第2話「ブラウン商会結成」その1
魔王軍によるファティス襲撃でレオンが両親を亡くしてから五年。十五になり成人した勇者レオンは、世話になっていた隣家のブラウン家から出た。今までありがとうと笑うレオンの表情を、ダニエルが忘れることはない。
そして、レオンがブラウン家から出て一週間後。町の片隅にあるその家の前に、五年ぶりに赤い髪の少女の姿があった。
大きなリュックサックを背負ったダニエルは、ファティス襲撃までは毎日一緒に遊んでいた少女──バレナを冷ややかに見遣った。
「今更何しに来たの?レオンならもう傭兵になってうちを出たよ」
冷たく言い捨てるダニエルに、バレナはたじろぐ。
「それは、分かってるよ。……だから来たんだよ」
「あのさ……」
呆れたように息を吐き出しながら、ダニエルが言う。
「レオンが一番辛い時に五年も見て見ぬ振りしといて、今更どの面下げて会いに来たんだって言ってるんだよ」
「お前それはっ、…………いや、そうだな」
あまりの言い種に激昂しそうになるが、バレナはぐっと堪えて言葉を絞り出した。
「アタシはさ、両親ともに何とか助かって、だから、お前らに会わせる顔がないと思ってて……。でも、逃げただけだったんだよな……」
「それを僕に言ってどうするのさ?」
言う相手が違うでしょ。ダニエルにそう言われて俯くと、バレナが、彼女にしては弱々しく口を開いた。
「……お前は、どうするんだ?確かレオンと一緒に傭兵になったって聞いてたけど」
「辞めたよ。僕が傭兵になっても、命を無駄に捨てるかレオンの足手まといにしかならないって気付いたから」
さらりと言うダニエルは、いつも通り憎たらしいくらいに冷静で──けれど、誰より自分への怒りを静かに滾らせていることにバレナは気付いた。だからさ。と前置いて、ダニエルは言う。
「僕は、自分に何が出来るかを探しに行くつもりだよ。こうしてる今もレオンは命を懸けて戦ってるんだ。立ち止まってる暇なんか無いから」
自分に言い聞かせるようなそれは、ダニエルの悲鳴のように聞こえた。バレナが静かに問い掛ける。
「何処行くつもりなんだ?」
「目標は世界一周。とりあえず行ける所まで行ってみる」
ダニエルの言葉に、思わずバレナは笑った。大言壮語だと知らない奴は言うだろう。だが──ダニエルは言ったからにはやる。
「世界とは大きく出たこって。お前らしいけどな」
そう呟いた後で、うん。と強く頷くと、一緒に遊んでいたあの頃のようにバレナは不敵に笑った。
「──あたしは、レオンを追い掛ける」
吹っ切れたようなバレナの表情に瞠目して──少しだけダニエルも微笑む。
「そ。………じゃあ任せた」
素っ気ない言葉だったが、そこにダニエルからの信頼が込められていることをバレナは理解していた。中身は悪童のくせに外面は良いので、仲が良くなる程ダニエルは遠慮がなくなるのだ。
「ん。任せとけ」
力強く請け合うバレナに、ダニエルは愉快そうに笑う。
「心配だなぁ。バレナってば、昔から考えなしに突っ込んでドジ踏んで泣いてたりしたじゃん」
「ちっちゃい時の話だろうがっ」
赤くなってがあっと憤慨するバレナに、ダニエルは声を上げて笑った。なんだか昔に戻ったみたいだと、二人ともが心の奥底で感じていたのかもしれない。
「だいたい、そういう時はいつもお前が何とかしてくれてたろ」
「えー?また尻拭いさせるつもり?」
「んなつもりはねーよ。言っただけだっつーの」
「──ま、いざとなったら頼りなよ。……文字書きちゃんと覚えてからね?」
「じゃ~な~!」
ダニエルがそう口にした時既にバレナの姿はなく、遠くへと走り去っていく背中が見えるだけだった。
「……心配だなぁ……」
割とガチ目に呟くダニエルであったが、不思議とバレナへ抱いていた憤りは、少しだけ解れていた。
◆◆◆◆◆
バッハ商店を辞めた翌日。ダニエルとルーカスの二人は、雇った騎士団の人が来るのをセタンタの外れで待っていた。緊張を隠せないルーカスに、のんびりしたで調子でダニエルが声をかける。
「ロッテンマイヤーさん、気さくな良い人だからそんなに緊張しなくても大丈夫だよ?」
「いや、それもそうなんすけど」
セタンタから出るの初めてなんで、とルーカスはナップザックの肩紐を握り締めて不安そうに前を見遣った。行く先には遠く、鬱蒼と緑が生い繁るエルムの森が見える。
生まれも育ちも王都セタンタであるルーカスは、一度もこの街の外に出たことがなかった。必要がなかったとも言える。商人としてやっていくなら、人も金も物も集まるセタンタ以上の場所はルード大陸にはない。魔王軍の侵攻で治安の悪いこの情勢なら尚更だった。
街の外に出ると言うことは、魔物や野盗に襲われる危険を冒すのと同義だ。その為、戦闘能力のない一般人が移動する際は騎士か馴染みの傭兵を雇うことになる。命には代えられないからだ。
なので、町から町へと移動するのは通常であれば冒険者か傭兵など外で戦うのを生業にしている者か、結婚や移住などそれ相応の理由がある者に限られるのだが。
「大丈夫、やってみると案外こんなものかって感じだよ。僕もセタンタとファティスなら何回も行き来してるし、ロッテンマイヤーさん普通に強いから」
ラスティアに比べれば余裕余裕、と呑気に笑うダニエルに耳を疑う。
「ラスティア行ったことあるんすか?!」
ラスティアと言えばセタンタからガルム山脈を越えた北に位置する、魔王軍討伐最前線の町だ。衛兵に守られて安心して暮らしているセタンタ民からするとほぼ戦場と言っても過言ではない。
「あー、一応行ったって言っていいのかな」
ダニエルは曖昧に言葉を濁した。どういう意味だろうと視線を向けると、ダニエルは弱々しく苦笑した。
「ほぼ壊滅しててもう町って言える程のものは残ってなかったからさ。ラスティアに行ったって言えるのかなぁって」
すぐとんぼ返りしたし、と遠い目で言うダニエルに絶句する。そんなことになっているのかラスティアは。……と言うかそんな場所に何の為にひょいひょい行ってるんだろうこの人は。
深まる謎にルーカスが眉をひそめていると、背後から大声が飛んで来た。
「お待たせしましたブラウンさんー!!」
「あ、ロッテンマイヤーさん!」
大きなナップザックを背負って笑顔で駆けて来る大柄な男と、ダニエルは笑顔でハイタッチした。……仲良いな。
「ルーカス、こちら騎士のロッテンマイヤーさん。今回の旅程で行き帰りの警護を担当してもらう予定だよ」
二週間くらいお世話になるから仲良くしてね、とダニエルが微笑む。緊張しながら頷くルーカスに、ロッテンマイヤーが爽やかに微笑みながら手を差し出してきた。
「ロッテンマイヤーと申します。ブラウンさんには大変お世話になっておりますので、今後ともご贔屓に」
ロッテンマイヤーは長い金髪にアクアブルーの瞳をした美丈夫だった。鎧を着込んでいなければ伊達男と言っていい。恐る恐る差し出された手を握ると、握った途端手をぶんぶん振られて思わず気色ばむ。ロッテンマイヤーはあははと笑った。
「ルーカスさんも、よろしくお願いしますねー!」
ダニエルはと言うと、その様子を眺めて笑いを堪えている。
「会長~」
思わずムッとして嗜めると、ごめんごめんとダニエルは謝った。
「いや、大人しいルーカスが『信じられない何なんだこの人』みたいな顔してるから……可笑しくって」
そう言って、仲良くやれそうで良かった!などと笑っている。ちなみにルーカスが思っていたことをまんま言い当てているのでやっぱりこの人怖い。そこまでわかってて、何で仲良くやれそうとか断言出来るんだ。
「じゃあ出発だね!予定通り森の中で一泊するけど、ルーカスはちゃんとおやつ持ってきた?」
「あーはい。食糧は持ってきたっす」
さらりと野宿の宣言をしながら注意事項はおやつである。この辺りがダニエルクオリティーだった。
「あ、ちゃんとテントは俺が背負ってますんで大丈夫ですよ」
ロッテンマイヤーが胸を張る。そこだけは有り難いなと思いながらルーカスは頷いた。
「ではでは、ロッテンマイヤープレゼンツ!エルムの森ツアーの始まりですよ~」
にこやかな宣言に、ダニエルが笑顔で拍手する。このノリでとりあえず一泊二日かーとルーカスは天を仰いだ。空は抜けるように青い秋空で、絶好の遠足日和だった。
歩くこと数時間。
セタンタで流行っている喫茶店の話から本当なのかあやしい怪談話、果てはエルムの森に出る魔物の簡単な解説まで多種多様と言えば聞こえが良いが要するに統一感の無いよもやま話をロッテンマイヤーからひたすら聞かされ、ルーカスは疲弊していた。商人として育てられたのに人見知りなルーカスは、初めての人と話すだけでかなり消耗する。前の職場で色々あった今は輪を掛けて人間不信気味なので余計であった。しかしこのロッテンマイヤーはそんなことは構わずに終始話し続けていた。……よくそんなに話題があるな。
しかし、ダニエルもダニエルである。雑学が好きだと言うロッテンマイヤーの話にどんな分野でも的確な相槌や質問をダニエルが返すので、ロッテンマイヤーは益々調子づいて雑談に花を咲かせていた。
「おー、ブラウンさんいよいよ商会を創られるんですか!」
ある程度の雑学を披露して満足したのか、今度はこちらの話題に移ったらしい。ロッテンマイヤーの言葉にダニエルが照れながら応じる。
「いや、まだ僕とルーカスの二人なんで大層なものではないんですが……ありえないくらい有能な人が来てくれたんで、そろそろ本腰を入れようかと思いまして」
聞き流すふりをしていたルーカスはこっそり耳をそばだてる。宣伝も兼ねてるだろうから大袈裟に言っているのはわかっているが、褒められるとちょっと嬉しい。
ざくざくと落ち葉を踏みながら語るダニエルに、ロッテンマイヤーはなるほどと頷いた。
「それで、ダニエルさんの故郷ファティスでじっくり商会立ち上げの作戦会議と言う訳ですか」
「あはは、内緒ですよ?」
特にロッテンマイヤーさんの上司には、と言い添えるダニエルにあいたたたとロッテンマイヤーは膝を打った。
「ブラウンさんマジ優しいですよねー。上司に客のこと根掘り葉掘り訊くなって叱られちまうんで控えます」
あ、でも次からはブラウンさんのこと会長さんって呼びますね!と言う辺りやはり調子が良い男だなとルーカスは思う。そうこうしている内にエルムの森の昼下がりは過ぎてゆくのだった。
風で葉がざわめく音に、濃い緑の匂い。落ち葉を踏みしめる自分たちの足音。遠く聞こえる何かの動物の鳴き声。
日暮れに近付くにつれ、エルムの森の鬱蒼とした気配が強くなる。
「天気も良いし魔物も出なかった。今日は順調だね」
「ほんとほんと。会長さんと一緒ですし、ピクニックみたいで楽しかったです」
先を行く二人は慣れた様子で一切疲れを見せていない。対して、元々デスクワークな上にここ二年職場に引き籠ってひたすら仕事に追われていたもやしのルーカスはもうへとへとだった。足の裏が痛い。
「旅程もまあまあです。少し早いですが、今日は暗くならない内にここいらで拠点作りをしましょうか」
ロッテンマイヤーの提案に賛成、と笑うダニエルがこちらを振り返る。
「ルーカス大丈夫?そろそろ夜営の準備をするから、ルーカスは休憩してていいよ」
言われて、全身から力が抜ける。思わずへたり込んだルーカスに、ダニエルが戻ってくる。
「うわ、大丈夫?……もしかして無理させちゃった?」
心配そうに声をかけられて苦笑する。体力の無さが情けない。
「いや、少し休めば普通にまた歩けるんで……運動不足がバレて恥ずかしいっす」
心配かけてスンマセン、と謝るとダニエルが安心したように微笑んだ。
「じゃあ休憩がてら夕飯にしようか」
そう言って、ロッテンマイヤーにテントをお願いする傍らダニエルはシートを敷いて色々ナップザックから出し始める。
「ルーカスは食糧何持ってきたの?」
訊かれて、ルーカスは何のてらいもなく答える。
「あー、よく前の職場で囓ってたパン持ってきてます」
「はい?」
聞き返したダニエルの剣幕に思わずビビる。
「え、いや……何か間違ってました?」
いつもルーカスには優しいダニエルの冷たい反応に、冷や汗をかきながらルーカスは聞き返した。
「ルーカス……全然わかってないじゃん」
渋い顔をしながらダニエルが溜め息をつく。
「おやつちゃんと持ってきたって訊いたでしょ?あれはね、疲れた時でも好きなもの食べると元気が出るから言ったの」
そのパン、そんなに美味しくて好きなものなの?と半眼で尋ねてくるダニエルにたじろぐ。
「え、その……そこそこ?腹が膨れればいいのかなーと」
「モックモックのクッキーより?」
訊かれて、反射的に答える。
「断然モックモックのクッキーっすね」
急にキリッとして答えたルーカスにダニエルは噴き出す。
「もー。そんなに気に入ったの?昨日半分あげたの持ってきた?」
「秒で消えたんで持ってきてないっす」
大体あんな繊細なクッキー持ってきたらボリボリに崩れるじゃないっすか勿体ないと呟くと、ツボに入ったらしくダニエルが笑いを堪えている。
「……わかった。面白かった分、今日の夕飯は僕が用意するから」
ちょっと待ってて、とダニエルが魔石と小鍋を取り出した。
ダニエルは手慣れた様子で石を集めて積み、小さな石の囲いの中に乾いた落ち葉や枯れ枝を敷き詰めた。テントを張り終わったロッテンマイヤーを呼び、小鍋を出した。
「ロッテンマイヤーさん、お手数かけますが水お願い出来ますか?」
「はいはいーいつものですね、お安いご用です」
ロッテンマイヤーが慣れた様子で請け合い、何かモゴモゴと唱えたかと思うと指先から小鍋へと透き通った水を注いでいた。
好奇心でルーカスが覗き込みに行くと、既に小鍋いっぱいに水が満たされている。
「水属性魔法、使えると便利ですよね~」
「まあこれ使えるだけで会長さんに指名してもらえちまうんですから役得ですね~」
羨ましそうに言うダニエルに、調子良くロッテンマイヤーが応じる。
そこに、殺菌作用のあるハーブの葉に包まれたベーコンをダニエルがナップザックから出してきた。
「僕、そんなに料理得意じゃないからそれなりだけど、まあないよりあった方がいいよね」
適当にナイフでベーコンを切り落として入れ、一緒に入っていたハーブと何処から出してきたのか乾燥野菜も入れている。くつくつと煮込むと、辺りに湯気とほのかな良い匂いが漂った。
「わぁ……」
子供みたいに小鍋を覗き込むルーカスに、ダニエルが微笑む。
「宿の主人に、少しだけベーコン包んでもらったんだ。僕が作ったやつじゃないから、ベーコンは美味しいと思うよ」
乾燥野菜とベーコンが煮えてきたタイミングで、岩塩と胡椒を挽いて入れる。
「はい、どうぞ」
人数分の小さい器にダニエルが注いでくれたスープを受け取る。
「熱っ」
舌を火傷して恐る恐る冷ましながら食べていると、ダニエルが笑ってスプーンを貸してくれた。
「あ、俺は勿論マイスプーン持参なんで」
ご馳走さまでーす!と嬉しそうにロッテンマイヤーもスープに口を付けている。
「あーやっぱり会長さん様々ですわー」
旅先であったかい料理食べれるだけでほんと有難いです、としみじみ味わっているロッテンマイヤーに心の中で同意する。確かに、固いパンを囓っているだけの夕飯とは雲泥の差だ。疲れのとれ具合も違う気がする。
「個人的にはロッテンマイヤーさんの水魔法様々だけどねー」
川の水を汲んできてまで料理しようとは思わないし、とスープに何やら美味しそうなライ麦パンとチーズを焚き火で炙って食べながらダニエルが言う。
「わ、会長なんか美味しそうな食べ方してる!俺も炙っていいっすか」
「あ、直接火に近付けると危ないから遠くからね!」
言われて、じりじりと固い囓りかけのパンを近付けていると笑われた。
「はい、これもあげる」
串に刺して少しとろけているチーズを貰い、慌ててパンにつけて食べる。チーズの熱でパンもあったまり、パンまでほんのり美味しくなった気がする。
温かい食事で人心地ついて。火の始末をし、小鍋を洗って片付けると日が暮れて薄暗くなってきた。
テントの入り口にダニエルが色鮮やかなランタンを吊るしてくれた。
「わっ綺麗っすね」
「フィーブの名産品のランタンだよ。気に入ったから一つだけ買ってきたんだ」
四角形のランタンの外側に洒落た金属の飾り網が上と下に付いており、暖かみのあるオレンジ色の光が優しくテントを照らしていた。硝子の外側に一辺だけ、影絵のように小さく動物が描かれている。
「これ……熊っすか?」
「そうそう。珍しいでしょ?」
テントの幌に映し出された飾り模様の影はよく見ると蔦になっていて、その中にちょこんとシルエットの熊が居る意匠になっていた。
「……森の熊さんって感じっすね」
「エルムの森っぽいですよね~ジュエルベアーは勘弁ですが」
いきなり会話に参加してきたロッテンマイヤーに、そっとルーカスは距離を取った。近い近い。
「会長さんは持ち物が一々お洒落ですよね~あと毎回旨い飯を分けてくれるんで助かってます」
「んーそうかな?気に入ったもの使ってるのと、単に慣れだと思うけど」
今回は旅程も短いしね、とダニエルは何でもないように答える。確かに旅慣れてるよなーと考えながら、疲れとほっとしたせいか少し眠くなってくる。
「ルーカス。明日も朝早くから歩くし、今日はそろそろ休んだ方がいいよ。夜番はロッテンマイヤーさんがしてくれるから」
テントの奥の方を示されて、うっすと言いながらルーカスは引っ込んだ。床は固くて冷たかったが、毛布を敷いて横になったらすぐ眠ってしまった。
翌朝。目が覚めてテントから顔を出すと、ダニエルとロッテンマイヤーは既に活動を始めていた。
「あ、おはよールーカス」
少し眠そうに声を掛けてくれたダニエルは、朝から金属のカップで紅茶を飲んでいた。ふわりと漂うベルガモットの香りと、朝の森の空気に不思議な気持ちになる。
「森なのに朝から優雅っすね……」
思わず出たルーカスの感想を、何それと一笑に伏すとダニエルはナップザックから一枚の紙片を取り出した。
「森でも好きなもの飲んでいいでしょ。それよりさ、今日の予定を確認しよう」
広げられたのは簡素な地図で、セタンタからファティス間のものらしい。途中にあった泉など大雑把に森の概要が描かれている。それを指で辿りながら、ダニエルが解説してくれた。
「昨日までで3分の2歩いたから、今日の昼過ぎにはファティスに着けると思う。ファティスに着いたらロッテンマイヤーさんと分かれてすぐうちの実家に行くけどいいかな?」
「あ、はい勿論っす」
そう答えるも、内心は緊張していた。そう言えば昼食はどうするのだろう。寝起きの頭でぼんやり考えていると、すぐダニエルが答えをくれた。
「あ、昼はうちの実家で母さんが作ってくれるから。一応セタンタの店よりは美味しいと思うよ」
ちなみに、セタンタは王都なのでルード大陸で一番外食のレベルが高い。そのセタンタより美味しいって実は相当なレベルなのではとルーカスが考え込んでいると、何だか甘い匂いが漂ってきた。
「あ、そろそろ焼けたかな」
また小鍋で何か作っていたらしい。蓋を取ると、じゅうじゅうとバターと林檎が焼ける何とも鼻をくすぐる湯気がこちらにまで漂ってくる。小鍋からそれを皿に移すと、ダニエルは林檎にナイフで切り込みを入れてクリームチーズと砂糖を中に詰めている。……滅茶苦茶旨そう。
思わずごくりと唾を飲み込むと、振り返ったダニエルに笑われた。
「朝ご飯にしよっか。と言ってもこれくらいしか作ってないけど」
焼き林檎と、ドライフルーツにナッツを分けてもらう。飲み物はさっきダニエルが飲んでいたのと同じ紅茶を淹れてくれたらしい。淹れ立ての温かい紅茶はきりりと茶葉の味が立っていて、焼き林檎にぴったりだった。
「わぁあ、会長さんまた旨そうなもの食べてますね~!」
哨戒から帰ってきたのだろう。がさがさと草をかき分けてロッテンマイヤーが羨ましそうに言う。
「はいはい、ロッテンマイヤーさんの分もあるから」
「やった!会長さんやっぱり最高の雇い主ですわ~」
夜番お疲れ様、と焼き林檎の三分の一を渡されて嬉しそうにロッテンマイヤーは顔を綻ばせた。
テントを片付けると、またひたすら徒歩が続く。ロッテンマイヤーに相槌を打つのはダニエルに任せることにして、ルーカスは黙々と歩いていた。睡眠と焼き林檎で元気が出たとは言え、初めての野宿で腰も少し痛かったし昨日の疲れがぶり返してくる。森にしては拓けた道だが、次第に遅くなる歩みに気付いたダニエルがルーカスの横に並んだ。
「大丈夫?あと一息なんだけど休憩入れる?」
ダニエルの言葉にふるふると首を振って、ぽつりとルーカスが呟く。
「大丈夫っす。でも、その……旅って大変なんすね」
歩くの一つ取ってもそうだし、食事やテントなどはダニエルたちに助けてもらったものの自分だけではとてもじゃないが音を上げていただろう。しみじみとした実感の籠ったルーカスの言葉に、何故か嬉しそうにダニエルが笑った。
「あははっそうだね。魔物が出ることもあるし、歩き通しは単純にしんどいし実際命懸けだよ」
でも、と前を見据えながらダニエルが眩しそうに呟いた。
「そうじゃなきゃ見れない景色がいっぱいあるんだ」
ダニエルが前方を指差す。
「ほら、見えてきた。───ようこそ、はじまりの町ファティスへ」
エルムの森の木陰が開けた先には、のどかな町が広がっていた。




