた滴が、どこへ流れていくのかを、見ているのだろう。
「……この床、怪しいかも。なんか誘導されてる感じがする」
フランがぽつりと言う。
ロイドは内心で小さく頷いた。確かに、瘴気の手が生まれる位置が不自然だった。まるで、踏ませるべき場所を示しているようだ。
フランが顔を上げ、後ろを振り返る。
「エレナ、お願い」
「了解よ」
エレナが杖を軽く掲げ、魔力を薄く床へ流した。
広範囲に強い魔法を放てば回廊が崩れるが、こうして糸みたいに細い魔力で撫でれば問題ない。エレナもエレナなりに考えているようだった。
石畳の下を探るように、じわじわと探査していく。
すると──何枚かの石の下で、魔力が跳ねた。
ぴり、と。目に見えない針で刺されたような反応。
エレナの眉がぴくりと上がった。
「……あるわね。踏むと瘴気が爆ぜるタイプの罠。しかも、複数」
彼女の声は低かった。
冗談抜きで危険だ。爆ぜた瞬間に瘴気の手が一斉に伸びてきて、〈浄灯〉を掻き消す魂胆なのかもしれない。そうなれば、こちらとしてもかなり苦しい局面を迎えることなっただろう。
「どうしよっか?」
「それならここを……」
フランとエレナが、何やらふたりで作戦会議をしていた。
そんなふたりを見て、ロイドはふと思う。
(へぇ……ちゃんと成長してるんだな)
こういう罠の処理は、全てロイドの役割だった。
ユリウスのパーティーにいた頃の彼女たちはまだまだ未熟で、戦闘にしか気が回っていなかった。罠を見極めるところまで、余裕がなかったのだ。
だが、今の彼女たちからは、そんな未熟さは微塵も感じない。ロイド追放後、あのパーティーはあのパーティーで色々な局面で戦ってきたのだろう。
或いは、本当はそれくらいの力があったのに、ロイドが過保護すぎたが故に彼女たちも力を発揮できなかったのかもしれない。
(……任せてみるか)
ロイドは、あえて前に出なかった。
剣の柄に手を置いたまま、フランとエレナの判断を見守る。
ふたりは床を見比べ、回避ルートを決めた。
罠の石は、微妙に色が濃い。継ぎ目に瘴気が溜まりやすく、滴の落ちる位置もそこへ寄っていると気付いた。
逆に安全そうな石は乾いていて、瘴気の手が近寄っていない。
「よし。じゃあ、この石とこの石の上だけ踏んで、ここは跳んじゃおう」
フランが前衛として誘導役を担う。
軽い調子だが、足運びは驚くほど丁寧だった。
「いくよー。……うっわ、キモ」
瘴気の手が、フランの足元へ伸びようとする。
しかし、ルーシャの光の輪に触れた瞬間、指先が焼けたみたいに縮んだ。
じゅ、と小さく音がして、霧へ戻る。
先導すべく、フランが先に進んでいった。
石と石の上を選び、危ない場所は跳ぶ。鉄槌の重みがあるのに、体幹がぶれていなかった。
その背中を見つつ、ルーシャがロイドへそっと顔を寄せた。
「頼もしいですね」
耳元の声が、妙に近い。
ロイドは短く息を吐いて答える。
「ああ。俺たちも行くぞ」
そのままロイドはルーシャの手を取った。
指先がひやりとしていて、すぐに温かくなる。
ここが敵陣のど真ん中だというのに、その温もりはいつもと変わらなくて、どこか落ち着いてきてしまった。
ロイドは罠の石を見極めながら、ルーシャを輪の中心に保つように歩幅を調整した。
後ろではエレナが一番最後につき、万が一踏み抜いた場合に即座に結界を張れるよう、詠唱を完成させ構えている。
ぽと。
ぽと、ぽと。
天井から落ちる瘴気の滴は、気まぐれみたいに落下地点を変えた。
落ちるたびに小さな手が生まれ、石畳を這う。
それらは輪の外をうろつき、時折、境界線を探るように指を伸ばしてきた。
(この手から、逆に踏ませたい場所を逆算できるな)
罠がある石は、狙って落とされている。
これらには、明らかな意思があった。奥の親玉がこちらを観察しているのがよくわかる。
その緊張が、ふいに崩れた。
「あっ、やばっ!」
フランが声を上げた。
跳ぶはずの場所で、ほんの少しバランスを崩したのだ。
足が、罠の石へ吸い込まれる。
「おっと」
ロイドは咄嗟に動いていた。
腕を伸ばし、フランの腕を掴んで引き戻す。
ぎりぎりで踏まずに済んだ。が、ロイドのもう片方の手はルーシャと繋いでいるので、こちらのバランスも考慮せねばならなかった。フランの立ち位置を確保してやりつつ、ルーシャの方も足場を安定させ、ほっと安堵の息を吐く。
罠の石の上で瘴気の手がわさ、と生まれかけたが、すぐに霧へ散った。
「あぶなー! ありがと、ロイド」
フランが大きく溜め息を吐いて、苦笑いを浮かべた。
全く、不注意にも程がある。
ロイドは手を離し、彼女が体勢を整えるのを見届けた。
「肝心なとこが抜けてるよなぁ、お前」
「うるさいなぁ。たまたまだよ、たまたま」
フランが頬を膨らませる。
だが、後ろから容赦ない声が飛んできた。もちろん、エレナだ。
「たまたまで罠踏まれたらこっちは大迷惑なんだけど?」
「うぅ……ごめんって」
フランがしょんぼりして肩を落とすと、ルーシャがくすくす笑った。
その笑いは、すぐに他の三人にも柔らかく広がっていく。
瘴気の滴の音すら、ほんの一瞬遠のいた気がした。
(……仲間って、いいな)
失敗しそうになっても、怒鳴り合わずに笑い合える。
油断は禁物だが、緊張の中でも余白を持たせることは大切だ。その余白が足元の暗さを薄めて、柔軟な対応力を産んでくれる。
ロイドは、握ったままだったルーシャの手を軽く引き、もう一歩前へ進めた。光の輪が、ふわりとそれに追随する。
「足元、気をつけろよ」
「はい」
ルーシャは照れくさそうにはにかんで、小さく頷いた。
そして四人は、瘴気の滴が落ちる細長い回廊を、慎重に、しかし確かに──奥へ進んでいった。




