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第2話「ブラウン商会結成」その2

森と山に囲まれたのどかな風景。色とりどりの屋根に白い壁の小さな家々が立ち並び、人々は楽しげに道端で談笑している。

ロッテンマイヤーとは町の入り口で分かれ、ほっとしたルーカスは初めて見るセタンタ以外の町に目を奪われていた。

二人で町を歩いているとこちらに気付いた中年女性の一人が、手を振って声をかけてくる。ルーカスはそっと後ろに一歩下がって様子を見守ることにした。

「まあっダニエルくんじゃない! 久々ねー」

「ジャネットさん、ご無沙汰しています」

穏やかに挨拶するダニエルは普通に好青年で、ジャネットと呼ばれた恰幅の良い女性はうふふと笑った。

「あら、すっかり大人の挨拶ねぇ」

「もう十八ですから」

にこやかに言うダニエルに、井戸端会議をしていたらしいもう一人の女性がひょいっと顔を出す。

「あっダニエルくん! この前ローザさんに教わったベシャメルソースのグラタンが大好評だからよろしくお伝えしてね。うちの子が野菜までペロリだったから!」

わいわい喋る女性陣に礼を述べているダニエルを遠目で眺めていると、若い男が後ろの方で、「げっダニエル……」と呟いてこそこそ離れていく。……ファティスでどういう立ち位置なんだろう。

歩き疲れた頭でルーカスがぼんやり考えていると、キリの良い所で会話から抜け出したダニエルがこちらに戻ってきた。手には何故か人参を抱えている。

「お待たせ、ごめんねルーカス。捕まると長いから、早い所うちに行こう」

「……会長、ローザさんって?」

疑問を口にすると、照れ臭そうにダニエルは笑った。

「うちの母親の名前。近所の人に料理教えたりお裾分けしてるから」

ほらこっち、とダニエルの後について行くと程なくして緑の屋根の家が見えた。ファティスの中ではごく平均的な大きさの家だったが、二階建てでちゃんと庭もありきちんと手入れされている雰囲気が外からでもわかる。周りに他の家は見当たらない。

「……昔はすぐ隣にもう一軒あったんだけどね」

家の東側の何も無い空き地を見遣って、ダニエルが誰にともなく呟く。振り返って、ダニエルは微笑んだ。

「何はともあれお疲れ様。とりあえず今日はゆっくり休もう」

鍵を開けてくれたダニエルに誘われて、ルーカスはそろそろと後に続いた。



家の中に入ると、何やら食べ物らしき良い匂いが漂ってきた。

「ただいまー!」

ダニエルが大きな声で家の奥に呼び掛けると、パタパタと軽やかな足音がした。

「ダニエル、おかえりなさい!」

ニコニコと出迎えてくれたのは、小柄で可愛らしいご婦人だった。年の頃は三十代くらいだろうか。ゆるふわカールの長い黒髪を後ろで纏めて、先程まで料理をしていたのか白いエプロンをしている。横にちょこんと佇んでいるルーカスを見て、ダニエルと同じ緑色のくりっとした愛嬌のある瞳がまあるく見開かれた。

「あら、ダニエルお友達!?まあまあまあ、貴方がレオンくんとバレナちゃん以外のお友達を連れてくるなんて初めてじゃない?」

「ちょっと母さん!?」

ダニエルがツッコんでも何処吹く風。満面の笑顔を浮かべて、「さぁ上がって!」と人参を受け取りながらきびきび動くローザにダニエルがげんなりした表情で言う。

「手紙に書いたでしょ? 今度始める商会で一緒に働く予定のルーカスだよ」

一応ルーカスはぺこりと会釈してみるも、ルーカスが口を開く前にローザが応じる。

「ルーカスくんね! ダニエルの母のローザです。この子友達少ないから仲良くしてあげてね~」

「母さん!」

真っ赤になってダニエルが唸る。

「さあさあ、こんな所で立ち話も何だから上がって上がって! 荷物は玄関でもいつもの部屋でも好きな所に置いていいから」

そう言ってまたパタパタ台所に行ってしまう。

「荷物置いたらちゃんと手を洗うのよー!」

ローザの声に「もー母さんはー」とダニエルがぶつぶつと呻いている。

呆気にとられているルーカスに、諦めたように嘆息してダニエルが声を掛けた。

「ごめんねー、びっくりしたでしょ? うちの母さんいつもああなんだよね……とりあえず上がっていいから」

きまり悪そうに言って、ダニエルは玄関から家の奥に進んでゆく。ルーカスは瞳を瞬かせた後、慌ててダニエルを追いかけた。

「会長があんなに自分のペースで喋れない所、初めて見たっす」

「~~っルーカスッ」

じと目で恨めしそうに見てくるダニエルに、

「会長、早く荷物置いて手を洗いましょー」

腹減ったっすと言ってルーカスは何でもないように歩き出した。



手を洗い、ダニエルに連れられて台所に向かうとローザが完成した料理を並べている所だった。

「ダニエル~お皿出してお皿! コップも!」

「はいはい」

ルーカスはそこ座ってて、と示された椅子に浅く腰かけると、調理台の横に手紙が貼ってあるのが見えた。ダニエルの几帳面な字で細かく書かれた文章の横に、子供の絵本の挿し絵のようなへにょっとしたカエルと大きく今日の日付が書かれていた。

気になってじーっと見つめていると視線に気が付いてダニエルがあっと声を漏らす。

「もー、こんな所に手紙貼ったままにしないでよ」

恥ずかしいなぁ、と言いながらダニエルが剥がそうとするとローザが口を出した。

「ちょっとダニエル、捨てちゃ駄目よ?!」

「どーせちゃんと読んでないんだろ。ルーカスのこともわかってなかったし」

ぶつぶつ文句を言うダニエルに、ローザがじと目で言う。

「手紙貰った翌々日に帰ってくるなんて言うアンタが悪いでしょ。準備してたら読んでもらいに行く暇なんてないわよ」

「うっ」

急に決まったんだから仕方ないだろと口ごもるダニエルから手紙をひったくると、ローザはにこりと微笑んだ。

「まあ今回は事前に手紙で報せてくれただけマシだから、後でゆっくり音読してくれたら許してあげる」

普段、いつの間にかすべて自分のペースに持ち込んでしまうダニエルが形無しになっている。珍しい光景に、ルーカスは新鮮な気持ちで内心こっそりローザに拍手を送ったのだった。



テーブルの上に並べられた料理は圧巻だった。

とうもろこしの粒がたっぷり入ったコーンスープに、きゅうりや人参にハム、ゆで卵などがふんだんに使われた豪華なポテトサラダ。何と言ってもデミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグに、マッシュルーム、じゃが芋、茄子、パプリカにカボチャと焼き目が付いた何種類もの焼き野菜が添えられている。横にはナッツの入れられた白い丸パンが籠に山盛りで入れられており、横には好きに使えるようバターやりんごジャムまで並べられている豪華さだ。

「二人で来るなんて知らなかったから、ハンバーグ六個しか焼いてないのよ。ルーカスくん足りる?」

「一人二個食べられれば充分でしょ。あと何このパンの量」

「お腹空いてるでしょ?」

さらりと笑顔で言うローザには誰も敵わない。ダニエルも諦めたらしく、黙って女神アリアに食前の祈りを捧げている。

「いただきます」

ダニエルに倣って軽くお祈りをしてから、ルーカスも料理に口を付ける。まずコーンスープから口に含んで、その味に目を丸くした。

「えっうまっ……何すかこの甘みとまろやかさ」

上品に利かせたコンソメと塩に、コーンの甘みが優しく舌の上でとろける。セタンタのレストランでも、こんなものは飲んだことがない。

「あらっ嬉しい。どんどん食べてね~」

自分も食べながらにこにこ言うローザに、

「無理して食べなくてもいいからね。全部食べたらお腹破裂する量だから」

とダニエルが口を挟む。

「でもレオンくんならぺろりよ? 足りないくらい」

「レオンの食べる量は普通じゃないから」

と軽口を叩きあっている親子にほのぼのしながら、猛烈にお腹が空いていたルーカスは食事に集中することにした。意を決してメインのハンバーグに手を付ける。フォークを入れたハンバーグからじゅわりと透明な肉汁が出て湯気が上がり、それだけで堪らない。

口に入れると、熱々の肉汁とデミグラスソースが混ざり合いガツンと肉の旨味が本能を直撃する。あーシンプルに美味しい。子供の頃に食べたいと思った全部が詰まってる味がした。デミグラスソースはしっかり効いているのにさっぱりとした後味で、どう作ってるかさっぱりわからないのに美味しい。美味しい美味しいと一口ごとに感動するのに忙しくて、一個目のハンバーグは気付いたら消えてしまった。

「はい、おかわりどうぞ」

間髪入れず二個目のハンバーグが提供され、ルーカスは赤面した。

「あ、ありがとうございます……」

「美味しそうに食べてくれて嬉しいわ」

ダニエルを見遣ると、黙々とハンバーグと野菜を交互に食べている。なるほど、その食べ方があったか。

放置してしまった焼き野菜を食べるとこれも良い味で、シンプルな塩味と絶妙な焼き加減がしみじみと美味しかった。茄子はとろとろに肉汁を吸っていて、カボチャやじゃが芋は中はほっくり外はカリッとしていて食感が楽しい。パプリカはさっぱりしていて、デミグラスソースにも抜群に合う。

ポテトサラダも普通のものよりボリュームがあってハムも柔らか、これを主食にしてもいいかもと思わせる美味しさだった。

ハンバーグとこれらを交互に食べ、コーンスープを飲むとほぅっと幸せな気分になる。

「パンもいっぱいあるからね」

「いつも思うけどパン焼きすぎじゃない?」

「いいのよ、余ったらおやつとかパン粉にするから」

白パンもほんのり温かく、バターを挟むと溶けて更に良い味になった。中に焼き込まれたナッツがアクセントで、いくらでも食べれる。試しにつけた林檎ジャムは甘酸っぱく疲れた身体に染みる美味しさだった。

「会長……」

「ん? 何?」

食べすぎてお腹がまあるくなったルーカスは呟いた。顔を上げたダニエルは腹八分目でデザートに出てきたヨーグルトに林檎ジャムをたっぷり乗っけている。……あーあれも美味しそう。いいなぁ。

「今まで食べた飯の中で間違いなく一番美味しかったんですが……会長のお母さん、王宮のお抱え料理人だったりします?」

「……何言ってるの? ただの主婦だよ」

呆れたように言うダニエルだったが、これを毎日当たり前に食べているから感覚が麻痺しているのだろう。ルーカスは冷遇されていたものの、王都でそこそこ良い商家出身なので本人が頓着してないだけで美味しいものは一応食べつけている。家の料理人は貴族の家と比べても遜色ない腕前だったし、外食もそこそこ連れて行かれた。商人は一流のものを知らなければ話にならないと、その辺りだけは叩き込まれているのである。そのルーカスが衝撃を受ける美味しさと言うのは実はただ事ではない。

「あら~王宮のお抱え料理人ですって!」

当のローザは可愛らしく無邪気に喜んでいて、当人たちが気付いていないだけでとんでもない家なのではとルーカスは薄々気が付いた。



ブラウン親子の楽しい会話を聞きながら、しばらく休憩して。やっとルーカスが動けるようになると、ダニエルが立ち上がった。ローザが声を掛ける。

「あ、ダニエル。ルーカスくんなんだけど、貴方とレオンくんの部屋くらいしかすぐ休めるベッドがないからレオンくんの部屋を使って貰っていい? シーツや布団カバーは替えるから」

「うん、ありがとう。それで大丈夫」

ダニエルが穏やかに答える。ルーカスはお腹いっぱいになり過ぎて回らない頭で、そう言えばレオンって誰だと疑問に思った。ダニエルがこちらを振り返る。

「ルーカス、上の部屋に案内するよ」

三日くらい滞在するから荷解きしてねと言われて慌てて立ち上がる。ダニエルに続いて階段を上ると、手前に『エディ』と書かれた可愛いドアプレートの掛かった部屋がある。通り過ぎると、隣に『ダニエル』と書かれたドアプレートの部屋があり、ルーカスが案内されたのはその更に奥だった。『レオン』と書かれたドアプレートが掛かっている。

「ファティス滞在中は、ルーカスはこの部屋使ってね。何か困ったことがあったら僕の部屋をノックして呼んで」

レオンの部屋のドアを開けると、ベッドと机は置いてあるもののがらんとした物の少ない部屋だった。けれどきちんと掃除が行き届いていて、ローザが手入れをしているであろうことがわかる。淡い水色のカーテンが掛かっていて、落ち着いた雰囲気の部屋だ。壁に貼られたやたら上手い熊の絵を見て、ダニエルがあっと声を上げる。

「母さん、レオンの絵貼ってる」

そう言ってダニエルは懐かしそうに緑の目を細めた。ルーカスが尋ねる。

「あの、会長……レオンさんって、会長のご兄弟なんすか?」

ルーカスの当然の疑問に、一瞬虚を突かれたのか目を丸くして──切なそうにダニエルは微笑った。

「違うよ。隣の家に住んでた僕の同い年の幼馴染み」

そう言って、ダニエルは遠い記憶を呼び起こすように何もないレオンの部屋を眺めた。

「八年前のファティス襲撃は知ってるよね。その時に、レオンは両親を亡くして家も焼かれたんだ。それから五年、僕たちと一緒にこの家で暮らしてたから」

ファティス襲撃。セタンタに住むルーカスにとって、掲示板でしか知らない戦いだった。魔王軍幹部による侵攻の中でも特殊で、甚大な被害はあったが住民たちの果敢な抵抗により壊滅を免れた稀有な事例だったと言われている。

「僕の兄妹は、そのファティス襲撃で死んだ妹だけだよ」

そう、ぽつりと言って。ダニエルは静かな空気を誤魔化すように笑った。

「急に暗い話してごめん。レオンとは毎日一緒に遊んでたし、仲も良かったから兄弟同然なんだけどね。明るくて優しくて、滅茶苦茶強くてさ……自慢の親友だと思ってる」

壁に貼られた熊の絵を指でなぞってダニエルは寂しげに微笑んだ。

「知ってるだろ? 勇者レオン・ソリッドハート。今、魔王討伐の旅に出てるんだ」



ダニエルの言葉を思い出しながらぼんやりと荷解きをするが、大したものを持ってきている訳ではないので直ぐに終わってしまう。

今まで、ずっとセタンタで当たり前に商家勤めをすることだけを考えて生きてきて。自分は本当に視野が狭かったのだとたった数日で気付かされる。他の町へ移動する危険と困難、ラスティアやファティスをはじめとする世界情勢。魔王軍の侵攻は、知らなかっただけでこんなにも身近に影を落としていたのだ。

勇者の話も、何処か他人事で。遠い世界の話のように思っていた。──当人と家族は、どんな思いでいるかなんて考えたことさえなかった。

今までの自分の底の浅さに何となく落ち込んで、ルーカスはレオンの部屋を出た。ダニエルの部屋をノックしてみるも返事がない。疲れて寝ているのだろうか。

仕方なく階段で下に降りてみると、キッチンでローザが何かを作っていた。小麦粉をひたすら練っている。パン生地だろうか。思わずぼーっと眺めていると、ローザが気付いて振り返った。

「あら、ルーカスくん。どうしたの?」

「あ、いえ……会長、ダニエルさんは」

慌てて気になっていたことを思わず口に出すと、ローザが顔に手を当てる。あ、小麦粉が顔に。

「あら、ごめんなさい。実は買い出しに行ってもらってるのよ。ほら、人数増えたから材料足りないと思って」

優しげな雰囲気はダニエルと似ているのだが、ローザは明るくて裏表がない。頬に小麦粉を付けたまま真剣に思案してくれるローザに、いつもは人見知りするルーカスも不思議と和んでしまう。

「初めての場所でダニエルも居ないと不安よね……そこまで考えが及ばなくて申し訳なかったわ」

「あ、いえ……こちらこそ急にお邪魔したので」

気を遣われて、申し訳なさに声が小さくなる。ふふっとローザさんが笑った。

「もう、どうせあの子が強引に連れて来たんでしょ。ルーカスくんが謝ることじゃないわ」

そう言ってダニエルと同じ緑の瞳を細める。

「私、読み書きがあんまり得意じゃなくてね。裁縫の仕事をしてるから数字は少しだけ読めるんだけど……そういう訳で、ダニエルがここに帰る時にはカエルの絵と日付を描いてもらってるの」

もう少し余裕がある日程だったら、字が読める近所の人に詳細を教えてもらうつもりだったんだけど……と溜め息を吐く。さっき見た不思議と愛嬌のあるカエルの絵を思い出して、ルーカスは何だか微笑ましい気持ちになった。

「そうだ、次は二人で帰って来る時はカエルを二匹描いてもらいましょ!」

名案、と言うように手を叩くローザに、一生懸命カエルを二匹描いているダニエルを想像してルーカスは噴き出してしまった。その様子を見て、ローザも微笑む。

「そうだ。ルーカスくんが嫌じゃなければ貴方と一緒に居る時のダニエルの話、聴かせてくれない?」

あの子、照れて自分のことはあんまり話してくれないからとローザがこぼす。遅い反抗期なのかな、と思いつつルーカスがおずおずと言う。

「あ、あの、俺は構わないんすけど、ローザさん何か作ってる途中じゃなかったっすか?」

「あ! そうだったわ……でも、明日のおやつにする予定のアップルパイの生地を練ってるだけだから話を聞きながら出来るわよ」

何でもないように請け合うローザに、俺も手伝いますと言ってみると嬉しそうに笑ってくれた。



ダニエルが大荷物を抱えて帰ってくると、台所のテーブルでルーカスが突っ伏している。一体何があったんだ。

「ただいまー」

「あ、会長。おかえりなさい」

しかし顔を上げたルーカスは何故か得意顔である。うーん、これは聞き取り調査の必要があるな。

「ごめんね、留守にしてて。母さんに買い出し頼まれちゃってさ。疲れてるみたいだけど出かけてる間何かあった?」

頼まれてた食材をテーブルに下ろしながら尋ねると、予想外の答えが素直に返ってくる。

「ローザさんと一緒に明日のおやつに使うパイ生地を練ってたっす!」

うわっあの重労働をお客さんにやらせたのか。明日はアップルパイっすよとか得意気に言う所じゃないから。

「母さんってば人遣い荒いなぁもう……ルーカスもお客さんなんだから断っていいからね」

「いや、俺から言い出したんすよ。やってみたかったんで」

バッハ商店では見たことのないにこにこしたルーカスの表情にダニエルは内心驚いた。……ロッテンマイヤーにはバリバリに人見知りしてたのに。

「でもパイ生地練るの疲れたでしょ?」

「いや、想像以上に難しいし腕の力使いますねあれは。ローザさんひょいひょいやってくれるけど、普通に尊敬だし俺たちの為に何も言わずに頑張ってくれて感謝しかないっすほんと」

……完全にローザの味方になっている。あんな短時間で人見知りのルーカスをどうやって篭絡させたのか。自分は名前覚えてもらうのに二ヶ月かかったのに……やっぱり手料理の力か? とダニエルは複雑な気持ちになったがそれは心にしまって極力表情には出さないようにした。念願叶って折角ルーカスが商会に来てくれることになったのだ。あんまりカッコ悪い所を見せて幻滅されたくはない。

しかし、ルーカスがまたしても何故かどや顔で続ける。

「情報も色々手に入れましたよ。まず、今夜の夕飯はミネストローネと魚のフライっす」

すぐわかるでしょそんなの! 情報が労力に釣り合ってないとツッコミそうになるのを笑顔でぐっと堪え、ダニエルは水を向けた。

「うん、なるほど……それで勿論、他にもあるんでしょ?」

「はい、勿論っす」

自信満々にルーカスが告げる。

「ローザさんの作った会長用の新作の服がもうすぐ完成するそうです」

「また作ってるの?!」

思わず声を荒げてしまうダニエルに、居間からローザの声が飛んでくる。

「あ、ルーカスくん駄目じゃない! サプライズにしようと思ってたのにー」

よく見るとそう言いながら凄まじい勢いで縫っている。がっくりと脱力するダニエルに、ルーカスが笑った。そうして、何気なくさらりと言う。

「会長、さっきはスンマセンでした」

「……え?」

顔を上げると、ルーカスはさっぱりとした表情をしていた。

「俺、もっと色々勉強しますね。セタンタの外のことも」

先程のやり取りで落ち込んでいたルーカスを心配していたことも、移動中に何かと気遣っていたこともルーカスはちゃんと気付いていたらしい。勿論、此処に連れて来たダニエルの意図も。

「ちゃんと会長の右腕に相応しくなれるよう、知識も経験も身に付けるんで」

……どうしても自分の商会に欲しいと思った直感は間違っていなかったらしい。ダニエルは自然と笑みが零れた。

「うん──期待してる」

笑っている二人の間に、ローザの声が明るく響く。

「ダニエルー!ルーカスくんの服も滞在中に作るから採寸してー!」

「え、悪いっすよそんな……」

「大丈夫!今新しいデザインがモリモリ閃いてるから!」

「母さん、作るなら動きやすくて商談も出来るようなきっちりしてる服にして!」

初めてブラウン家で過ごす午後は賑やかで、あっという間に過ぎていった。



美味しい夕食に舌鼓を打ち。お風呂をいただいてさっぱりして、借り物の部屋のベッドに横になったルーカスは解放感に溢れていた。身体は疲れていたが、後は寝るだけと思うとそれさえ心地よい。

ごろんと寝返りを打って天井を眺めると、先程の熊の絵がもう一枚貼ってあった。重量級の虫が這った跡のような力強く拙い字で何か横に書いてある。

「ファティ……ぐま?」

この妙に上手い熊の絵は勇者が描いていると言っていたので、字も勇者のものなのだろうか。思考の赴くままに考えるものの、眠気には抗えず重い瞼を素直に閉じる。ルーカスはそのまま、一日ぶりのベッドで泥のように眠った。

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