3:飲み物は適温で
馬車の客は殆どが大人だ。
中には親子らしい客もいるが、子供だけというのは流石にない。
切符を手にした乗客が次々と荷台に吸い込まれていく。御者に切符を見せ、幌の中に乗り込むと一瞬視線が向いた気がしたが、リザは堂々と席に着いた。
注目されること、誰かに事情を聞かれること──ひょっとしたらさっきの御者が戻ってきて、『この切符は無効だ』と言うかもしれない。
そんな恐怖を胸の中に押し込め、なんでもないように振る舞う。
頭の中でリサが教えてくれる。私はその通りにするしかない。
「ほらもっとそっちに詰めて」
「これ以上は入らないよ!」
「そんな訳あるかい」
鐘が鳴り、馬車が走り出す。
見れば十二人乗っていた。ぎゅうぎゅう詰めだ。この馬車は八人乗りって聞いていたけど……見間違いだった?
「どうなってる!」
素早くリザを奥に押し込んだヴィクターが、誰かの背中を目一杯押し返す。
潰されるかと思ったら、逆に押し上げられるように体が浮いた。
天井近くから見下ろすと、馬車の後方で客が揉めている。どうやら切符も無しに寸前で飛び込んできた者がいたらしい。
「おい、荷物を取られるぞ!」
「蹴り出しちまえ!」
幌の中は大騒ぎだ。驚いたことに、馬車はそれでも止まらない。
やがて背の高い男性が切符なしに乗ろうとした人を放り出し、ようやく落ち着いたかと思うと、幌の外へ出て天井へ上がってしまった。
「あの人は」
「護衛だろ」
「ああ、だから外に」
「それより荷物」
「……ちゃんとある」
ヴィクターは疲れたような顔をしていた。無理もない、出発だけでこんなに色々あるなんて。
手を引かれて座る。いつの間にか車内は落ち着きを取り戻し、隙間から吹く風のビュウビュウ鳴る音が、ひっきりなしに耳元でしていた。
何事もなかったかのように荷物やポケットを探る乗客を見て、改めてとんでもない所へ来てしまったと思う。
「大丈夫? 怪我はなかった?」
「潰れそうになった」
「客じゃないのに乗ってくる事があるのね……」
外が危険というのはこういう意味だったのか。
切符売り場でも圧倒された。人が多すぎて、何か起こってもわからない。
そんな所にはスリや泥棒が寄ってくると聞いていたが……本当にこの目で見る事になるとは。
「……本当に、気をつけないと」
座席は板張りで、馬車の振動がそのまま伝わってくる。
柔らかいクッションが欲しい。家のものを持ってくれば良かった。でもあの時は必要になるだなんて思わなかったのよ。
こんな調子でやっていけるだろうか。
母や姉、アンナ、チャーリィは先に出発しているはず。
何事もなければいいけれど……胸が苦しい。お母様に会いたい。
ううん、こんな所で負けちゃダメ。
この切符はヴィクターが人混みを必死でくぐり抜け、叫ぶようにして行き先を指定し、横から伸びてくる手を払って買ってきてくれた。
私達はこうして無事なんだから、大丈夫。きっとやれる。
『知らないことが怖いのは当たり前』
頭の中でリサが言う。
『知らない人だらけなのも当たり前。それが旅ってものよ』
リサは旅が大好きらしい。
今のところ楽しいとは思えないけれど、彼女の声を聞くと少しだけワクワクする。
『一番の敵は乗り物酔いだね』
私もヴィクターも馬車で酔った事は無い……よね?
インプリー家は何故か乗り物に強い。馬車でゲームをしていたら、侍女が口元を押さえて馬車を止めた事があった。
見ているだけで酔ってしまったとか、可哀想なことをしてしまった。
『馬車ってかなり揺れるんだね。こっちは似たような感じのバスっていう乗り物がある。馬はいなくて機械……荷台だけで進む感じの乗り物なんだけど』
それは魔法? と聞くと『そうかもね』と笑った気配がした。
『バスがない所ではロバに乗ったよ』
世界中を旅したリサ。
彼女は一人旅のあらゆる経験があった。
荷物の作り方、持ち方のコツ。
リサはその一つ一つを丁寧に教えてくれた。
宿で荷物を詰める時、それは大層役に立った。ヴィクターは『どうしてそんなこと知ってるんだ?』としきりに不思議がっていたけれど。
『貴重品は隠すこと』
お金や貴重品はドレスに縫い込まれた袋に隠してある。
庶民の知恵だとコルテは言っていた。あれが昨日の話だなんて。
『他の客の迷惑になるような事はしない。それって目立つことだから。変に恨まれたり、弱く見られたりすると厄介なの。私はお金を払って堂々と乗ってるんだ、という顔をして』
さりげなく視線をやると、乗客は皆思い思いの方法でくつろいでいた。
隣の男が懐からパンを出して食べ始めると、向かいの客はそれを見て袋からりんごを取り出して、その場で割る。
夫からりんごを半分を受け取って、口に入れた女性は編み物をしている。
何か袋の中のものを数えている人もいて、大体の客は目を閉じてじっとしている。
二人も少しずつだが場の空気に慣れてきた。
「飲む?」
「うん」
リザも買ったばかりのコップを出して、指を立てる。
いつもは手のひらから魔力を押し出すように魔法を使うけれど、慣れたように魔法を使う母を真似したくなったのだ。
「どーも」
半分ほど水を注いで渡すと、ヴィクターが雑に礼を言う。
本当に、何処で覚えてきたのやら。
ぶっきらぼうな言い方がおかしくて吹き出すと、こっそり肘で小突かれた。
「ちょっと。母さんに言いつけるわよ」
とうとう言ってしまった! “母さん”ですって!
いけない言葉を口にする緊張と、言ってしまってからの奇妙な開放感。
音を伸ばして混ぜるんだわ。よし、ちょっとずつコツは掴んできた。
むっとした顔をして見せるヴィクターも、目は笑っている。
自分の分も水を出し、口をつける。
味は普通で、特に変わったものでもない。
一息に飲み干した後、思い立ってお湯も出してみる。いつもお茶をいただく時は……これくらい?
「ねえ」
ヴィクターに押しつけたのは、うまく出来たかどうか確認して欲しかったからだ。
湯気の立つカップを見た弟はぎょっとして、慌てて周囲を見渡した。
見れば乗客の殆どが、湯気の立つカップに視線が釘付けだった。
「お嬢ちゃん、あんた熱い湯を出せるのかい?」
「え?」
「若いのにすごいねえ。大したもんだ」
「ええと……」
「私にも一杯おくれ。もちろんお代は払うよ」
値段を聞かれて困ってしまった。
確かに水を売る事は考えていた。しかし肝心の値段を知らない。
焦るリザの代わりにヴィクターが答える。
「水と同じでいいよ。たまにうまくいかない時もあるけど許してよ」
「いいのかい?」
「まだ練習中なんだ」
……わかってる。私が何かやったってことは。
「自慢の姉さんさ。ね?」
にっこり笑うヴィクターが、語気を強めつつ器を渡してくる。
受け取って注ぎながら、今度は『少しぬるめ』を意識した。
うちのメイドがこの温度のお茶を出したら叱られるだろう。
しかし一口飲んだ女性はにっこりと笑って、『上等だよ。体が温まるねえ』とご満悦だった。
「俺もいいかい?」
「こっちにもだ」
「銅貨一枚やるから、次止まった時大きいのに二杯くれ」
「……ありがとうございます」
早速小銭を稼げて嬉しい。
これで少しは旅も楽になるだろう。食べ物や要る物を買っていると、お金って本当にすぐなくなって……ヴィクター、どうしてそんなに睨んでるの?
「リザのばか」
「そんなに言わなくてもいいじゃない……」
一度目の休憩は街道沿いの休憩所だった。
近くの村から人が来て、飼い葉や水、食べ物なんかも売るらしい。
でもリザが乗った馬車からは誰も行かなかったし、頼まれていたお湯を木桶に二杯出していたら、いつの間にか列が出来ていた。
途中ヴィクターが強引に打ち切ってくれなければ、休憩時間いっぱいお湯を注がされていただろう。
「考える前にやるなよ! 水はともかく普通はお湯なんて出せないんだよ、温度を調節するのは高等魔法なんだから」
「でもうちのメイドたちは普通に使ってた」
「だからいい所で働けたんだろ。いいかリザ、家事魔法にもランクがあるんだ」
貴族にも魔力の低い人はいるし、庶民から大魔法使いになった者もいる。
だが全体で見ればその数は僅か。
整った環境で幼い頃から様々な魔法を目にする貴族と、生きる為に働かなくてはならない庶民では、使う魔法が違うのだ。
「中でもうちは変わってるっていうか……異常なんだよ。学校でもズルしてるんじゃないかって散々言われた。使う魔法が生意気だって」
「魔法が生意気って何!?」
ヴィクターが言うには、貴族学校で教わる魔法は初歩的なもの。
インプリー家で言う五歳前後で学ぶ、基礎中の基礎なのだという。
「つまりアンナくらいの子達なの?」
「ぜんぜん。アンナは優秀だよ、魔法の構成も分かってるし。自分で弄って新しい魔法を作るなんてことまでやってのける」
「……やるわよね?」
「普通はしない。そもそも教わらないし」
魔力量が多い人間は特に注意が必要だ。
操作や成長が未熟なまま大量の魔力を注ぎ、不発だった時が特に危険で、最悪の場合体内で暴発するらしい。
「体の一部がはじけ飛ぶなんて事も」
「嘘……」
「だから絶対無理はさせられないんだ。ただうちは、お母様が」
クレアとリザ、そしてもちろんアンナも女児であるので学校には通わず、教育は家庭教師が行う。
ワイラ夫人が担当するのは字や簡単な計算などの基礎教育、礼儀作法、社交に必要な教養。魔法はその中に入っていない。
特に母親が魔法に長けたインプリー家の場合、子供達は小さいうちから高度な魔力操作を学び、実践を繰り返す。
だが世の貴族家は名のある魔術師か魔法専門の教師を招くのが当たり前で、それもよほど才能がある場合のみ。
理由は……報酬が目玉が飛び出るほど高額だから。
「お母様の魔法はほぼ独学なんだ。子供に魔力操作を練習させるなんて有り得ない。僕も学校で授業を受けて、余所の話を聞いて驚いた」
「そうなの……」
言われてみれば、確かに思い当たる節はある。
魔法を覚え立ての頃、思うように動かない魔力が膨らんでいく感覚があった。
その度母が『あらあらあら』と言って流れを正してくれ、そのうち自分で調整出来るようになるのだ。
「私達危ないことしてたのね」
「おかげで魔法の授業は苦労なしだったけど、変にやっかまれて鬱陶しかった。『お前がヘタクソなのは俺のせいじゃない』って言ってやったけどな」
「ヴィクターらしいわね」
子供の頃から当たり前にやってきたことを否定され、動揺したリザであったが、なんとか心を持ち直す。
「今更遅いかもしれないけど、お湯の魔法は使わない方が良い?」
「もうバレてるよ。だから出す量を制限して、次は熱くする。練習中って事で」
「魔法よりそっちの加減が難しいじゃないの」
「誰のせいだと思う?」
「ごめんなさい」
もう何も言えない。
謝る姉に、ヴィクターは肩を竦めて言い添える。
「こうなった以上、開き直って食事代を稼ごう。『母さんに贅沢させてやる』って思えば」
「そうね……仕方の無いこと……お母様?」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく視線を逸らす。
リザは頭を抱え、ヴィクターは天を仰いだ。
「絶対何かやらかしてる……!」