6:旅暮らし
「──ザ、リザ」
心地よい眠りから引き戻され、うぅんと唸る。
閉じたがる瞼を無理矢理こじ開けると、ガタガタ揺れていた筈の馬車が止まっていた。
目の前を次々と通り過ぎていく乗客たち。埃っぽい車内に新鮮で冷たい空気が舞い込んで──あれ? 何度目の休憩だった?
「姉さん」
「ごめん、今。今起きる」
寝起きの悪いリザを起こすのは、大体姉の役目だった。
優しいクレアは辛抱強く声をかけてくれたけれど、ヴィクターは基本せっかちだ。
「さあ下りて。稼ぎ時だ」
「わかってるわよぅ……」
生返事に呆れた顔をして、強引に手を引く弟に、リザはふらふらついていく。
まあでも此処では着替える必要ないものね。うん、楽で良いかも。
「いいのある?」
「ちょっと待って」
馬車から少し離れた場所にお誂え向きの木陰があり、ヴィクターはいつものように椅子と桶を設置する。
リザはまばらに生えている草を見回り、その内の一つにしゃがみ込んだ。
ミントやタイムは香りがいいが、必ず生えているとは限らない。
見つけたのはノコギリソウ。これは傷やひび割れに効くはず。
ハーブについては本と庭師に教わった。
図鑑を見て、実物を探しに庭に行き、植わったそれを一つ一つ摘んで。
あの時の私はただ知る事が楽しくて……ええ、まさか役に立つなんて思わなかったけれど。
「あったわよ」
秋も半ばを過ぎた葉は硬く、手で揉んで湯に入れる。
近頃は慣れてきて、ハーブを揉みながら湯を出すようにしている。こうした方が香りが立つ気がする。
「つからせてもらっても?」
「どうぞ。銅貨二枚です」
「やあ、ありがとう」
早速一人目の客が来た。
茶色の上着を着た中年の男は、気前よく銅貨を払う。
体格が良く、腹のボタンがはち切れそうだ。靴を脱ぎながらどうにも足が冷える、とこぼす。
「はあこれは、どうにもたまらんね」
「血の巡りが良くなるそうですよ」
「風呂なんてのは贅沢品だと思っていたが、こうなると全身つかってみたくなるよ」
男はここから北西にあるという温泉地の話をした。
丘陵地帯に沸く温泉は町の至る所から吹き出し、住民はそれを飲むと言う。
「どうしてそんな事をするんです? 美味しいのかな?」
「なんでも体にいいとかで、医者の勧めだねえ。うーん、うまくはないね」
そんな会話を背に、次に使うハーブを摘む。
温泉に入った事はないけれど、湖の近くで休暇を過ごした事ならある。
湖の上にぷかぷかと浮くボート。お父様とヴィクターは釣りに行き、私とお姉様は小さな波が寄せてかえす、小石だらけの畔を歩いた。
まだ小さなアンナが、お母様の膝で眠っていて──
「宿の湯は温泉で、蛇口を捻ればいつでも出てくるそうだ。私は仕事で立ち寄っただけで、宿の世話にはならなかったがね。湯気の立つ大きな池を見かけたよ」
そう言って手を広げた客へ、ヴィクターが驚いて見せる。
そんなに大きなお風呂があったら……面白いとは思うけど、屋外だし、人が入るものではないだろう。
『あるよ、大きな温泉』
「え……ちょっと、やだぁ!」
頭の中に景色が浮かんだ。
周囲を板塀で囲った溜め池は、岩でごつごつしている。
池いっぱいに湯が満ちて、もうもうと湯気が立ちこめる中、裸の人間が何人も浸かっている。思わず悲鳴を上げてしまった。
「姉さん?」
「ち、違うの! 虫が飛んできてっ」
目にしたのは女性だったが、皆下着すら着けていない。
ワイラ夫人が知ったら『慎みがない!』と卒倒しそうだ。
『だってお風呂だもん、当たり前でしょ。温泉ってすごく気持ちがいいんだよ』
だとしてもなんで裸なの! 人に見られてしまうじゃない!
『そういう文化なのよね。基本男女で別れてて、みんな裸だから恥ずかしくないし。それより体を温めたり、清潔にする方が大事じゃない?』
温泉が体に良いというのはリサも知っていた。
怪我の療養、また病や不妊にも効果があるそうで、リサの世界でも人気らしい。
お金を払えば誰でも入れるのだと……知らない人の前で裸になるってどういうこと!?
『私にしてみれば服着た人に入浴を手伝わせる方が違和感あるなあ。それくらいなら一緒に入った方が』
まさか、ありえない。
だってそれが仕事なんだもの!
使用人が主人と風呂に入ったら大問題だ。
クレアやアンナ、お母様と一緒なら入ってみても良いかも。でも水着か沐浴着は絶対に必要よ。
懸命な主張にも関わらず、返ってきたのは笑い声。
へそを曲げたリザに、柔らかな声が語りかける。
『魔法がある世界だからね。魔法で体を綺麗に出来たらなって私も思う』
立て続けに三人の客が来たので、リザとヴィクターは大忙しだった。
客が入れ替わる度湯を捨てて、ハーブを揉んで新しく入れて。
合間に他の客へお茶も売る。おかわりに呼ばれ配って歩いていると、あっという間に休憩は終わった。
二人は急いで片付けを済ませ、出発寸前の馬車にするりと乗り込む。
この辺りの案配も、繰り返しているうちにつかめてきた。
「休憩だけど俺達には休憩じゃないよなあ」
「今のうちに食べましょ」
初めは戸惑った買い物も、今ではすっかりお手の物。
それでも交渉はヴィクターの方が上手い。
リザは頭で考えていても、口に出すのが難しく、言葉に詰まってしまう。
弟のように初対面の人に気軽な口を叩き、もっと安くしてくれと要求する度胸はなかった。断られたらどうしよう、などと考えてしまう。
最初に男の子へ声をかけた時と、コルテの店は……あれは自分ではない。リサが話す言葉をそのまま言っただけだ。
硬くボソボソしたパンを、お茶と干し杏で流し込む。
声をかけられ、車内で茶を二つ売った。
『ありがとうございます』と『またどうぞ』は言えるようになったけれど、ヴィクターが言う笑顔なんて、意識しないと出てこない。
それもきっと引きつって、変な顔になっているに違いない。
持ち物にお尻の下の敷物と、膝掛けが増えた頃。
旅は五日目を数え、ガタガタ揺られる暮らしにも慣れてきた。
やはり王都を離れると人は減り、途中人が降りて荷が積まれる。
その荷もまた次の町で入れ替わり……と荷下ろしの時間は少々せわしない。
見える景色も建物が減り町が見えなくなって、とうとう畑も消えてしまった。
今はただ緑の平原と、なだらかな丘が重なって見えるばかり。
「このまま順調にいけば、夕方にはイエナに着くよ」
「やった!」
すっかり馴染みになった御者が、馬に飼い葉を食ませながら言う。
桶に水を出していたリザは、思わず声を上げてしまった。ヴィクターがパチンと指を鳴らし、口笛を吹く。すっかり庶民の仕草が板に付いている。
「子供だけでよくやったもんだ。勤め先でも頑張れよ」
商売上手な姉弟は、他の馬車でも評判だ。
この御者は魔法で水を出せる……というより馬に水がやれるから御者になったそうで。
しかし一度魔法を使うだけで疲れてしまい、後は水場まで保たせるしかない。馬は疲れ、足が落ちるので、歯がゆく思っていたようだ。
それが休憩ごとに水を飲ませてやれると、たいそう感謝された。
水を出せる人でも欲しいのかと、自身の感覚と現実のギャップに驚いたが、ヴィクターは涼しい顔で言う。
「言ったろ。だから加減が必要なんだ」
「……はい。その通りです」
しょっちゅう家を抜け出し、勉強をサボる弟にイライラしていたが、『世間の事を勉強してた』なんて言われると、納得するしかない。現にこうして役に立ってるもの。
頼もしい弟は『お得意様価格』を提案、毎日水を買ってくれるからと料金を割引いた。
話が伝わった他の馬車でも水を頼まれるようになり、着実にお金が貯まっている。
生き生きと『ご贔屓に!』なんて言っている弟を見ると、生まれる家を間違えたんじゃないかと思う。勉強より商売の方が楽しそう。
「やっとお母様達に会えるわね!」
「そうだな、無事に着いて……る、よな?」
二人は無言で顔を見合わせた。
一応、ドレスを売ったお金がそれなりに……とは言え切り詰めて安いパンを買い、安宿で夜を過ごせばなんとか間に合うか、という程度。
町で夜を過ごすには、当然ながらお金がかかる。
金のない者は夜通し開いている店でエール一杯、煮込み一杯で朝まで粘るらしいが、お母様がそんな場所で我慢出来る筈はない。必要なお金は使うだろう。
「よくない人間に騙されて、酷い目に遭わされたりとか──」
「俺たちも散々言われたけどさ。人さらいって本当に居るんだな」
「お姉様もアンナも危ないわよね」
妹の目から見てもクレアは美人だし、アンナは可愛い。
そもそもお母様が美しすぎるのよ。どうしてお父様と結婚したの? 美男美女が結婚したら、子供がどうなるかなんて想像できるでしょ!?
「ほらこんなに可愛い!」
「止めろ」
顔の話をされるのが嫌いなヴィクターは、鼻の頭に皺を寄せた。
そうするとものすごく憎たらしい顔になる。リザも同じ顔をして見せると、吹き出された。
「おい、流石に酷いぞ。ワイラ夫人に見せてやりたい」
「二人だけだからいいの」
「ちゃんと宿を取ってれば、そこまで心配する必要も」
「でもヴィクター、良い宿も、普通のも、悪い所もあったよね?」
部屋は狭く汚れていて食事もまずいのに、それまでで一番高い宿代を告げられたヴィクターは切れた。
子供だからと足元を見たのだろう。猛烈な勢いで抗議していると、他の客がやって来て宿代は半額になった。
『いつもの手口だ』『次こそ役人を呼ぶ』と言っていたので……つまりそういう事なのだろう。
「あれか。まだ野宿の方がマシだった」
一度閉門に間に合わず、城門の外で野宿する事になったのだが、これが意外に悪くなかった。
皆慣れていてさっさと火を炊き鍋をかけ、持ち寄った食材でごちゃまぜ鍋を作る。
二人は水を提供したので、無事夕飯にありつけた。
キャベツや白にんじんなど苦手な野菜だらけだったのに、これが中々美味しくて、おかわりまでしてしまった。味の決め手はリーキに似た野草だそう。
馬車に積まれた木箱の上で寝るのも、いつもと違う感じがして楽しかった。
もちろん離れた家族の事を考えないわけではないけれど……野性的な日々に対応するので精一杯。
これまでは紛れていた心配が、会えるとなると顔を出す。
「大丈夫。お母様だって大人だもの。きっと無事にイエナに着いて、私達を待って──」
「ん?」
はて、気のせいだろうか。
蹄鉄の音を響かせ、すれ違った馬車に鮮やかな色が見えて目を擦る。
振り向けばそこにあるのは、真っ赤な幌をかけた馬車。
「すごいわね、あんな派手な馬車があるなんて」
「ものすごく目立ってるけど……普通の荷馬車だよな?」
「はぁーっ、すんげえなあ」
空の飼い葉桶を仕舞っていた御者が、去る馬車を目で追いながら言う。
「今イエナの方から来ましたよね。そういう馬車があるんですか?」
「いやぁー、俺もこの商売長いけど見た事ないねぇ。お祭りでもあるのかね?」
色付きの馬車はそれから何台も見かける事になる。
赤に黄色に青とバリエーションも豊富な上、どの馬車もピカピカだ。
なんとなく──胸がざわつく感じがした。
「おっ、あそこにいるの俺の知り合いだなあ。ちょっくら聞いてくるわ」
街道沿いの休憩所に、鮮やかなオレンジ色の馬車が停まっている。
御者が話を聞きに行き、なにやらひとしきり盛り上がった後、小走りで戻ってきた。
「おい、なんか、祭りじゃないみたいだぞ」
「何だったんです?」
「銀貨十枚で馬車を綺麗にするついでに、好きな色に塗ってくれる人がいるんだと」
「色?」
「何やら魔法だとかいう話だったが、本当かね? 赤ん坊を抱いた女と、年若い娘があっという間にピカピカにしてくれるそうだ」
「……は?」
ヴィクターの手から桶が転がり落ちた。