とら
まわりは、すっかり暗くなっていた。
街灯の灯りもベンチまでは届かない。
それでも僕は、まだベンチに座っていた。
猫は、僕のひざの上にいて、ぬくもりだけがそこにあった。
誰も、僕のことを探しには来ない。
ずっとこうしていても、きっと誰にも気づかれない。
お父さんも、お母さんも、僕のことなんか必要としていない。
おばあちゃんは、どうかな……。
行くって、お母さん、伝えてくれたんだろうか。
……また、忘れちゃってるかもしれない。
僕と猫だけが、この世にいるみたいだ──
そんなふうに感じていた。
遠くから、声がした。
「とらー」
誰かが、誰かを呼んでいた。
それまで、ぺったりと寝ていた猫の耳が
ぴくりと動いて、上半身を起こす。
「とらー」
もう一度、声が聞こえたとき、
猫は「なぁーん」と鳴いた。
「とら、おまえ、そっちかあ」
声は、だんだん近づいてくる。
そのたびに、猫──とらは、「なあーん」と応えるように鳴いた。
僕は、とらの頭をそっと撫でて、
小さくささやいた。
「……おまえ、とらなの?」
ん
とらはもう一度、「なあーん」と鳴いた。
まるで、そうだよって言ってるみたいに。
僕には、家族が呼んでくれる名前はないのに。
道の先から、「とら」って呼んでいた声の主が、ゆっくりと現れた。
中年のおじさんだった。
僕のひざの上にいるとらを見つけると、驚きもせず、にこやかに声をかけた。
「おや、とら。新しいお友達かい」
「もう今日は帰ろうな」
おじさんは僕のほうを向いて、あたたかい声で言った。
「こんばんは。もう遅いよ。君もおうちに帰らなきゃ」
僕はおじさんの声をぼんやりと聞いていた。
おじさんは少し困った顔になって言った。
「もしかして、とらのベッドになって帰りそびれちゃったのかな。……すまなかったね。
今度からは遠慮なくどかしてやってくれていいんだよ」
そう言いながら、おじさんは僕と猫にゆっくり近づいてきた。
とらは、あんなにどっしりと座っていたのに、
おじさんの差し出す手に身を預けるように、するりと抱き上げられた。
とらの体がふわりとひざから離れた瞬間、
僕ととらだけの世界が、音もなく壊れた。
残ったのは、ぽっかりと空いた胸の奥の穴だけだった。
──とらには、迎えに来てくれる人がいるんだな。
そう思ったら、なんだかよくわからなくなって、
気づいたときには、僕は泣き出してしまっていた。
泣きたくなんかなかったのに、
泣かないって決めてたのに。
迎えが来ない僕と、とらの距離が遠く感じられて
涙は止まらなくて、とらのいたあたたかさだけが、まだひざに残っていた。




