第1話『疲労困憊商人と人畜無害な青年』その1
魔王と勇者の物語、と聞けば、大抵の人には馴染みがあるだろう。
これから始まる物語の舞台であるルード大陸もまた、魔王軍によって世界の半分以上を奪われ、選ばれし勇者レオンが頼もしい仲間たちを引き連れ世界を救うべく旅を続けている――そんな場所だ。
けれど、これは勇者の物語ではない。戦うのは苦手で、傭兵は三日で辞めた。彼は何の力も無い正真正銘の一般人だ。
それでも、何かを成し遂げたくて足掻き続けた。自分に出来ることを探して世界を旅した。戦う力はなくても、勇者に選ばれてしまった幼馴染みの力になりたいと願った。
これは──勇者の幼馴染みが、知恵と商才でいつか世界を変えてゆく物語である。
◆◆◆◆◆
ルーカス・スペンサーの朝は今日もいつの間にか始まっている。
「おはようございます、ルーカスさん!」
爽やかな朝の挨拶に、ルーカスは書類から顔を上げた。黒髪に緑の瞳の青年がにこやかな笑顔でこちらを見ている。
「……もう朝っすか?」
ルーカスの言葉に、青年は呆れたように眉をひそめた。
「まさか、また徹夜ですか……?もう朝の八時ですよ」
青年の指摘に、ルーカスは頭を抱えた。またやってしまった。
「あーまた次の業務が来てしまう……」
「お疲れ様です……」
同情の籠った声で労ってくれた青年をぼーっと見やる。えーっと、誰だっけ。
「あーサミュエルくんだっけ」
「ダニエルです。ダニエル・ブラウン」
いつになったら覚えてくれるんですか、とダニエルが笑う。新人はすぐ辞めてしまうので名前を覚える気が失せてしまったのだが、そう言えばこの青年は働き始めてから数ヶ月経つ。教えたら教えただけ仕事を覚えてくれるので、少しだがルーカスの負担も減っている気がした。
「あー、スンマセン。今度こそちゃんと覚えるんで」
「期待してます。じゃあ今日の分の伝票、ここに置いておきますね」
爽やかな笑顔と伝票の白さが目に沁みた。つらい。
ルーカス・スペンサーはそこそこ由緒正しい商家の三男坊だ。スペンサー家はルード大陸の王都セタンタで商売を営んで百年とちょっと。王に苗字をいただいた初代の栄光は遠い昔だが、今も続いているくらいには栄えている。
跡継ぎでもなければスペアですらない三男坊のルーカスは、実家の有力な取引先に情報収集も兼ねて下働きに出されていた。成人してから四年間、今が三店舗目。次から次へと積み重なっていく業務にルーカスは頭を抱えていた。どうしてこうなった。
今彼が働いているバッハ商店も、最初は普通だったのだ。ルーカスは、にこやかな店主に説明されて仕事を少しずつ覚えていった。出来ることが増えるのは誇らしかったが、一つ仕事を教わると、『じゃあ教えたから、次からこれはルーカスくんの仕事だよ』と加速度的に仕事が増えた。
「ルーカスくんは計算も早いし、本当に優秀だね。スペンサーさんにもよろしく伝えてくれ」
そう言われてはへらへらと笑ってお礼を言うしかない。三男は立場が弱いのだ。特にスペンサー家は冷たい実家だったので、駒として役に立たなければ即座に見捨てられる。三男なのに無駄に計算能力の高いルーカスは兄たちから嫌われており、両親は商売のこと以外は無関心。今働いている場所の他に、彼に居場所はなかった。
やるしかない。そう腹を括って二年。しかし、流石にそろそろ限界だった。
「あー風呂にも入らねーと……」
経理が主な仕事とは言え、取引先とのやり取りもある。あまり身だしなみに無頓着でもいられなかった。前回風呂に入ったのが確か二日前。そんな暇があるなら一分一秒でも寝たかったが、生来の真面目さと責任感がのろのろと彼を動かしていた。
「ルーカスさん、大丈夫ですか?」
商品の仕出しをしてくれていたダニエルが戻ってきて、ルーカスに声をかける。
「いやー、流石に二日風呂入ってなかったんでシャワー浴びてこようかなと」
「あー、じゃあ僕ここ見てますからシャワー浴びて少し仮眠だけでも取ってきたらどうですか?この伝票、仕分けしておけばいいんですよね」
にこやかに提案してくれるダニエルに、目頭が熱くなる。名前、ちゃんと覚えてなくて悪いことしたなぁ。
「……ありがとう、ダニエルくん。じゃあ一時間だけ頼むっす」
やっとそれだけ言うと、ダニエルが嬉しそうに笑った。
ボーン、と鳴り響く鐘の音にルーカスは目を覚ました。いち、に、さん、し、ご、ろく……ぼんやりしながら鳴った回数を数えていたものの、十一回目の音を聞いてざあっと血の気が引く。十一時?あれから何時間寝てた?
「やっべぇ死にてぇ……」
よりにもよって新人に三時間も仕事を投げてしまった。罪悪感で死にそうだ。しかし落ち込んでいる暇は無い。
ルーカスは五秒で顔を洗うと、上着を羽織って彼の持ち場に駆け込んだ。そこでは案の定、一番厄介な相手がダニエル相手にくだを巻いている。
「お前みたいな新人に任せられる程ここは安くねーんだがなぁ、ルーカスはサボりかぁ?」
「すみませんフレディさん、ルーカスさんは夢枕商店から至急の問い合わせがあって、少しの間だけ留守を……」
フレディは、このバッハ商店の跡取り息子だ。全く仕事をやらない癖に態度だけはでかい。ルーカスは何故かこのフレディに毛嫌いされていた。彼のこういった妨害によりじわじわとルーカスの睡眠時間は削られ続けているのだが、どうしてこんなに嫌われているのか未だにわからない。
「申し訳ありません、フレディさん。今戻りました」
努めて冷静に答えながら、視線はフレディに固定したままでダニエルに「ありがとう、戻って」と小声で伝える。無視されたと思うとフレディの癇癪が酷くなるからだ。ダニエルは察してくれたようで何も言わず頷くと、その場から退散した。
持ち場に戻って改めて向き直ると、フレディはにやりと笑ってここぞとばかりに捲し立てる。
「良いご身分だなぁ、ルーカス。店番ほっといて何してた?」
「スンマセン、夢枕商店から至急の問い合わせがありまして……」
ダニエルに口裏を合わせながら、上手い言い訳だなと思う。寝具屋である夢枕商店は、生地に並々ならぬこだわりがある。卸問屋であるこのバッハ商店の顧客の中でも癖があり、ルーカスはしょっちゅう呼び出されては夢枕商店に出向いていた。ダニエルが何処まで把握してこう言ったのかはわからないが、わかってて言ったとしたら見所がある。もう少し仕事を教えるべきかもしれない。
「大きな面してんじゃねぇよああッ?!」
客先対応は大事な仕事だ。普通は店主やこのフレディが行ってもいいくらいなのだが……仕事を覚えておらずやれないのはフレディの責任だ。何処か冷めた気分で、顔だけはへらへらと笑顔を浮かべつつ答える。
「フレディさんを煩わせるまでもない雑用ですから」
「チッ」
フレディが苛々と舌打ちする。仕事をしないどころかこうして邪魔ばかりするフレディに、ルーカスは辟易していた。
「フレディさんにはもっと重要な仕事を任せるとオリマーさんも仰ってました。雑用はこちらでしますから……フレディさんはお忙しいでしょう?」
店主の名前を出しつつ、懇願するように遠回しに帰れと伝える。そこにダニエルがひょいっと顔を出す。
「ルーカスさん、先程の件で夢枕商店さんが伝え忘れたことがあるそうで……あ、フレディさん良かった!お願い出来ますか?下っぱの僕じゃとてもとても……」
その言葉にフレディは慌てた。
「急用を思い出した。ルーカス、ちゃんとやっとけよ」
荒っぽい足音を立てながらフレディが退散する。ほっとしつつ、ルーカスはダニエルに礼を言う。
「助かったっすダニエルくん。じゃあ俺は夢枕商店の方に……」
「あ、夢枕商店さんの件は嘘です」
しれっと笑顔で言うダニエルに、ルーカスは耳を疑った。人畜無害な微笑みを浮かべて、ダニエルは穏やかに提案した。
「それより、この伝票片しちゃいましょう。教えてくれれば一緒にやるんで」
「……ダニエルくん、よくフレディ相手にあんな嘘吐けたっすね」
二人で伝票を処理しながらルーカスがぼそりと呟く。そう言いつつも、ルーカスの手の速さは一切変わっていない。本人に自覚はなかったが、ルーカスはマルチタスクが苦にならない天才肌だった。そういう所がフレディの劣等感を刺激しているのだが。
対して、計算のややこしさにダニエルは顔をしかめている。
「えー?だってあの人、何にも仕事出来ないでしょ。度胸もないし」
逃げるに決まってる、と当たり前みたいに言うダニエルに絶句する。今朝までの好青年と同一人物だと思えない。
「ダニエルくん、苗字持ちってことはいいとこの出なんすか?」
この国で苗字持ちと言うことは、すなわち王様から褒賞として苗字を与えられる程の功績を立てた家の出身、と言うことだ。この国の国民の大部分が苗字すら持たないことを考えると、苗字があると言う時点で名家の出身と言って良い。ダニエル・ブラウンと名乗った青年は気にするでもなく伝票に向き合って唸っている。
「いや、ファティスの片田舎の出身で大した家ではないですよ。身内も母だけですし……それよりこれ、よく一人でやってましたね?」
山のように積み上がった伝票に、げんなりとしてダニエルがぼやく。だが、他にやれる人員がいないので仕方ない。
「こんなのは手を動かしていれば終わるっすよ。個人的には客と話すより何倍も楽っすね」
そう話しながら、処理済みの伝票を次々と仕分けていく。こんなものは慣れれば単純作業でしかない。
そうは言っても、この国の識字率は二割弱。計算まで出来るとなると更に貴重な人材だ。ルーカスより速度は落ちるとしても、ダニエルは着実に計算して伝票を確認してくれていた。一人でやっていたことを考えると、それだけで有り難さが身に染みる。
「今日はほんとにスンマセン。三時間も寝過ごした尻拭いをさせた挙げ句、色々助けてくれて」
言葉にすると本気で情けなかったが、助かったのは事実だ。しみじみと感謝を述べるとあどけなさの残る顔でダニエルが笑う。
「帰って来ないからどうしようかと思いましたよ。まあそれだけ普段頑張ってて、疲れが溜まってたってことだと思うんで」
さりげなくルーカスを労いつつ、にこっとダニエルはこちらに顔を向ける。
「まあその分、仕事を教えてもらえれば僕も嬉しいです」
卸問屋は初めてなんですが、奥深いですよねーと楽しそうにダニエルは語る。不思議な青年だな、とルーカスは思った。
何処にでもいるような地味な容姿なのに、にこにこと笑いながらいつの間にか場に馴染んでいる。よく笑い、気持ち良く働いてくれる子だなと数ヶ月一緒に働いていたのに初めてそのことに気付いた。人付き合いが元々苦手なのもあるが、こういう所が自分は駄目なのかもしれないと反省する。
「僕はルーカスさんに一通り教えてもらったらこの店を出る予定なんですが……ルーカスさんはどうするんですか?」
まさか一生、この店に尽くしはしないでしょう?当たり前のように訊いてくるダニエルに言葉を失う。今日のことでさえいっぱいいっぱいなのに、その先のことなんか考えたことはなかった。
「俺は……どうなんでしょうね。実家に言われるままに此処で働いてるだけなんで」
明日にはまた新しい仕事が積み上がって、問答無用で忙殺されるだろう。しばらくはダニエルが助けてくれるかもしれないが──彼が去った後、自分はどうなるのか。久々に未来のことを想像して、ルーカスは暗澹たる気持ちになった。
疲れ切ってはいたものの、久々にその日の業務をやり遂げてルーカスは寝床に帰ってきた。
「良かった……久々に今日は何も考えずに寝れる……」
ぼふん、とベッドに倒れ込むとごろごろして布団を満喫する。仮眠をソファでとるばかりだったので、解放感が半端なかった。
「首も背中も腰も痛くならない……最高」
当たり前のことを呟くルーカスのおでこに、硬い紙がこつんと当たった。
「いてっ……あー定期報告……もうそんな時期っすか」
月に一度、月末に届くこの手紙は実家からの定期報告の催促だ。いつも同じ封筒便箋に、同じ文面。事務的な内容が変わったことは今までに一度もない。
今働いている商店の業績や裏情報をこっそりと報告する為のものなのだが、今までの店舗と違って忙殺されるようになってからは詳しい内容は書けていない。書く気力もなかった。
「とりあえず……問題なしっと」
走り書きでいつものように一筆書くと封筒に入れて封蝋をし、スペンサー家の厳めしいマジックストーンでさっと封筒の表面を擦る。そうするといつものように手紙は灰色の魔力に包まれ、開けていた窓から勢い良く飛んで行った。
「……寝よ」
書き終えると力尽きたように、ルーカスは今度こそベッドに倒れ込んだ。
いつものように伝票を整理し、納品した商品を確認、分配して要望のあった店や個人に振り分ける。注文した商品が入荷した旨をダニエルに手紙に認めてもらうと、ルーカスが最終チェックして封をし、宛先の商店のマジックストーンを擦って手紙を発送した。
それぞれの店ごとに違う、色とりどりの魔力の靄に包まれて飛んで行く手紙を眺めながらルーカスが息を吐く。
「ダニエルくん、字が綺麗で助かったっす」
「あー、まあ小遣い稼ぎによく代筆屋してたんでこれくらいは」
手紙が飛んで行く様を眺めながらダニエルが呟く。
「これだけマジックストーンを活用している店、初めて見ました。こうして見ると壮観ですね」
「まー卸問屋は客とのやり取りが生命線っすからね」
ルード大陸では、子供から老人に至るまでみんな魔力を持っている。その魔力は一人一人違っていて、一人として同じものはない。その魔力の性質を利用した代表的なものが手紙だ。
個人個人の魔力は、身に付け続けたものに染み込むという性質を持っている。研究によると五年以上身に付ければ確実に移るらしい。物は何でもいいのだが洗濯すると魔力が薄れるので、出来れば小石や宝石など壊れにくいものがベストだ。それを、魔法の便箋に書いた手紙に擦ると相手の魔力に向かって手紙が飛んでゆく。それがルード大陸における手紙のシステムである。
旅先であっても消息不明であっても、死んでいない限り手紙は届く。それがルード大陸における手紙の利点だ。
そして商取引においても、通信機器が普及していない現在、手紙は生命線である。ただ勿論、すべてを前述の個人宛の手紙に頼るのは無理がある。五年以上持ち歩き身に付けていたものしか使えないので、数に限りがあるからだ。あと単純にプライベートと仕事を分けられないのは困る。
そこで登場したのが、土地の魔力を利用したマジックストーンによる手紙のシステムだ。未使用の魔法石を一年ほど、商会や店に置いておく。そうして出来上がるのが、その土地と店の人間の魔力を記憶したマジックストーンだ。このマジックストーンを手紙に擦ると、土地宛てに手紙が届く。商談では主にこのマジックストーンを使って手紙のやり取りをする。
その為、大きな商店や商会には連絡を取る用のマジックストーンが山のように置いてある。商会や店にとって名刺のような物なので、商機を逃さない為にも切らすことは無い大切な代物だ。
人に届く手紙と、場所に届く手紙。この二種類を使い分けて人々は連絡を取り合っているのである。
さて、ダニエルにきちんと仕事を教え始めて一週間。ルーカスはもっと早く色々教えれば良かったと反省していた。忙しすぎて気付いていなかったが、ルーカスのやっていた仕事量はいつのまにか一店舗分丸々の事務処理と客対応になっており、普通は一人でこなせる量ではなかった。それを曲がりなりにも何とか回せていたルーカスの有能さも異常だったのだが……ダニエルと一緒に業務を分担出来るようになり、ちゃんと寝に帰れるようになったルーカスは誰かと協力するって大切だったんだなぁと睡眠の幸せを噛み締めた。人と話すのはあんまり得意じゃないけど、これからはもう少し頑張ってみよう。
今までは客先と話すだけでもう人と話す気力が湧かなかったのだが……同じ商店の人ともう少しちゃんと会話してみるといいかもしれない。
ルーカスが珍しく人付き合いに前向きになりかけた頃、その事件は起こった。
今日も今日とて伝票を仕分け、仕入れた商品の代金を支払い、在庫を確認しつつ連絡、品を受け取った取引先から代金を受け取る。ダニエルには取引先への手紙や対応をお願いすることにして、決算日の今日ルーカスは計算に集中していた。
客先と話さなくて良いだけで全然効率が違う。決算日は大抵徹夜だったのだが、今日はちゃんと寝に帰れそうだ。知らず気を抜いていたのだろう。手洗いから帰ってきたルーカスは、騒ぎ立てるフレディの声に耳を疑った。
「おいおいルーカスゥ、売り上げはどうしたんだぁ!?全然足りねえじゃねーか!」
フレディは先程までルーカスが座っていた手提げ金庫の前に居座り、にやにやしながら大声で糾弾してきた。店内はざわめき、他の従業員が興味本位で集まってくる。
「えっフレディさん?そんな筈は……」
席を立つ際に、一日の売り上げを保管したり釣り銭などを出す金庫にはきちんと鍵を掛けている。そもそも管理をしているのはルーカスなので、そんな真っ先に疑われるようなことをする理由はない。
しかも、ルーカス以外で金庫の鍵や暗証番号を知る人物は──店主のオリマーと跡取り息子のフレディだけだ。
「おっと、それ以上近寄るなよ?どうせお前が盗ったんだろうからなぁ」
「……え?」
急な展開に頭が働かない。フレディは何て言った?店内のざわめきは更に大きくなってゆく。
王のお膝元であるセタンタにおいて、王の威光を損ねる犯罪への処罰は他の町より厳しい。殺人は死刑、脱税は鉱山労働、窃盗は──焼き印だ。
「いや、盗んだとか……そんな訳」
ルーカスは焦って、思わず一緒に働いてきた同僚たちを見回した。二年も一緒に身を粉にして働いてきたのだ。しかし、皆がさっと俯き誰も目を合わせてくれなかった。名前を呼ぼうとして、誰の名前も浮かばない自分に絶望する。ああ、そうか──ここに無実を証言してくれる仲間は一人も居ない。その程度の人間関係も、自分は作って来れなかったのだ。
「おいおいおい、やっぱりお前が盗んだんだろ?誰も庇いやしねーじゃねぇか」
フレディが嗤う。
そう。窃盗が真実かどうかなど此処では何の意味もない。店主は恐らく、フレディの言い分をそのまま憲兵団に報告するだろう。それで……終わりだ。
ルード大陸において、焼き印を入れられたものはまず真っ当な仕事には就けなくなる。裏稼業に身を落とすか、死ぬか……実家は間違いなく自分を見捨てるだろう。
上手く息が出来ない。頭が真っ白になりかけた時、よく通る穏やかな声が響いた。
「え?フレディさん、ちゃんと入ってますよ売り上げ」
いつの間にか、ダニエルが金庫の中身を綺麗に積み上げている。誰の目から見ても数がわかるように。
「数え間違いですよ!ほら、帳簿とぴったり。きっとこの金貨めちゃくちゃ汚れてるから、見間違えたんですね」
明るい声でそう言って、ダニエルは微笑んだ。
「良かったですね、フレディさん!」
ダニエルの明るい様子に、従業員たちの顔にも安堵が広がる。
「良かった良かった」
「窃盗事件なんて穏やかじゃないもんなぁ」
そんな弛んだ空気に、フレディが慌てる。
「そ、そんな筈ねぇだろ!えっ?確かに……」
慌てて金貨銀貨に手を伸ばすフレディを、ダニエルが静止する。
「大丈夫ですよフレディさん。誰にだって間違いはありますから。そして、ミスの再発防止には複数の目で確認するのが一番です──リカルドさん」
ダニエルに名指しされた古参の従業員がビクッと身を震わせる。
「え?オレ?」
「新参者の僕ではフレディさんも安心出来ないと思います。オリマーさんからの信頼も一番厚いリカルドさんに確認してもらえれば、フレディさんも安心ですよね?」
にこやかにダニエルがフレディに確認を取る。皆の視線が自然とフレディに集中した。
「え、あ、ああ……あっ」
ダニエルの言葉に思わず頷いてしまう。予想外の展開に、フレディは最早ついていけていないようだ。
「そう言われちまうとなぁ……フレディの坊っちゃん、いいですかい?」
指名されたリカルドが歩み出て、皆の前で再び売り上げを勘定する。帳簿ぴったりの金額に、従業員全員から快哉の声が上がった。
「……スさん、ルーカスさん」
肩を叩かれる感覚に、びくりと我に返る。
「大丈夫ですか?」
心配そうにダニエルが顔を覗き込んできた。大丈夫、と答えようとしてルーカスは咄嗟に口を押さえた。……吐きそうだ。
「わぁあっルーカスさん、しっかり……リカルドさん、ウォルターさん、後の業務お願い出来ますか?」
古参の従業員の名前を呼ぶダニエルに、ぼんやりとそう言えばそんな名前だったなと頭の隅で考える。数ヶ月しか一緒に働いてなかったダニエルでさえわかることがわからない。この薄情さだから、こんな事態に陥ったのかもしれなかった。
「ルーカスさん、お手洗い行きましょう!我慢出来ますか?」
足を動かそうとして膝が笑ってガクガクしていることに気付く。ああ、くそ。本当に散々だ。
手で口を押さえたまま小さく頷き、意地で足に力を入れる。支えられながら便所に胃の中を丸ごと吐き出すとすっきりした。──胃はまだムカムカしていたが、中身がないのだからもう吐くことはないだろうとぼんやり考える。さっきまで背中をさすってくれていたダニエルの声が遠く聞こえた。
「ルーカスさん、具合悪そうなので僕送って行きます。……はい、よろしくお願いします」
……本当に何者なんだろう、この人は。数ヶ月前に来た新人なのに、誰の気にも障ることなく自然と場を仕切っていることに笑ってしまう。惨めさに涙が出そうになって頭を振る。ダニエルがぱたぱたと戻ってきた。
「ルーカスさん、大丈夫ですか。水持って来ました」
渡されるままに水を飲み下し、心配そうに見つめる優しげな緑の瞳に何とか笑いかける。
「だ、大丈夫っす……ちょっと休めば」
「……ルーカスさん、貴重品と着替え持って来れます?」
真剣な声に瞬いて顔を向けると、ダニエルが苦笑いした。
「今夜は僕の宿に来ません?住み込みとは言え嫌でしょ、この店に泊まるの」
続きます。