7:車中の攻防
色鮮やかなガラス玉のような目が、じっと見つめている。
子供の頃、それは宝物だった。道端で拾ったか、誰かの持ち物をくすねたのか、その辺の記憶は曖昧だ。
手の中で転がる小さくてつるりとしたかたまりは、いつも大事にポケットにしまわれていた。
ダズはそれを時々取り出して眺めては、『これがもし宝石だったら』と考えた。
一度も顔を見た事のない父、働きに行くと言ったきり二度と戻らなかった母、ここにいる惨めな俺は全部消えて、金持ちになれるのに。
道端にうずくまり、人の足が通り過ぎるのを見るだけの惨めな暮らし。
まっとうに働くには幼く、大人の世話になるには大き過ぎた。
三日も経たぬうちに家を追い出され、後はお定まりの転落人生。
……あれはどこへやったのだろう。
持っていれば目の前のガキにくれてやり、俺はさっさとずらかるのに。
「アンナー?」
いくら目を伏せて顔を背けても、子供はしつこく顔を覗き込む。
何度姉に呼ばれようとダズの側を離れず、それどころか近づいて来さえする。
着古した上着の肘部分を指さし、子供らしい純粋さで現実を突きつける。
「穴があいてる」
「ああ、そうかもな」
「おせんたく、する?」
「いや。結構だ」
あっちへいけと怒鳴りつけたい。
しつこいやつめ。何度も同じ事を聞くんじゃない!
俺はただ此処にいるだけだ。お前にもお前の家族にも手を出さない、だからどうか俺に構わないでくれ。
「無理強いはいけないわ、アンナ」
「だってわたし、きれいに……」
「そうね」
軽やかに飛ぶ小鳥のような声だった。
いつものダズなら舌なめずりをし、しつこく話しかけたであろう美しい少女は、しかし恐ろしい魔法使いである。
彼女は妹の手を引いて、まだまだ未練のありそうなその顔を指の背で撫でた。
「御入り用ならいつでも言ってくださいね。私も妹も、随分上達しましたの」
ただでさえおかしな連中が、更に妙ちきりんな事を始めたのは、昼の休憩時だった。
それまで大人しく……もないが、席にだけは収まっていたのに、幌を開けた護衛が車内を見て騒ぎ出したせいで。
「なんだこりゃすげえ!?」
「どうした?」
顔を覗かせた御者はせわしなく視線を行き来させ、乗客一人一人の顔を確かめていたが、そのうち様子の変わった床と天井に気づき絶句する。
例の一家は自信満々の様子だったが、御者の目には戸惑いと警戒が浮かび、歓迎している風ではない。
奴は最終的ににこにこ笑っている女とその子供らを見つけ、『あんたらの仕業か?』と。
「ええ」
「何をした?」
「汚れていたので綺麗に……そうよ、私たち、掃除をしたの」
女はうふふと笑った。
目をキラキラと輝かせ、楽しくて仕方がないというように。
「誰だって土の上に荷物を置くのは嫌でしょう?」
「フン、余計な事を……あんたらが勝手にした事だ、金は払わねえぞ」
「お金? お金がもらえるんですの?」
女が素っ頓狂な声を出す。
一瞬言葉に詰まった御者の脇から、護衛が『そりゃそうだ、馬糞掃きの小僧だっているんだし』と余計な事を言う。
睨まれて慌てて口を噤むも、目がキョロキョロと動くあたり面白がっているようだ。
「そうじをしたらお金がもらえるってこと?」
「そういえば宿でバター付きパンをもらったわ!」
興奮した様子で娘達が騒ぎ出す。
小遣いを稼げる見込みが出来て嬉しいのかもしれないが、それにしたって大げさだ。赤ん坊まで足をバタバタさせている。
「だから、勝手にそんな事をされてもだな」
「お洗濯はどう? 上着やズボンやお帽子だって、全部綺麗にして差し上げてよ」
「やれるものならやってみな。水もないのにどうやって──」
せせら笑う男のすぐ横で、白い湯気が立ち昇る。
慌てて首を引っ込めた御者は外で何やら怒鳴っていたが、目の前で白くなっていく幌布を見て急に静かになった。
「なんだこりゃあ……」
ピンと張り詰めた布が白く輝いている。
泥や埃を一掃した馬車は見違えるほど綺麗になり、まるで下ろしたてのよう。
女はおもむろに立ち上がり、優雅な足取りで馬車のステップを踏む。
思わずと言った様子で手を差し伸べた御者は、帽子を脱いで胸にあてた。
「……わかった。あんたは大した仕事をしてくれた。俺の馬車がピカピカになっちまった代金は払わせてもらう」
「ありがとう」
「次はやる前に言ってくれるとありがたい」
馬車の掃除代は銀貨だった。
しみったれが随分奮発したようだが、幌を新調するよりはずっと安くつくわけで──しかめ面をしているが、内心うまくやったと思っているに違いない。
「俺の上着も頼む!」
「この袋にある服を全部お願いしたらお幾ら?」
「靴を綺麗にして欲しいんだが──」
女と娘二人は興奮した乗客に囲まれ、何事かと別の馬車の連中まで集まってきた。
彼女たちは早速客の服を“洗濯”し、あっという間に仕上げて渡す。
そのスピードに皆驚き、列は瞬く間に伸びた。
着ている物を脱ごうとする奴まで現れ、場は一時騒然となる。
「はいおじさま」
「ありがとう。お手伝い出来てえらいねえ」
綺麗にした上着を、下の娘が畳んで渡す。
子供の手ではうまく出来ないのか、折る片端から崩れているが、受け取った男は相好を崩し、料金とは別の銅貨をポケットに入れてやっていた。
ニコッと笑った子供が『わあ、ありがと!』なんて言う光景に、うなじの毛が逆立つ。
「……ケッ」
こいつらなんにも知らねえんだ。
魔法使いに自分から関わるなんて、俺は絶対にするもんか。
「ねえねえ」
「……なんだい、お嬢ちゃん」
魔法使い一家の洗濯屋は繁盛していたが、ダズは一度も頼まなかった。
幾らあっという間に仕上がって、新品同様に清潔で、銅貨一枚と破格でも、絶対に関わりたくなかったのだ。
しかし下の娘はどうにもダズが気になるようで、事ある毎に絡んでくる。
馬車の中でもチラチラと視線を寄越し、ポケットを探れば目を大きくして見て、挙げ句外に出ると追っかけてくる。
空腹を紛らわせるために、その辺に生えていたカウベリーを摘まんでいると、とうとう我慢できなくなったのか『それ食べられる?』と話しかけてきた。
仕方なく五つほど渡してやれば大喜びで口に入れ、残りは持ち帰って母親と姉に渡す。
冷や汗を掻くダズを余所に、彼女たちは大真面目に地面に生えた木の実を味わい、『酸っぱあい!』だの『パイにしたらおいしそうよ』などと好き勝手に言っていた。
以来目が合う度笑顔を向けてくるので、非常に居心地が悪い。
「なにしてるの?」
「馬車に乗ってるよ」
そらきた。
もう何度目になるだろう。馬車の中が退屈だと感じると、この子供は必ず俺に話しかける。
「たのしい?」
「さあ、考えた事がないね」
「どこまで行くの?」
「どこだろうねえ」
今や乗客はパリッとした一張羅を着込み、ピカピカの馬車の中でお上品に座っている。
それに混じる自分が汚れて見えるのは知っている。それが良いとも思ってない。
銅貨一枚を犠牲にして、愛想を振りまくべきだろうか?
だがこいつらにはそれを上回るトラブルの香りがする。ダズは臆病な亀のように頭を引っ込め、存在を消してしまいたかった。
「わたしたち、イエナまで行くの」
「そうかい……」
だが子供はそれを許さない。
姉が親切ごかして声をかけ、断ればすかさず妹が売り込んでくる。
まったくひでえ商売だ。なのに誰一人咎めない。
今では例の御者まで愛想良く手を上げやがるのだ……こいつらやりたい放題じゃねえか!
馬車が停止し、カンカンと鐘が鳴らされる。
宿場に着くとダズは一番に馬車を降りた。
懐の具合さえよければこのまま逃げ出したいくらいだが、残念ながら目的は同じイエナだと、先ほど判明してしまった。
チケットを無駄にするのは嫌だ。あの町なら商売の目はある……
横目でちらりと見た通りは、以前より店が増えていた。
半端な造りの露店も含めれば、小金持ち向けのきらびやかな店もあり、店の雰囲気も様々だ。
王都では物も人も滞り、嫌な気配を感じた商人らの中には早々に脱してきた者もいる。
かくいうダズも景気の悪い王都に嫌気がさし、街道が交差するイエナへ向かっているわけで──
「満杯だあ? この宿が?」
「うるせぇ」
似たような事を考えるやつが多いのか、大部屋に客を詰め込むタイプの安宿は、殆どが埋まってしまっていた。
「今はどこもこんな調子だ。それに俺が言うのもなんだが、止めといた方がいい」
少しでも多く客を泊めるため、敷物の幅を狭くしていると聞かされてうんざりする。
ただでさえ狭いのに、あれ以上客を詰めたら破裂しちまうぜ。
「……賭場でもいくか」
同じ夜を過ごすなら、少しでもマシな場所を探すべきだ。
吹きさらしの飲み屋さえ、居座るには金を使う。気の短い店主だと追い出される。
懐具合を見れば危険だが……少なくとも夜風はしのげるだろう。
そう言ってぶらぶらと歩き出すダズの目に、厄介なものが飛び込んできた。
「あぁ奥さん、あんた運がいいねぇ~! 丁度今一部屋空いたところだよ、ご家族で泊まるならもちろん安くしておくよ」
「げえっ!?」
数ある安宿のうちでも最悪の店が、最悪の客を引いていた。
知っている者は近付きもしない、通称ドロボウ宿。
泊まったら最後客の持ち物は魔法のように消え失せ、時々客自身もいなくなる。
人身売買組織と繋がっているともっぱらの噂で……もちろんそれは真実であった。なにせ売り先の一つである。
「ちょっと待てぇ! 一旦引け!」
「あ?」
「いいか、早まるな」
「なンだテメエ……って、ダズじゃねえか」
泥棒の人売りという最低最悪の男だが、仮にも同業者であり、大事な取引先でもある。
ダズはその垢じみた首に腕をかけ、物陰に引っ張ってコソコソと耳打ちする。
「バカお前あんなもんに手を出すな」
「なんだい邪魔すんなよ。俺が先に見つけたんだぞ?」
「俺は王都から一緒に乗ってきたんだよ……! うげっ、こっち見てやがる」
雑踏の中に姿勢良く立つ女は、ダズを見てにこりと笑い、顔の横で小さく手を振った。
娘達も笑顔で両手を振る。完全に顔見知りを見つけた反応だ。
「なんで泊めちゃいけねえんだよ」
「連中に手を出したら最後だ。お前、"バスターシュ"のロブみてえになりたくねえだろ?」
「……ッ、あいつら魔法使いなのかっ!?」
ボスの女の逆鱗に触れ、痛めつけられた男の名は界隈でも有名だ。
幸い一発で意味が通じたようで、途端腕の中の抵抗が止む。
「女だけじゃねえ、あの娘っ子二人も凄腕よ。頭から熱湯かけられたくねえよなぁ?」
「ヒッ」
馬車の掃除や洗濯が一段落すると、今度は水を売り始めた。
三人が勢いよく水を出す様に皆驚いていたが、客の一人が湯を沸かそうとすると、『お湯が欲しいのなら言ってくださいな』と沸いた湯をポットにぶち込みやがったのだ。
熱い湯も温い湯も自由自在。
しまいには噴水のように空へ吹きかけて虹を作り、乗客は拍手喝采。
連中はまた金を稼ぎ、ダズは床を見つめながら、『こいつらとは一生無関係』を心に誓ったのである。
「これは忠告だ」
「わわわわかった、皆にも手を出すなって言っておく」
「それでいい」
頷き離すと、男は暗闇に消えていく。
特大のため息を吐きながら、おそるおそる視線をやれば──クソッ、まだ全然居るし。
引きつった愛想笑いを浮かべ、ふらつきながら通りを歩く。
一家揃って寄って来て、迫力に泣きそうになった。
「またお会いしましたわね。ええと……お名前を伺ってもいいかしら?」
「ハハ、名乗るほどのモンじゃありません」
「おじさま!」
ダズの周りを跳ね回る下の娘を、母と姉は微笑ましげに見つめ、何かを期待するような目でこちらを見た。
「あのね、ええとね──アンナ、おじさまをきれいにしてさしあげたいの」
クソ、言うと思ったよ。
自分でも情けなくなるくらい古い型の上着に、ツギだらけのズボン。
修繕の跡が残る靴を見れば、金のない事くらいわかるだろうに。
「ごめんな。おじさんは余分なお金を持っていないんだ」
「でもおやつをくださったでしょ?」
何を言っても無駄なのか。
この子の意志は決まっていて、母親もそれを正しいと考えている。
周りを見渡しても助けはない。ええい、一度好きにさせりゃいいじゃねえか。魔法をかけられるのは服であって俺じゃない。
覚悟を決め、上着を脱いだ。
「ありがとう!」
寒空の下、シャツ一枚で立つ情けなさ。
腕を擦りながら用事が済むのを待つ。
着古した上着を子供は真剣な顔でこねくり回し、丹念に汚れを落とす。
時間にして二、三分。
しかし永遠にも感じた。
綺麗に洗濯された上着を受け取ったダズは、まだ温いそれを背にかけ、モゴモゴと礼らしきものを口にする。
「よかったわねアンナ」
「うん! おじさま、またね」
「……待った!」
黙って見送るつもりがつい呼び止めてしまったのは、向かう先がどう見ても貧民街だったから。
「あんたらが用事のある宿は、通りを二つばかり過ぎた場所にある。借りるには銀貨が要るだろうが、その分ゆっくり休めるぞ」
身を案じるというより『場をメチャクチャにされたくない』という感情の方が強い。
そっちには賭場がある。
万が一こいつらが迷い込んで来たら……ダズが身を隠す暗闇を、この一家は容易く払ってしまいそうだ。