2:使えるものは使いましょう
「本当に出来ると思う?」
「やらなきゃどうしようもない事よ、ヴィー」
「その呼び方キライだ」
そう言ってヴィクターは帽子を目深に被る。
十二歳、年子の弟とリザはあまり仲がよくない。子供の頃は毎日遊んでいたけれど、最近はリザの側から距離を取っていた。
本が好き、勉強が好きでもリザは学校に通えない。
貴族の娘は地位や財産のある男性と結婚し、子供を産むのが最良の人生。
そんな自分に比べ、望むだけ学べる弟の人生が羨ましかった。
ヴィクターは勉強を嫌い、いつも家庭教師から逃げ回っているけれど、実は父に似て頭が良い。
純粋に成績の面で叶わない事も、リザの気持ちをひねくれさせていた。
でも今は二人だけ、頼る相手はお互いしかいない。
「どうして。かわいいじゃない」
「だから嫌なんだ」
「大丈夫、ちゃんと大きくなってるわよ。背だって私より高いんだから」
弟は小柄なことを気にしている。
これで結構気が強い。からかわれる度むきになってかかっていく。
生傷が絶えない息子に、母は『せっかく可愛い顔をしているのに』と嘆いていたが、言われた当人はものすごい顔をしていた。
確かにヴィクターは綺麗な顔をしている。
初対面の余所の子に、『弟の方が可愛い』なんて面と向かって言われた事もあったっけ。
『お友達になれそう?』とお母様に訊かれて、子供の私は首を振り、それでおしまいにしてしまった。あれは遊び相手を選ぶ場だったと、知ったのは後からだ。
「あなたは──こほん、あんたは父さんに似てるよね。父さんも子供の頃は大きい方じゃ無かったんで……だって。だから時期になったら伸びるわよ」
「本当に?」
「もちろん。嘘は言わない」
下町言葉は難しい。
たまに本の中の台詞で出てくる事があって、こっそり口に出してみた事もあったけど、コルテのような本物に比べるとやっぱり不自然だ。
「行き先をもう一度確認して」
「……うん」
人でぎゅうぎゅうの窓口に、腕を突っ込んでお金を払いチケットを買う。
それを離さないように握り締めて、乗り場まで走る。
覚悟を決めて突入しようとしたリザに、『俺が行く』と言ったのはヴィクターだ。
何故か下町言葉が板に付き、古着も着こなしているけれど、この人混みに突っ込むのは流石に勇気が要りそうだった。
「い、いくぞ」
「頑張って!」
小さな背中を精一杯伸ばし、飛び込んでいくヴィクターにエールを送る。
弟が妬ましかった。
でもそれはリザが子供だったから。
父が帰ってこなかった時、家を継ぐこと、その重圧が少しだけわかった。
目に見えるものだけが全てじゃない。
羨ましいなんて簡単に思えない。
弟は弟なりに苦労して、考えだってあるのだろう。
私はこの子の姉なのだから、弟を助けてあげなくちゃ。
コルテの教えてくれた宿は、明らかに場違いな客にも対応してくれた。
無口な店主は『ああ』と『いや』しか言わず、切符についても少し手間賃がかかるけど、明日宿を発つまでにはなんとかするという。
しかし部屋を見て母は卒倒し、子供達は腰を下ろす事さえできなかった。
「シーツにシミが……此処の使用人は誰も洗濯しないの?」
「へんなにおいがする」
「みんな落ち着いて」
リザだって天井の蜘蛛の巣に叫びたかった。
部屋の隅のごそごそした黒い影にも泣きそうだったが、頭の中のリサが『ベッドに例の虫の痕跡あり。まだ皆を立たせておいて』と呟くので冷静になった。
「そのシミは虫がいる印よ! ベッドはそのままじゃ使えない、虫を殺……綺麗にする必要があるの」
「ベッドに虫がいるですって!」
「どうやって殺すんだ?」
「八十度以上で五分」
「なんだって?」
いけない、リサの言葉がそのまま出てる。
沸く寸前くらい熱いお湯に浸けると虫は死ぬらしい。
でもどこでお湯を沸かしたらいいんだろう? 宿の人に頼めば……でもあんなシーツを敷いて平気な人達に、頼み事を聞いてもらえるかしら。シーツを干す場所だって必要だわ。
「ねえ、アンナの虫除けの魔法はどう? 花壇のお花にかけていたでしょう」
今にも部屋を飛び出していきそうだったクレアが、急に明るい声を出す。
「それってお母様のバラの?」
「あの小さな緑の虫、夕方にはいなくなっていたじゃない」
花好きな母のため、父が良かれと思って手に入れた異国産のバラ。
悪い事に虫がついていたらしく、他の木にも移ってしまった。
あまり酷いと切ることになるかもしれないという、庭師の言葉にショックを受けたアンナは、『小さく動くいやなもの』を追い出す魔法を、なんと自力で作り上げた。
「『まものよけ』の『まもの』の所を少しだけ変えたの」
「あの後皆で練習したね」
「虫がいなくなってわざわざ探したよな」
同じやり方でベッドの虫も追い出せるかもしれない。
姉の思いつきに続き、リザも意見を出した。過去目にした魔法は内容問わず、出来そうなものは片っ端から試してある。
「汚れ落としや掃き掃除の魔法もあるのよ。庶民の魔法だけど。あまり魔力を使わないし、いい所に勤めるには必須なんですって」
「まあリザ、あなた家事魔法なんて……」
母が眉をしかめるのも無理はない。
貴族はそんな事に魔力を使ってはいけないのだ。
貴族の魔法は領民を守り、優雅に暮らすためのもの。
男性なら戦いの魔法、女性は占いや美容とはっきり領分が別れている。使用人や庶民の使う家事魔法を貴族が覚える事はない。
だがその時のリザは好奇心が先立った。
それに知ったら使ってみたくなる。
結果汚してもバレずに綺麗に戻せるし、母に告げ口されることもない、大変有能な魔法だった。バレたら叱られるのでこっそり使っていたけれど。
「ずるいぞリザ、そんな便利な魔法独り占めしてたなんて!」
サボり、逃亡常習犯のヴィクターが悔しがる。
いつも服の汚れでバレて叱られていたものね。
「あなたまでそんなこと」
「お母様、今此処に使用人はいません。僕たちは自分でなんとかするべきだ。姉さんがやらかすのはいつもの事だけど、この場合役に立つ」
「ヴィクター!」
「なんだよ、褒めてるじゃないか」
弟の物言いが癪に障るのもいつものこと。
深呼吸したリザは、まずアンナの魔法をベッドにかけてみた。
『小さくて不潔で、人間を刺す嫌な虫』を思い浮かべる。背筋がゾクゾクするが我慢。
「きゃあっ」
クレアが悲鳴を上げて後退る。
シミだらけのシーツやベッドの端から、小さな点のような虫が一斉にわいてきた。
皆がバタバタと後ろに下がる中、ヴィクターは困惑したように『こいつをどうするって?』と虫を見つめている。
「わからない。熱に弱いようだけど」
「燃やせばいいのか?」
「こんな所で? 火事になるわよ!」
何か良い案はないだろうかと頭の中を探るが、肝心のリサは酷く混乱し、『魔法!? そんなものあるなら早く言ってよ!』と動揺していた。
『すごい! やってみたい! この世界には魔法があるんだ!』
落ち着いてリサ、どうしてそんなに騒ぐの。
『私の世界に魔法はない。物語の中だけ』
そんな事ってある?
魔法のない世界なんて想像がつかない。魔力が余った時はどうするの。
『魔力がそもそもないから。あるって言う人もいるけど、私は嘘だと思ってる。ね、どんな魔法が使えるの?』
今はそれどころじゃない。
この気持ち悪い虫共をどうするの。
『熱風や蒸気はどう?』
「そんな都合の良い魔法は……待って、あれがそうなのかしら?」
洗濯室でメイドがやっていた、皺のばしの魔法。
魔法が使えないメイドは熱した鉄のコテを使っていたけれど、ベテランのメイドは『魔法でやった方が生地の傷みが少ない』と言っていた。
……これは口に出さない方がいいかも。こっそり洗濯室に入っていたなんて、またお母様に叱られる。
「ええと確か」
かざした手からほわほわと蒸気が上がり、熱を感じる。
見た目は大した事のない魔法だけど、蒸気をあてた虫たちは動かなくなった。
「やった! 成功だ!」
「あら、汚れ落としも一緒になってたのね」
メイドが台に広げていたのはテーブルクロス。
上等な生地なのでゴシゴシ洗えず、皺がついたら台無しだと、やけに時間をかけていたのは洗濯と皺のばしを同時にしていたからだったのか。
「見てよ、新品みたいだ」
ヴィクターがシーツをめくると、なんと藁で編まれたマットレスが出てきた。
清潔で乾いていて、虫の気配もない。
家のベッドとは比べものにならない安造りだが、虫も汚れも消えて綺麗になった。
ベッド一台にかかった時間は十分くらいだろうか。二台目にとりかかる頃には、勝手が分かってすいすい進む。
「わあ、面白い」
「ねえリザ、私もやってみたい」
「姉さんは魔力操作が得意だもの、きっとすぐ出来るわ」
「わたしも!」
皆で順番に虫を追い出し、蒸気を当てて汚れを落とす。
最終的には母も『やってみようかしら』と言い出したが、既にベッドは終わっていたので床のマットを対象にする。
「おかあさますごい! あっというまにきれいになってく!」
「なんだか面白いわ」
一家で一番の魔法の使い手は母である。
妊娠、出産すると魔力は子供に受け継がれ、値が落ちると言われているが、魔力が高い子を次々産んでもメガンはまったく変わらなかった。
あっという間にコツを掴み、泥だらけのマットを綺麗にしてしまう。
「元は赤かったのねえ、このマット」
母の勢いはとまらない。
虫除けと蒸気と、更に風の魔法も同時に使い、優雅な指の一振りで壁や天井の汚れを払う。
見違えるようにピカピカになった部屋を見回し、リザはそろりと右手を挙げた。
「あの、お母様。床磨きの魔法もあるのですけど──」
魔法のおかげで事なきを得、無事宿で一晩過ごしたインプリー一家だが、翌日思いがけない事態に直面する。
「手に入った切符は三枚だけだ。時間が遅かったからな。前日売る分は終わってしまったんだ」
「なんですって!」
赤ちゃんのチャーリィを除き、五人分の切符が要る。
王都から出る馬車は、近頃いつも満員だ。
早々に切符が売り切れてしまうので、当然買えないじゃないかと客からは不満が出る。
売り場に詰めかける客をさばくため、組合は売り出す切符を日で分けた。
元々各馬車に予備席として用意していた当日分を、拡大する方向で問題の解決を図ったのである。
「なんとか三枚確保するのが限界だった。残り二枚は今日手に入れるしかない。時間はずれるが、最終的に同じ町に着く」
皆で一緒に乗るのは最初から無理だと分かっている。
それでも二人というのは……心細いし、混み合う窓口で切符を買う自信もない。
一家は無言で顔を見合わせる。
「……お母様とチャーリィは決まり。アンナもまだ小さいもの、無理よ」
「なら私とリザが二人で」
「いや、ダメだ」
ヴィクターがこっちを見ている。リザも同じ気持ちだった。この中なら私達二人だと。
「お姉様とアンナはお母様についてあげて。昨日話した通りよ、私とヴィクターは後から追いかける」
「子供達だけなんて──それにリザ、あなたは女の子なのよ?」
「大丈夫。それよりお母様、お姉様、アンナも、くれぐれも気をつけてね。馬車の中も外も」
初めての馬車の旅、それもヴィクターと二人だけ。
不安でないはずがない。だがそれ以外手立てはないのだ。
「馬車の旅は時間がかかるぞ。その間食べる物は自分たちで用意しなきゃならない」
「あっ」
宿の主人の指摘に、皆で顔を見合わせる。
以前家族で避暑地に出かけた際は、用意されたものを食べるだけだった。
あれは旅先で材料を調達する人、調理する人がいて初めて成り立つ贅沢なのだ。途中立ち寄った宿で用意していたのだろう。
「御者に水を出せる奴がいればその場で買える。器は要るがな。固パンとリンゴ辺りが定番だ」
「お水はなんとかなりそうね」
赤ちゃんのチャーリィを除き、全員魔法で水が出せる。
昨日せめて体を拭きたいと、皆で湯を出す練習をしたので、道中あたたかいものも飲めそうだ。少しだけ皆の緊張が緩む。
「水って売れるのか……なるほどな……」
「長旅ですもの、汚れ物を洗濯したい時もあるわよね」
一晩で家事魔法への抵抗は消えた。
便利なものは使うべきだ。特に母の変化は劇的だった。『考えてみれば普段からチャーリィのおむつは私が綺麗にしているのよ。一々使用人を呼びつけていたら大変だものね』と開き直った様子で、服や体を綺麗にする魔法を教えてくれた。
「何かあった時の為に荷物は分けて持ちましょう」
「その固パンとやらはどこで買えるのかしら?」
「僕が行ってきます!」
切り替えてしまえば対応は早いのがインプリー家。
部屋を引き払って、宿の主人に礼を言う。
ヴィクターは早速買い出しに飛び出していく。
「……一体どうなってる? あんたたち何をしたんだ?」
「少々お掃除させていただきましたの」
部屋の変わりように店主は呆然としていたが、『礼だ』と言って人数分の昼食をタダで持たせてくれた。
「……これ、使えるかも」
迷う時間はない。
道は前にしかないのだから。