第9話 ふたりでのんびり夜営
その日は一日中歩き通しだった。
馬に乗っているとはいえ、この彷徨うような逃亡劇はきついものがある。街道や大通りを避け、農道や林道──時には、ただ獣が通っただけの痕跡すら頼りに、深い森を縫うように進んでいた。
当然ながら、馬が走れるような場所ではないので、距離に対して進みは遅くなる。鬱蒼とした木々が行く手を阻み、ロイドは何度も枝を手で払いながら進まねばならなかった。
枝葉の擦れる音や鳥の鳴き声に驚いてか、時折びくりと前に座るルーシャの肩が揺れる。それでも体勢を崩さぬよう、彼女は必死に姿勢を保ち、後ろにいるロイドに気遣って耐えてくれていた。そんな彼女の健気なところに、ロイドの頬も思わず緩んだ。
太陽が西に傾きかけた頃、ロイドは森の奥に少し開けた場所を見つけて、立ち止まった。
ロイドは先に馬から降りてから、ルーシャに手を差し伸べた。
「今日はここらで夜営にしようか。ルーシャも限界だろ?」
ルーシャはきょとんとした表情を浮かべ、それからロイドの手をそっと取った。
馬から軽やかに降りると、僅かに頬を赤らめながら、気恥ずかしそうにはにかんだ。
「……はい。実は、先ほどから何度も舟を漕いじゃってました」
実は、ロイドもそれには気付いていた。
聞いたところ、ルーシャは昨夜寝ておらず、その前日も徹夜だったそうだ。
二徹しているのはロイドも同じだが、鍛えている分まだ余裕がある。だが、彼女の華奢な身体ではもう限界だろう。これ以上無理をしてもいいことがない。
「ただ、まあ……あんまりゆっくり寝れる場所でもないんだよな、ここも」
「どういうことですか?」
「これだけ森の深い場所までくると、魔物やら獣も多いからな……一応俺は見張っておくつもりだけど、下手するとすぐに叩き起こすことになるかもしれない」
街道付近で夜営をするならともかく、ここまで森の深部は魔物や動物たちの領域だ。寝込みを襲われるリスクの方が遥かに高い。
ふたりとも寝てしまい、起きた時には魔物の腹の中だった──というのは、さすがに冗談でも笑えない。
「それなら、私に任せてください!」
ロイドの懸念を聞くと、ルーシャは明るい声音でそう言った。
「任せるって?」
「魔除けの結界を張れば大丈夫です。私がこれまで逃げてこれたのは、これのお陰と言っても過言ではありませんから」
ルーシャは言うと、地面にゆっくりと膝を突いて、懐から祈祷用の聖印を取り出した。聖印を地面に置いて目を閉じると、祈りの言葉を紡いでゆく。
「大地を統べる母なる御方よ……我らを邪なる者から守りたまえ。〈破邪の結界〉」
そう小さく彼女が呟くと、光の粒子がふわりと舞った。ルーシャを中心に、結界のような膜が張られていく。
結界が完成すると、辺りの空気が僅かに変わった気がした。どこか穏やかで、静謐な気配が漂っていて、危険な森の中とは思えないような、穏やかな感覚を覚えた。
「これで大丈夫です。魔物や獣は、この結界には近付けませんから」
「……本当かよ」
「はい。私が今まで捕まらなかったのって、これのお陰なんですよ?」
胡散臭げなロイドに対して、ルーシャは自信ありげに頷いてみせる。
曰く、彼女が地下牢を出てから数日間の逃亡生活を無事に過ごせたのも、この神聖魔法による結界の力が大きいらしい。この結界を張っていれば、魔物は近寄ってこれない。そのため、本来なら危険が多いとされる深い森の中でも夜営ができる。そうして人通りが少ない場所を移動し続けて、これまで生きながらえてきたのだという。昨夜神官騎士たちに見つかってしまったのは、街道付近に偶然出たところを運悪く見つかってしまったようだ。
「んじゃ、まあ夕飯でも食って今日はゆっくり寝るか」
「はい! 私、お腹ぺこぺこです」
「俺もだよ」
ロイドは苦笑いを浮かべつつ、馬の荷から干し肉と干し果物の包みを取り出した。
ふたりで調理しようと食材を並べるが──料理と呼べるほどの手の込んだことはできない。火を起こし、湯を沸かし、干し肉を刻んで放り込むだけだ。
「よかったら、これも使ってください」
そう言ってルーシャが差し出したのは、小瓶に入った香草と乾燥させた野菜だった。どうやら、逃亡生活中に採取していたらしい。
「へえ……こういうの、得意なのか?」
「得意というか、修道院では調理も修行の一環でして。食材が限られている中、どうやって美味しく仕上げるかをいつも考えさせられていました」
「じゃあ、今回は任せてもいいか?」
「はい! 頑張りますっ」
ロイドが素直に材料を預けると、ルーシャは慣れた手つきで干し肉を細かく裂き、果物と香草、乾燥野菜を入れ、軽く味を整える。
鍋からはパチパチと小さな音が聞こえ、立ちのぼる湯気の中に、果物の甘酸っぱさと香草の爽やかさが重なって、腹の底から食欲を擽ってくる。
「……美味そうだな」
「お口に合うといいのですが」
木製の椀にスープを注ぎながら、ルーシャが不安そうに言う。
ただ、結構料理は得意なのだろう。疲れているはずなのに、調理している時は活き活きとしているように見えた。
もしかすると、案外聖女だなんだという仰々しいことよりも、もっと庶民的な生き方の方が合っているのかもしれない。
ロイドが椀を取って食そうとすると、ルーシャが静かに手を合わせた。
「……今日の恵みに、感謝を。リーファ様の導きがありますように」
食事前の大地母神リーファ教の作法だ。
そういえば、パーティーの仲間たちも皆こんなことを言っていた。〝影の一族〟として隠れ里で育ったロイドにはない習慣だった。
これまでは無視していたが、さすがに聖女様の前で作法を無視するわけにもいかない。ロイドも真似るように手を合わせてから、スープを口に含んだ。
「……美味い。なんだこれ」
「そですか。お口に合って、よかったです」
ルーシャは安堵したように、柔らかく微笑んだ。
実際、できあがったスープは予想以上に美味しかった。
干し肉の凝縮された塩気が旨みに変わり、果物のほんのりとした甘さがそれを柔らかく包み込む。香草の爽やかな香りが後味にふわりと残り、ひと口ごとに、じんわりと疲れた身体へ染み渡っていった。まるで冷えた魂を、内側からじわじわと温められているかのようだ。
森の中に張られた静かな結界の中、ふたりでささやかな食事を共にする。
思えば、誰かとこんな風に食事をしたのは久しぶりだった。ましてや、こうして素直に「美味しい」と感じられる料理を食べたのは、いつ以来だろう?
もちろん、パーティーメンバーたちと食事を共にしたことはあるが、ロイドはいつも外様扱いだった。仲間だと感じたことは、正直あまりない。
「……今日も一日、無事に過ごせました。母なるリーファに感謝を」
食事が終わると、ルーシャはそっと祈るように手を合わせて感謝の言葉を述べる。
ロイドはその声に何も言わなかった。ただ、代わりに焚き火の中に細く削った薪を一本、静かにくべた。
夜はまだ長い。それでも──こうして誰かと共に食べ、火を囲み、眠れる夜は、どこかあたたかかった。




