8:グランウィルの赤
賭場での一夜は、懐を冷やしもあたためもしなかった。
いつもなら流れを見てさっさと仕掛けるのだが、配られた札が中途半端に良かったせいで、考えているうちに一戦終わってしまった。
大きな勝ちはないが負けもない、そんなゲームをダラダラ繰り返していると、『今日はダメだ』という感覚が沸いてくる。
親の目配り、他の客の態度、店全体に漂うピリピリとした緊張感がイカサマの手を止めてしまい、踏み切れない。
結局綺麗に遊んだだけで、店じまいの時間になってしまった。
僅かに増えた金を財布に戻し、賭場を出た。
一滴の酒も飲まず、暗い店で夜を明かした目はしょぼしょぼとし、空きっ腹がグウと鳴る。
「……何か食うか」
温かい所で一晩やり過ごすという、当初の目的は果たした。
だが財布の中身を考えると、一体俺は何をやっているのかとむなしい気持ちが募る。
もっとこう、馬車でカモを誘ったり、目を付けた獲物をこの町で卸すとか、色々うまく行く筈だったんだがなあ……。
馬車の時間にはまだ早い。
朝靄の立ちこめる町は少しずつ起き出し、ダズが適当な店にその身を滑り込ませた時、一つ目の鐘が鳴った。
目の下にクマをこさえた中年女が、シミだらけの前掛けで手を拭きながら言う。
「注文は?」
「エールと肉入りの煮込み」
無言で指を立てる女に銅貨を放り、受け取ってさっさと端の席に向かう。
ごちゃごちゃとして見た目は最悪だが、物が積み上がっているので風除けになる上、通りからは死角になっている。
まっとうな生き方をしていないダズには、会いたくない人間も多い。
身を隠すのは癖だった。人波に紛れ、呼び止められても足を止めず、さっさと角を曲がって引き離す。
──俺に用事のある人間なんてのは、大抵ろくな相手じゃない。
粗末な古材のベンチに座り、手を擦り合わせながら貧しい食事に向き合う。
「……はぁ」
湯気の立つ木のボウルからは独特の匂いがしていたが、今は味より温かさの方が重要だ。
子供の頃嫌というほど味わった、あのやるせない空腹感に比べれば、食べられるだけマシだ。
がつがつ椀の中身をかき込む。
肉と称するものはほぼ見当たらず、殆どがくず野菜と刻まれた臓物であったが、吐き出すほど酷くはなかった。ちゃんと味もする。
ポケットからパンを取り出す。これで最後だ。
出発前に一番安いのを買って、なんとかもたせるしかない。
ちくしょう、何かいい稼ぎがあれば──
「ん?」
カチカチの筈のそれは、何故か少し柔らかかった。
少し考えて、そういえば入れっぱなしのままあの子供に渡したのだと思い出す。
あの一家が服を洗濯する時は湯気が出る。
そして受け取った上着は温かかった……どういう仕掛けか知らないが、魔法で熱と水と、何かを加えて綺麗にするのだろう。
「……ふん」
パンのかけらを汁に入れ、柔らかくして口に入れる。
薄いエールで流し込み、五分も経たず食事は終わった。
体があたたまると眠たくなってきたが、人が入ってくる度ついでのように女が睨むので、致し方なく店を出た。
「寒っ」
店主が横を向いている隙に、積まれたりんごを一つくすね、囓りながら見て回る。
付近の農村から運ばれてきた野菜、麦わらで編まれたざるやかご、殻付きくるみに麦の袋と売り物の種類は多い。
ただ全体的に値は上がり気味で、目当てのパンは一回り小さくなっていた。
早速交渉を始めたが、反応は渋い。
高くても売れるからだ。ダズとっては嬉しくない傾向である。
「前に買った時はこんな小さくなかったぞ」
「嫌ならいいさ。余所へいきな」
「そっちのでかいのは?」
「こいつは馬用のパンだ。人間も食えるがな」
言い添える辺り買っていく客がいるのだろう。
流石にまぜもの入りのパンは食いたくない。ダズは渋々人間用を指さした。
「麦の値が上がっている。俺達だって困ってるんだ」
「なんでそんな事になってんだ? 俺は王都から来たんだが」
「その王都から来た連中が麦を買いあさってる」
店主は声を潜め、ちらりと視線を寄越す。
「何か知らないか?」
「さあ」
ダズはそう言って誤魔化した。
噂は色々とある。だが本当かどうかはわからない……きな臭い話はごめんだ。
国が荒れる時は匂いがする。
物が消え人が減り、あちこちで物騒な事件が起きる。
兵士や役人がゾロゾロ出てくるから、ダズのような人間は身動きが取れない。
こういう時はさっさと逃げちまうに限る。
馬車の配置が換わり、乗客も大多数が入れ替えになる。
幸いな事に例の一家の姿はない。乗り遅れたらチケットは無効になり、新たに買い直さねばならないが、それは彼女たちが考える事。
ダズの乗った馬車は順調に埋まっており、内心ほっとしながら席に着く。
「失礼、荷を置かせてもらっても?」
「もちろん。よろしく頼むよ」
大荷物を抱えた男が隣に座った。
愛想良く答えたダズは、早速客を値踏みする。
毛織物の帽子にコート、手には指輪をはめ、金の匂いがプンプンしやがる。
カードに誘うか、持ち物をいただくか、はたまたその両方か。
出発してしばらくは様子を見る。会話の中でそれとなく行き先を聞き出し、時機を見計らって──
「なんだ?」
カンカンカン! と激しく鐘が鳴らされる。
出発のそれではなく、何か緊急性のある音だ。
ざわめく乗客に、ひょこりと顔を覗かせた護衛が『霧だ、霧』と説明する。
「朝は出るもんだが今日は特に酷い。先の馬車の尻が見えない。間隔を詰めて速度を落とす事になるだろう」
「遅れてしまうのではないかね?」
「多分な。いつもの事さ」
「なんと無責任な!」
隣の男が怒り出した。
どうしても今日中に着かなければいけない用事があるらしい。
「予定より遅れたら金は返してもらうぞ!」
「そいつは無茶ですぜ、旦那」
「なんだと!」
「チケットの裏に書いてあるでしょう。天候により遅延あり、ってね」
「冗談じゃない、こっちは商売がかかってるんだ!」
気持ちはわからないでもないが、この場合どうしようもない。
徒歩でも馬でも馬車でも、霧が出たら速度は落ちる。
なにせこの先は山道で、無理に進むと崖下に真っ逆さま。実際そういう事故が起きている。
「その商売だって命あってのものだろ?」
「ぐぬぅ……」
男はイライラに任せて身を揺らした。
隣のダズ、更にその隣の客へと揺れは伝わり、車内の空気が張り詰める。
いかん、流石にこれは耐えられん。
「まあまあ、落ち着きなって」
反対隣には作業用の前掛けをした職人らしき男が座っていて、背は低いががっしりとした体つきだった。
拳なんぞダズの二倍はありそうだし、どう見ても大人しい、気の長い人物には見えない。
右足のかかとをコツコツと鳴らし、騒ぐ男を睨んでいるので、彼らに挟まれているダズは慌てて言い募る。
「天気ばかりはどうしようもない。彼らだって商売だ、できるだけ早く着きたいと思ってるさ。それでも、どうしても遅れはある」
「その通り」
「う、うむ……」
「あんただって商売人なら分かるだろう? 世の中何でも予定通りに行くなら、俺達みんな金持ちだ。残念ながらそういう事はない」
「そう、なんだが……」
「何か急がなきゃならない事情があるのかい?」
親切ごかして尋ねれば、男は堰を切ったように話し出す。
結局の所この客はせっかちで、焦っていて、退屈していたのだ。
こうしてはけ口を作ってやれば、喋りに夢中になって若い護衛をいじめるのは止めるだろう。ついでに俺の商売の目処も立つ。
「へえ、そいつはかなり大きな商談だ」
「そうなんだ、私はこれに身代をかけていて……」
ダズが見立てた通り、男は大店の関係者だった。
毛織物を扱う商会の次期会長だと嘯くが、実際の所はわからない。一応血縁だという話。
少なくとも身なりは良く、十分な路銀を持っていそうだ。
自分がいかに有能かを訴える男にウンウンと相づちを打ちながら、ダズが考えていたのは幾ら身代金が取れるか、という事だった。
顔見知りの悪党三、四人に声をかけ、こいつを攫って人気の無い所に閉じ込める。
商会に手紙を渡し……もちろん両方に見張りを立てる必要があるだろう。
金を出すというなら待ち、兵士に知らせが行けば……その場合この男は、悲しい結末を迎える事になる。
「本当にお気の毒だよ。あんたのためにも早く着くといいんだが」
「ああ、せめて霧が晴れてくれたなら!」
山越えはもとより速度を落とすため、時間はそう大して変わらない。
問題はその後だ。本来であれば見晴らしの良い草原が次の町まで続いているのだが、霧の中では前の馬車を見失う。
慣れて道を覚えている馬もいるが、全てではない。
間違って横道に逸れると、草地にはそれとは分からない穴があいており、最悪の場合馬を駄目にしてしまう。
「私は世界一不幸な男だよ……はあ」
──何言ってんだ、こいつは。
ダズはひくつく目元を隠し、この甘ったれた男に対する呪詛を飲み込んだ。
まともな服を着て、勤め先があって、これ以上何を望む? 食うに困った事もないくせに。
「そんなことはない。あんたはよくやってる」
心とは裏腹な言葉を口にする。
俺は悪党だ。人を騙すのが仕事なんだ。
道中も男は気が気でなく、馬車が速度を緩める度ため息を吐いていた。
疎ましがる他の客といい加減衝突しそうになったので、ダズは奴を休憩に連れ出し、外の空気を吸わせる事にした。
「おじさま!」
じっとりとまとわりつくような霧を一直線に払うように、甲高い子供の声がした。
しまった、油断した。
踏み出した足を引っ込めるがもう遅い。子供は風のように走ってきて、ダズの前に回り込んだ。
「見つけたっ!」
「やあ、嬢ちゃん……」
「こちらの馬車に乗っていらしたのね。よかったわねアンナ」
「この子ったら、朝から『おじさまはどこ?』って、ずっとあなたの事を探していたの」
「あうー」
「ハハ、そうでしたか」
昨日の夜別れた筈なのに。
盛大に舌打ちしたい気持ちと、今ここでぼろを出す訳にはいかないという葛藤の中、ふと隣を見ると隣の男が大口を開けていた。
「こ、こちらの方々は……?」
「あー、昨日まで馬車で一緒だった人達だよ」
「はぁっ」
他であれば笑ってしまうような反応も、この連中相手なら納得だ。
服装はまあまあ普通だが、話す言葉、立ち振る舞い、何より彼女たちの発する雰囲気が、あまりに違い過ぎるのだ。
「こんにちは」
自分を始点に交わされるにこやかな挨拶を、諦観の念で見つめる。
「あなたは?」
「これは失礼しました。わたくしバリー商会の者でして。この先の町まで商談に行く所です」
「バリー……確か……毛織物の」
「ご存じでしたか!」
理解者を得た男は大喜びで語り出した。
自分がいかに有能で、上に見込まれているか。
商会は自分がいなければ立ち行かず、だからこそ重大な仕事を任されたのに、この遅れのせいで全てが台無しになりそうだ、と。
「それは可哀想だわ」
「あぁ……! 分かって下さるのはダズさんと、お優しい奥様だけでございます。美しい方は心も美しいのですね」
男の世辞を軽やかな笑いでいなした奥方が、こちらを見て『そう……ダズさんと仰るの』と呟く。
心臓がキュウと締め上げられ、呼吸が速くなった。
何故俺は名乗ったのか。こいつが喋り過ぎるからだ! クソ、俺が乗せられてどうする!
「確かにこの霧は困りものね。私建物のない所で寝た事がなくて」
「まったくですな。霧ごとき、なんとかならんのか」
「子供達を馬車に寝せるのは心配だわ……」
「我がバリー商会の損失を考えると……」
二人はそれぞれ好き勝手な事を言い、内容はまったくかみ合っていないのだが、結論は同じ所へ収束する。
「この霧をどうにかするしかありませんな」
「そうね……霧の中でも走れるよう、目印を付けてはどうかしら?」
「イヤッホー!」
「こりゃいいや、よく見えるぜ!」
ガタガタと車輪を鳴らして走る馬車の一団は、霧の中をまっすぐ進んでいく。
その全てが鮮やかな色で塗られていた。不思議な事に色の付いた馬車は、霧の中でもはっきりと見える。
「簡単ですわ。馬車に色を付けます」
最初聞いたときは頭がおかしいのかと思った。
しかし女は自信たっぷりに御者を呼びつけ、『色を塗るから客を降ろしなさい』と前置き無く要求を突きつけた。
「はァ? なんだって?」
「この霧の中を安全に進む方法よ。私に任せて頂戴」
「……あんたまた何かやるつもりか?」
「この方の言う通りにしたまえ!」
悪い事に今回は支持者がいた。
『急いでるんだ』『金なら出す』とせっつき、とうとう頷かせてしまった。
何事かとぞろぞろ出てきた客の前で、女は自信たっぷりに手をかざした。
「赤!」
一振りでかたまりのような何かが飛んでいき、真っ白な幌にぶち当たる。
そこから見る間に赤色が広がって──五秒もしないうちに馬車は真っ赤に染め上げられた。
「この色は魔法で付けているの。だから夜でも見えるのよ」
「おかあさま、すごい!」
「一体何に使う魔法なのかしら?」
驚く客に目もくれず、三人は次の馬車に取りかかる。
娘二人に馬車を洗浄させ、幌を真っ白にした後、母親が色を付けていく。
「緑!」
「黄!」
「青!」
色は擦っても落ちず、霧の中でも輝いて見える。
カラフルな馬車の群れ。魔法で染めるだって?
まるで悪夢のようだとダズは思ったが、更に気分が悪くなるような話が聞こえてきた。
「これはね、あなたのお祖父様の得意魔法。戦場で敵味方を見分ける時に使うの。強い順に印を付けて追いかけたり、お祖父様自身が囮になって敵軍を引きつけるのにとても便利なのですって」
「グランウィルの赤!」
背筋を冷たいものが滑り落ちる。
グランウィルというのは国の北端にあるド辺境。
国境に面したグランウィル領は常に他民族からの侵略を受け、国で一番長く戦が続いている。
そうでなくても厳しい自然と険しい地形から、『強くなければ生きられぬ』と詩人が歌う試練の土地だ。
グランウィルに生きる男達、その全てが戦士であり、彼らは命をかけて家族を守る。
結束は固く、身内に害が及べば相手が誰であろうと地の果てまで追いかけ、復讐を果たす。
一つとして例外はなく、手を出した者は個人、組織、貴族であっても根絶やしにされる……らしい。
「そう、最初は赤だった。私が他の色を出せるかもしれないと言って、無理矢理教わったのよ。それは成功して、部隊が色の名に変わったわ」
「冗談じゃない……!」
馬車の中でも身の震えは止まらなかった。
あいつらただ者じゃねえとは思っていたが、そんな物騒な奴らと繋がりがあったなんて。
関わらない事は大前提として、今後絶対に近づくまいと心に決めたダズであったが、その足は予想外の方向から絡め取られてしまった。
「ダズさん、これは素晴らしい商売になりますよ!」
「なんで俺に言うんです……」
「だって彼女たちとお知り合いなんでしょう? 是非仲立ちをお願いします、仲介料ははずみますから。それで、私の考えとしては──」
「勘弁してくれ」
結局の所、男の言葉はある程度本当だったのだろう。
幾つもの町を越え、その度に奴はバリー商会の名で席を設けた。
男の熱意に彼女たちは感心していたが、金額の設定については意見が割れた。
この色がいつまで保つものか、正確には分からない。
だから事前に説明し納得した人だけに、『ほどほどの値段』で提供したいのだと。
最終的に馬車の洗浄と幌の染色を銀貨十枚で請け負い、バリー商会は新たな商売をモノにする事は出来なかった。
しかし後にとある夫人の許しを得て販売した色付き幌布は、染め抜きや絵付けという形で発展していき、商会を長く支える一大商品となるのだった。