5:素敵な宿屋
「いってらっしゃい。これからもどうぞご贔屓に」
夜に発つという客を見送って、カウンターへと戻る。
場所柄長く逗留する宿ではない。競合相手も多い街道沿いの宿屋の中には、極端な安さや過剰なサービスで客を呼ぶ所もあるが、小鳩亭はこぢんまりとした宿だ。ひっそりとした裏通りに店を構えた時点で、その手は使えないと分かっていた。
女将のミアは細やかな気配り、丁寧な仕事を心がけている。
客が心からくつろげるよう、部屋は清潔に保ち、人手を借りて定期的にマットを日干しする。
併設する料理屋では席数を抑え、一人に出す酒の量も決まっていた。
売るだけ儲かるのは当然で──しかしよくない客層を呼び込むことになる。
昔から通ってくれる常連や、地元の呑み客相手に静かな商売をする小さな店だ。
カウンター内から店を見渡し、全てが居心地よく収まっていることを確認すると、満ち足りた気分になった。
時刻は遅い。
今夜はもう、きっと客は来ない……
「あら?」
帳簿を開いたタイミングで、パタパタとせわしない足音が聞こえてきた。
『この辺のはずなのに』『一本向こうじゃないか?』『色なんて見えない! 夜だもの!』と焦った声が通り過ぎていく。
もしかしてと顔を上げた、丁度その時扉の前で立ち止まる気配がした。
「多分ここだ」
「どうするの」
聞こえてくるのは、迷うような声二人分。
ややあってこつ、と弱々しく扉を叩く音がする。
「どうぞ、扉は開いてるわ」
「……こんばんは」
予想通り、客は二人連れだった。
驚いたのはその姿。子供? しかも一人は女の子じゃない! どうしてこんな時間に?
「すみません、ここは『小鳩亭』ですか?」
「ええそうだけど」
明らかに怪しい客だった。
まだ十五にもなっていないだろう幼い男女。
話し方や佇まいに似通った雰囲気がある。兄妹かもしれない。
「肉屋のおじさんから紹介されまして。一晩宿を借りられます?」
「肉屋の……ああリアムかしら?」
「名前はわかりませんけど」
この年頃の子が旅をする時は、大人が必要なはず。
まして女の子は悪い輩に狙われやすい。見ればタイプは違うが、二人とも綺麗な顔立ちをしている。ワケありということ? 王都から来たのかしら?
「部屋、空いてますか」
「空いてるわよ」
笑顔を浮かべ、手招く。
警戒を解かない男の子に対し、後ろの女の子は露骨にほっとした顔をした。
到底旅慣れているようには見えないが、かと言ってスリやかっぱらいなどの荒んだ雰囲気もなく……判断に迷いつつも、リアムの紹介ならばと受け入れる事にした。
「ここが食堂。簡単なものなら出せるし、部屋に持って行く事も出来るわ。部屋は二階で、必要な物は揃えてあるから」
「あの、桶を借りられるとリアムさんに聞いたんですけど」
「桶? あぁ……でも今は夜よ?」
それまでずっと黙っていた女の子が、何やら必死の形相で言う。
小鳩亭では洗濯や体を洗う為の、大桶の貸出しをしている。
これが結構評判で、ため込んだ服を洗うだの、夏は井戸のある裏庭に出して水浴びも出来る。桶屋に特別注文をした甲斐があったというもの。
だが今は人手がなく、水を用意出来ないと言えば、『大丈夫!』と力強い言葉が返ってきた。
「何に使うの?」
「お風呂に……」
「そんな、風邪をひいてしまうわ!」
「あっ、違うんです、私お湯を」
「姉さん……」
ちらちらと男の子の顔色を伺う、この子の方が姉だったようだ。
「すみません、大丈夫です。姉さんはお湯を出せるので」
「あらすごいじゃない」
「そうなんです。良い奉公先が決まって」
成る程、合点がいった。
魔法が使える姉の奉公に、しっかりものの弟が着いてきたということか。
二人だけで他に身寄りがないのかもしれない。それでも振る舞いはちゃんとしているし、言葉遣いも上等だ。これなら奉公先でも可愛がってもらえるだろう。
身を寄せ合って生きる姉弟の姿に心打たれたミアは、喜んで大桶を貸してやった。
いつもは物置から裏庭に出すのだが、鍵がかかるのでその場で使っても良いと許可を出す。
飛び跳ねながら物置に消えた姉を、気取った仕草でエスコートし終えた弟は、早速扉の前に陣取った。しっかりした見張り役である。
「ありがとうございます、助かります」
「お湯で体を洗うなんて贅沢ねえ」
「後でお湯を張りましょうか? お風呂でも洗濯でも、なんでも使えますよ」
「えっ?」
お湯を出す魔法は便利だけど、一日にそう何度も使えないと聞く。
少量ならともかく、大桶を満たすぐらいの量を日に何度も出すという発想がそもそもなかった。残り湯を使わせてもらえれば、という意味だったのだが。
「ええ……まあ……」
「すごいお姉さんなのねえ。貴族のお屋敷でだって働けそう」
だからこそ大店に招かれたのだろう。
羨ましい話だ。
良い魔法、便利な魔法を使えたなら、庶民でも貴族の家の下働きくらいにはなれる。
「私もそんな魔法が使えたらねえ。宿でお風呂のサービスなんてしたら、きっと人気になるわね」
「風呂付きの宿はやっぱり少ないですか?」
「そりゃあねえ。あるとしたら一晩で金貨を払うような宿? 厨房でお湯を沸かして、何度も何度も運ぶのよ」
「うへえ」
身綺麗に出来るのは金持ちか貴族の特権である。
庶民はせいぜいぬらした布で体を拭き、できるだけこまめに洗濯するしかない。
安宿はシーツも交換しないから、汚れるし虫はわくし……おおいやだ。幾ら安くたって私は、あんな所じゃ絶対に寝たくない。
「大桶は無理だけど、うちでも余裕がある時はお湯のサービスはしているの」
「それは、どのような?」
「お部屋に運んでね、足を洗ってもらうのよ」
これが結構評判がいい。
足だけでも湯に浸すやり方は、旅慣れた商人に教えてもらった。
『ご婦人が足のむくみを取る方法』と言っていて、試したところとても気持ちよかったので、薪に余裕がある時は別料金で沸かすのだ。
「仕上げに良い匂いのする香油を一垂らし。これで銅貨二枚」
「なるほど……」
少年はとても感心した様子だった。
良い聞き役で、つい口が滑ってしまう。でもこの子達、いい所に勤めるのなら、将来の役に立つかもしれない。
「香油がない時はハーブでもいいの。意外にその辺に生えてるから、町の外に出た時採っておくと良いわ」
「とても良い事を聞きました。女将さん、ありがとうございます! 姉さんには必ずお湯を用意させます」
「あら嬉しい」
「準備が出来たら声をかけますね!」
『ごゆっくり』と告げ、良い気分で裏庭を後にする。
お湯で体を洗うなんて久しぶりだ。それも誰も浸かっていない綺麗なお湯。
宿の主人であっても、そうそう贅沢は出来ない。まず客に提供し、余ったものをいただくので。
「リアムのおかげね。お夜食でも用意しておこうかしら? もちろん、あの子たちにもね」
すっきりとした目覚めを迎えた二人は、早朝に宿を出た。
女将特製の朝食に舌鼓を打ち、輝くばかりの笑顔で送り出され、何度も礼を言って。
「どうしてこんなに早いの?」
「用事があるんだ」
「それにしても素敵な宿だったわね!」
王都の宿より安いのに、居心地の良さは桁違い。
部屋もベッドも清潔で、もちろん虫なんて姿も見ない。
窓辺には花が飾られ、朝露をまとった花びらが朝日を浴びてきらきらに輝いていて……屋敷の庭を思い出し、思わず涙ぐんだリザはヴィクターに散々からかわれた。
「お部屋は綺麗だし、お食事も美味しいし」
「確かに旨かった。肉屋のおっさんに感謝だな」
あの後桶の礼とお湯を張った知らせに食堂へ向かった二人は、例の肉屋と再会した。
遅い時間だったのに、湯のお礼だと女将は食事を用意してくれていて、それを肴に呑んでいた肉屋とも色々な話をした。
「親切な人だったね」
「他の町の情報が聞けるのはありがたいよ。僕ら何も知らないからさ」
取るものも取りあえず、行き当たりばったりに始まったこの旅。
町の名と大体の距離は、地図を見れば分かる。
しかしそこがどんな土地かまではわからない。人々の生活、名物、してはいけないこと。
屋台の食べ物を選ぶ基準、旅を心地よくするちょっとしたコツまで。
「女将さんとっても喜んでくれて、私も嬉しかった」
大桶いっぱいに張った新しいお湯のお礼は、美味しい食事と温かいお茶。
緊張続きのこの旅で忘れていたもの。
リザはお茶は必要だと主張し、ヴィクターも認めざるを得なかった。
食事と水だけでも生きていける──でも楽しみだって必要よ!
「さあ、買い物をしよう。姉さんはお茶とポットを探して」
「いいの? 無駄なお金って言わない?」
「言うわけないだろ」
「こんな朝早くから、店って開いてるのかしら?」
馬車が出発する北門の近くは、朝から大勢の人がいた。
門の前の店は既に開いていて、様々な商品が所狭しと並んでいる。
二人は早速店に入り、目当てのものを見つけ出した。
「荷物になるわ」
「問題ない」
ヴィクターが見つけてきたのは不格好な桶と折りたたみの椅子。
どちらも店の隅でほこりを被っていたガラクタの山から見つけ出したもので、格安だった。
リザが選んだのは何の飾りもない一番安いポットと、柄もサイズもバラバラなカップ二つ、それと少しだけ上等の茶葉が一包み。
「念のため二つ買おう」
「嘘でしょヴィー! あなたどうしちゃったの!」
「いいから」
日持ちのするパンに干しくだものを大袋で。
贅沢にも程があると目を剥いたリザは、寂しくなった財布の中身を見てため息を吐いた。
これじゃお湯を売ったって、次の町で宿に泊まれるかわからない。
「ノモス行き、ノモス行きー、もうすぐ出発だ!」
カンカンと鐘を鳴らす御者にチケットを見せ、乗り込む。
今度は一番後ろの席だった。顔のすぐ側に護衛が足をかけていて、二人は思わず顔を見合わせたが、無情にも馬車は出発してしまう。
「嘘でしょ、今日一日ずっとこれ?」
「大丈夫。俺に考えがある」
汚れた靴は見た目通り匂う。
せっかく顔見知りになった乗客も、半分入れ替わっているし……なんとも不安なスタートだ。
落ち込むリザの隣で、やけに上機嫌だったヴィクター。
彼は一度目の休憩で馬車が止まるなり、下りてきた護衛に声をかけた。
「朝からお疲れ様です! 動く馬車にずっと捕まっているなんて、大変な仕事ですね。ところで足をほぐすとっておきの方法があるんですけど──」
旅の売り物に、新たな商品が加わった。
立ちっぱなしの護衛に馬車に揺られっぱなしの乗客、寒さに手足のかじかんだ御者も皆、物陰で足を湯桶に浸けた途端、魂の抜けたような声を出す。
綺麗になった足はハーブのすっきりとした香りがし、履き直した靴もなんだか綺麗になっている。銅貨二枚だって惜しくない。
しかもこの馬車では温かい茶が飲める。
自前のカップさえあればおかわりは半値、しかも甘い干し杏も付いている。
食事が楽しくなったと評判で、馬車が止まる度に客が買いに来るのだった。