ネコが苦手なネコと黒い悪魔の冒険
わがはいはネコである。だが、ネコは苦手だ。
物心がついたときから、まわりには人間しかいなかった。
かわいがられて、なでられて、人間の注目の的は自分だけだった。甘えればかまってもらえるし、鳴けばすぐに駆けつけてくれた。
――だったというのに。
窓辺で白い毛並みを太陽に光らせながら、ネムは鼻先を部屋の中に向けた。
部屋のまん中、ふかふかのカーペットの上に座り込んだ飼い主の背中に一声「にゃー」と鳴いてみる。
「ネム、ごめんね。ちょっとまってね」
飼い主はちょっとこちらを振り向いて、しかし立ち上がることはせず、膝の上で手を動かし続ける。
ここからでは飼い主の陰になってよく見えないが、その膝にはまっ黒なネコが横たわっている。丁寧にすいてもらえるブラッシングは、さぞ気持ちがいいことだろう。
一ヶ月前のひどい嵐の日、黒い悪魔は突然現れた。
なんでも、雨の中道ばたでうずくまっていたそいつを飼い主が見つけて連れて帰ってきたというのである。
ちょっと雨宿りをしてすぐに出ていくのなら、別にかまわないと思っていた。しかし、そいつはそのままこの家にすむことになってしまった。
『ネムはお姉さんなんだから、パンと仲良くしてあげてね』
パンと名づけられたそいつは、その日からネムの居場所を半分うばった。
ネムが一人で広々と眠っていたクッションの上に乗ったり、食事の皿が二つ並べられて隣で食べたり、ネムの気に入りの家具の隙間にもぐりこんだり……安らぎの空間だった場所はどこもあいつに踏み荒らされた。
それに――。
「きれいになったね~、パン。毛並みがフカフカだ~」
飼い主が嬉しそうにパンを抱きあげる。
その目が見ていたのは、ネムだけだったのに。今はパンに視線を向けている方が多くなった気がする。
こんな気持ちは、はじめてだ。怒りたいのか泣きたいのか、自分のことなのによくわからない。
「あ、そろそろ行かなきゃ。それじゃあ、ふたりとも。仲良くしておるすばんしててね」
時計を見上げた飼い主がネムとパンの頭をそれぞれなでて、家を出ていった。
家の中には、ネムとパンふたりきり。
ネムは黒い毛のかたまりをちょっとだけ見て、ふいっと窓の外を向いた。アパートの門をくぐっていく飼い主の背中が見えた。
「ねえ、ネムねえさん」
下の方から声がかかった。だが、ネムは聞こえなかったふりをして、窓の外を見つめつづけた。
「ねえねえ、ねえさん。ねえってば」
わざと無視をしているのに、わからないのだろうか。声はどんどん大きくなって、ネムはがばっと振り返った。
「あー、もう。うるさい! なんなのさ!」
「いっしょに遊ぼうよ。ふたりで遊んだら、きっと楽しいよ」
床の上でパンがしっぽをふりふりっと揺らす。
ネムは息をはいて、窓の外に目をもどした。
「いやだよ。遊ぶんなら、ひとりで遊びな」
「えー、なんで? いっしょの方が楽しいよー」
遊ぼう遊ぼうとパンがうるさいので、ネムはぴょんと窓辺から飛び下りた。そして、そのまま廊下にダッシュする。
「ちょっと、どこいくのー?」
「ついてくるな!」
ネムが走る後ろをパンがついてくる。どこに逃げてもひっついてくるパンにイライラしながらリビングにかけこむと、ベランダに続く窓が少しだけ開いているのが見えた。
飼い主がしめ忘れたまま、出かけてしまったのだろう。
危ないな、と思いつつ少しなやんで、しかし廊下の方から近づいてくるパンの声に、ネムは窓のすき間をするりととおりぬけた。
ものかげにかくれてやりすごそうと思ったのに、少しおそかったようだ。しっぽが外に出たとたん、パンがリビングに飛び込んできた。
「あ! ネムねえさん、そこ何?」
おもたい窓は、ネコの手では閉められない。ネムはしかたなく、ベランダの手すりに飛びのって地面におり立った。
すると、当然のごとくパンも後に続いてくる。
「アンタは家にいなよ! ついてくるな!」
「いやだ! いっしょに遊ぶの!」
おいかけっこは、外でも続いた。庭をぐるぐるとかけ回り、いくら逃げても言っても聞かないので、ネムはとうとうアパートの外に出てしまった。
パンからにげて、にげて、にげ続けて――はたと我に返る。
急に立ちどまったネムに、つんのめるようにしてパンもとまった。
「ねえさん? 急にとまってどうしたの?」
「…………ここ、どこ?」
辺りを見回すと、そこは高いビルがたくさん建っていた。道は細くてうす暗く、しめっぽい。
大嫌いな病院に行く時に、飼い主の持つカゴの中から外を見たことは何度もあったが、そこから見えたどの場所とも違う。
逃げるのにひっしで道なんておぼえていない。ここはどこだろう。帰り道はどっちだろう。
ネムは怖くなって、しっぽを丸めた。
「ねえさん?」
「……アンタ、帰り道おぼえてる?」
「帰り道?」
うーんと首をかしげるパンに、ネムは頭をかかえたくなった。
ふたりとも帰り道がわからないのでは、帰れないではないか。
どうしようかとオロオロしていると、そこに顔に大きなキズをつけたトラネコがやってきた。
「おじょうちゃんたち、こんなところでどうしたんだい?」
「あ、ねえねえ、ここってどこだか知ってる?」
「ち、ちょっと。やめなよ」
トラネコに近づいていこうとするパンを、ネムはあわててとめた。
するとトラネコはニヤリと笑って、するどい歯を見せる。
「ここはね、おじょうちゃんたちみたいなのが来るところじゃあないよ。こんなところにいると、危ないよ――こんな風にね」
トラネコがそう言うなり、あちこちからネコの鳴き声がひびいた。辺りを見回すと、ネムとパンを囲むように大勢のネコたちが色々な物かげから出てくるところだった。
みんなそれぞれ耳がかけていたり、ちぎれたようにしっぽが短かったり、怖い姿と顔をしていた。
ネコたちが輪を縮めるように近づいてくるので、ネムとパンは身を寄せ合った。震えるネムたちに、トラネコが声を低くする。
「さてさて。悪いおじょうちゃんたちにはおしおきをしないとね」
一体何をされるのかと、ネムは体をこわばらせた。
どうしたらいいのかもわからずにとまどっていると、不意にパンがわっと声を上げた。
「あ――っ! あんなところにお魚がっ!」
すると、周りを囲んでいたネコたちがいっせいに道のおくを見た。
「ねえさん、行くよ」
パンが小声で言って、道のおくにくぎづけになっているネコたちの間をすりぬけていく。そんなパンに引っぱられるように、ネムも走り出した。
「あ、おい! 逃がすな!」
後ろからトラネコの声がしたが、ふたりは一目散にそこからはなれた。
暗かった道から明るい通りに出て、歩く人間の足の間を風のようにかけぬける。
しばらく走って見えてきた公園に逃げこんで、トラネコたちが来ないのを確認してほっとした。
「楽しかったねー、おにごっこ」
「おにごっこって……こっちは死ぬかと思ったよ」
はしゃいでいるパンにあきれていると、鼻先にポツンと何かが落ちてきた。見あげた空から、雨がポツポツとふってくる。
このままだと、ぬれてしまう。ネムは公園を見回して、近くにあったベンチの下にかけこんだ。
「わあ、雨だぁ!」
だんだん強くなってくる雨に、パンが嬉しそうにはねる。ネムは顔をしかめて、しかしベンチの下から出てパンの首輪をかんで引っぱった。
「何バカなことしてるの。早く屋根のあるところに行かないと、びしょぬれになるよ」
「はーい」
てっきり嫌がるかと思ったのに、パンは意外にもすなおにベンチの下にもぐりこんだ。
ふたりはベンチの下から空を見て、雨がやむのを待った。
今日はあたたかい日だったけれど、雨がふると寒さを思い出す。ネムとパンはどちらからともなく身を寄せ合って、雨がふる公園をながめていた。
やがて雨が上がり、ネムはぬれた土の上でうんとのびをする。
そして、いつの間にかねむってしまったパンの体を前足でつついた。
「ほら、起きて。早く帰る道をさがすよ」
「うーん……」
パンはまだ寝ぼけたようすで、ヨロヨロとベンチの下から出てくる。
ほんとうはこのままここに置いていってしまいたいが、ネムひとりだけで帰っても飼い主がこまってしまうだろう。それに、さっきは助けてもらってしまった恩もある。
(しかたなく……しかたなくだから)
ネムはそう自分に言い聞かせて、パンをつれて公園から出た。
「あ、にゃんにゃん!」
人間の声がしてそちらを見てみると、小さな女の子とその子と手をつないだ男の人がいた。
「ほんとうだ。かわいいね」
「にゃんにゃん~!」
「あ、ちょっと」
女の子が男の人の手をふりほどいて、こちらに走ってくる。ネムたちはびっくりしてかけ出した。
女の子の足はネコに比べたらおそいが、それでも自分より大きな生き物に追いかけられたら怖い。
男の人が女の子をつかまえて、ネムたちも二人が見えないところまでくるとほっと息をついた。
しかし。
「え! ネコ!?」
大きな声に顔を上げると、自転車に乗ったおばさんが目の前にいた。
あやうくタイヤにひかれる寸前で身をかわし、ネムとパンはふたたび走り出す。
家を出てから、怖いことばかりだ。ネコにも人間にも追いかけられて、これならパンなんて気にしないでずっと家にいれば良かった。
ネムは泣きそうになるのをこらえて、パンといっしょに走り続けた。
「ねえさん、こっち」
後ろを走っていたパンが急に前に出てきて、目の前にあった分かれ道を右に曲がる。ネムはわけがわからないなりにパンを追いかけた。
パンは一度も止まることなく、ずんずんと進んでいく。どうしてそんなに迷わず進めるのだろうとネムがふしぎに思った時だった。
「ネム! パン!」
聞きなれた声がして、ばっと道の先を見る。
するとそこには、今にも泣き出しそうな飼い主の顔があった。
ネムはいても立ってもいられなくなって、パンを追いこして飼い主の胸に飛びこんだ。おくれてパンもネムのとなりに飛んでくる。
「もう、どこ行ってたの!? 心配したんだから……」
飼い主はネムとパンを抱きしめて「ごめん」と「よかった」をくり返していた。
飼い主の服に顔をうずめると、安心するにおいがして体から力がぬける。感じる体温も声もいつものものだ。
しばらくそうしてから、飼い主はふたりをつれて家に帰った。部屋の中を見渡して、やっと帰ってきたのだと実感がわく。
ネムが部屋のすみに置かれたクッションの上にのって丸まると、寄りそうようにパンもやってきて寝転んだ。
ネムは追い出そうかと思ったが、やめた。
(少しくらいなら、いいか)
今日のできごとは、パンといっしょに冒険にでも行ってきたと思っておこう。
ふたりはクッションの上で仲良く気持ちよさそうに寝息を立てた。