11:旅の安全
「少し見てきます。なあに、すぐ見つかりますよ。ちょっと失礼」
トーマス氏が席を外した直後、ヴィクターが窓際に立ち、外の様子を窺う。
リザもすかさずドアに耳をあて、遠ざかっていく気配を確かめた。
突然おかしな動きを始めた子供たちに母は首を傾げていたが、今は消えた男の行方より気にするべき事がある。
「さあ、急いで此処を出ましょう」
「二人ともどうしたの? 何をそんなに急いでいるの?」
「危険だからです、お母様」
本来こうした説明はヴィクターの方が得意なのだが……
母を前にした弟は妙に遠慮がちで、うまく言葉が出ないようだ。
そういえば普段からリザ相手には好き勝手言うくせに、長姉のクレアには丁寧な口を利く。
どういう差なのだと問い詰めたいが、今そんな事をしている時間はない。
「お父様がどうしているか、私たちの身に何が起こっているか、誰も何も分からない。そうですよね、お母様?」
「ええ……そうね」
屋敷から出された直後は、目の前の事に必死で考える暇がなかった。
でも馬車に揺られながらリザも考えた。
父の事を別にしても、屋敷はインプリー家のもの。
方々の支払いが滞っていたとして──では誰が屋敷を売ったのか?
『借金取りがやってきて売却を迫る』ならともかく、契約もなしに追い出されるなんて、おかしな話だとリサも言っていた。
「私たちは誰にも見つからないよう、お祖父様のところへ辿り着かなければいけません。インプリーの名前は出すべきではない。私たちが貴族であることも、知られてはいけない」
「もちろんよ。だからドレスを取り替えたのよね?」
ああやはり自覚がない。
私と同じ。外の世界を知らなすぎる。
リザは姉の言葉にどうしようもないむず痒さを覚えた。
私もちゃんと出来ているつもりだった。馬車の中で考えなしに湯を出して、注目を集めるまでは!
「ドレスだけじゃダメなの。私たち、全然庶民らしくない。知っている人が見たらすぐにわかってしまうわ!」
「どういうこと?」
「私、馬車でお水を売った。皆すごく喜んでくれた」
「私たちもよ!」
「わたしも! おてつだい、いっぱいした!」
「そう……きっとたくさん売れたわよね。どうしてだと思う?」
「ええと──」
「大量の水。それにお湯を出したからよ」
二人は揃って首を傾げた。
それが何か? とでも言うように。
「欲しいだけ水やお湯を出せる人は珍しいの。私たちの馬車の御者さんは、一日に一度馬に飲ませる分の水を出すので精一杯って言ってたわ。それ以上は頭が痛くなって、とても疲れるのですって」
「手足を洗うのに丁度良いお湯。お茶を入れられるだけの熱いお湯。量も温度も自由自在に出せる人はそういないんだ。掃除や洗濯の魔法だって、それだけで大きな店や貴族の屋敷に勤められるくらいすごいことなんだよ」
「でもうちの使用人は出来てたわ!」
「そうよ。私たち、貴族だもの」
だった、と言うべきかもしれない。
まだ籍があるのか、インプリー家がどう扱われているのかもわからない。
「……では、私がした馬車の魔法は」
母は気付いたようだった。
見る間に青ざめていく顔を見て、ヴィクターがそっと言い添える。
「お母様の魔法は規格外……独創的と言いますか、とにかくすごいんです。僕らは幼少期から魔力操作を学び、自分で魔法を作ることだってやりますが、王都の学校では誰もそんな事出来ません」
お母様がぱかりと口を開く。
お母様のそんな顔、初めて見た! それだけ衝撃が強かったのだろう。
「魔法学の先生でさえ、そうなんです! 彼等は教科書以外の魔法は考えた事もないのです。気になったことを質問すれば、おかしな事を言うな、考えるなと叱られます。だから……」
「ヴィクター、それじゃあなた……」
「師は尊敬すべきと言いますが、あれは実に退屈な時間でした」
母は驚いていたが、リザも密かにショックを受けた。
学校は素晴らしい所だと……幾らでも学べるヴィクターを羨ましいと思っていたけれど、そんな先生に物を教わるのは嫌だ。せめて調べるくらい許して欲しい。
「インプリー家の魔法はそういうものです。宮廷魔術師であれば、可能かも知れませんが」
「グランウィルでは使える兵もいたのよ」
「あそこはあらゆる意味で特殊です、お母様」
確かに色をつける魔法なんて聞いたこともない。
『どうしてそんな魔法が出来たの? 何に使うのかな』と早速リサが興味を抱いているが、後にしてほしい。
「この騒ぎを見たら分かるでしょう。誰もが使える魔法ならこんな事にはなっていません」
「私ったら……ああ、どうしましょう!」
母も姉もアンナも、ようやく事態を飲み込めたようだった。
慌てる皆を宥めながら、リザは静かに口を開いた。
ここに来るまでの間ずっと考えていた。
どうしたら騒ぎにならず安全に、お祖父様の所まで辿り着けるのか。
『乗合馬車は危険かも。他のお客さんがいるから、どうしたって見られてしまう』
リサの言う通りだ。乗合馬車は乗客がいる。
この先の道は馬車の数自体が減り、ある程度客が揃わないとそもそも出発しないなんて事もあるようだ。
目指す町によっては三日に一度、週に一度なんて道も。
北部に近づく程に人は少なくなっていく。
町と町の距離が長くなる。
何日も人気の無い場所を通る道は、危険だから護衛も増える。座席とは別に払わねばならないし、雇った相手が善人とは限らない。
焦って人をかき集め、出発した商人が命ごと荷を奪われるなど、怖い話をたくさん聞いた。
王都からイエナまでは比較的商隊を組みやすいが、北に向かう商人は用心深く閉鎖的で、顔見知りでなければ断られることもあるという。
たとえ馬車が手配出来たとしても、この人数での移動となれば……これまで以上に目立つのは間違いない。
『いっそ馬車ごと借りちゃえば? 自分たちだけで旅をするの』
「馬車って借りられるものなの?」
「何だって?」
思考からこぼれ落ちた言葉を、ヴィクターに聞き返される。
怪訝な顔をされたがどちらにしろ相談する必要はあるわけで。リザはこれ幸いと会話に乗った。
「ここから先、乗合馬車以外の方法がないか考えていたんだけど……もしかして馬車を借りられるんじゃないかと思って」
「一日か二日借りるならともかく、僕たちの場合目的地が遠すぎる。借りっぱなしってわけにはいかないよ、信用もないし」
身分を示せば可能かもしれないが、今の私たちはただの旅人。
イエナに知り合いなんていない。この方法は厳しいか。
『保証金を払えばいいんじゃない? 前に旅先で車を借りた時、とんでもなく高い金額を言われてひっくり返ったんだけど、それって保証金だったのよ。車を返したら戻ってくるお金ね』
「保証……何?」
「へえ、よく知ってるじゃないか」
「えっ? ま、まあね」
「確かにそういう仕組みはあるよ。でもこの場合、保証金を払っても難しいと思う。馬や荷台は彼らにとっての財産だからね。リザだっていきなり尋ねてきた知らない人に、ドレスを貸したりしないだろ」
「そうよねえ……」
悩みは再びスタート地点に戻ってきた。
「どこかの商隊に潜り込めれば……」
「それって結局同じじゃない? 絶対事情を聞かれると思う。乗合馬車でも町でも、ちょっと話しただけで次の日にはみんな知ってた」
「旅って大体退屈だからな。暇つぶしなんだろうけど」
他に良い案も出ず、一度は諦めた手段だった。
しかし希望が出てきた。騒ぎこそ起こした母だが、そのおかげでトーマス氏と知り合い、バリー商会との繋がりを得たのだ。
これはひょっとしたらいけるのでは?
ちらりと窓際を見れば、同じ事を考えていたのかヴィクターも頷いている。
お願いリサ、力を貸して。
『任せておいて。交渉開始ね!』
「なんと、今ですか!?」
「はい。今すぐ馬車が必要なのです」
例の人物が見つからなかったと──申し訳なさそうなそぶりで戻ってきたトーマス氏は、リザの申し出にとても驚いていた。
「馬車一台と言いますと……」
「このお金では借りられませんか?」
「こちらを全部ですって!」
トーマス氏が穀物袋を見つめ、唸る。
リザではなく母の顔色をうかがい、頷く様を見て目を丸くする。
「借りられるというか……馬車一台なら買えますが?」
「そんなにお金があるんですの?」
「ええ、見ての通りです」
「あらまあ」
母の物言いは何処か他人事で、それが愉快だったのかトーマス氏が笑う。
「大型のものはすぐには難しいかもしれませんが、もちろんご用意できますよ。そうですね、奥様やお嬢様方がお乗りになるようなものと言えば……」
「どんなものでも構いません。私たち全員が乗れるなら、この際荷馬車でも」
「とんでもない! あれは人が乗る物ではありません。足は遅く揺れは酷く、それが一日中続く。歩いて向かった方が早いくらいでして」
荷台の造り、馬の種類、その上悪路と条件は最悪。
以前荷運びのついでと軽い気持ちで乗せてもらったところ、一生分の後悔をしたそうだ。
「ただまあ、安全面ではおすすめしませんね。行き先を仰ってくれればどの席でもお取りします。あと二日もすれば商会の定期馬車が出ますから、そちらに乗り合わせるという手も……」
できれば早く町を出たい。
今はまだ変わった魔法程度の認識だが、『子連れの魔法使い』の噂はすでに広まっているのだ。
既に怪しんでいる誰かがいたら。今の所姿はないけれど、万が一イエナの領主に通達が行き、私たちみんな兵士に追われる事になったら──
「ご親切に感謝します。ですが急いでいるもので」
想像するだけで心臓が破れそうだ。
精一杯の愛想笑いを浮かべて念押しすると、相手は渋々頷いた。
「はあ、そうですか。では馬車を取り扱う店に参りましょう。今ならまだ間に合うはずですから」
「ありがとうございます、トーマスさん!」
トーマス氏が用意してくれた馬車に、一家はいそいそと乗り込んだ。
バリー商会の馬車は屋根付きで、板だけの乗合馬車と違い、背や尻に詰め物がしてある。
とても快適な上、後ろに荷物を積む所もあって、是非こんな馬車が欲しいとリザは思ったのだが──
「こちらの予算ですと……少し足りないかと」
案内されたのは馬車や部品が並ぶ、倉庫のような場所。
本来馬車は用途に合わせ発注するもので、欲しいと言ってすぐ買えるものではない。
ここは修繕を兼ね、不要になった、または何らかの理由で手放された中古の馬車を取り扱う店だという。
「良いものって高いのね」
至極当然のことを、改めて噛みしめる。
リザとヴィクターが稼いだ分を足しても無理だ。馬車も馬も高すぎる。
「最低限屋根は必要よ。雨が降ってきたら大変だもの」
「荷物を置く場所もね」
「飼い葉を積まないといけないし、水飲み用の桶も要るな」
「アンナ、ぶちのおうまさんがいい!」
意見ばかり出るものの、条件全てを満たす馬車は予算を超えてしまう。
今まで馬車の機能なんて気にしたことがなかったので、善し悪しなんて分からない。
考える事が多すぎて混乱する。
「これって馬も付いてます?」
「そのように計算しております」
交渉は全面的にトーマス氏がしてくれた。
バリー商会の威光か、多少の無理は利くようだ。
どうしても譲れない部分だけ告げて、後の条件を全て除けてしまえば、味も素っ気も無い外装の馬車が残る。
「……前が開いた箱ね」
「一応ベンチはある。屋根だってついてる」
「端が破れてない?」
御者台を含めて席は二列、後ろに小さな荷台が付いている。
足元には物を入れる箱があり、ステップにもなるとのこと。
「用意ができました、どうぞ」
買う前に乗り心地を試させてくれるらしい。
荷物の中から敷物を出し、ベンチに置くと全員同じ事をしていた。
思わず顔を見合わせて笑う。
「あの揺れは酷かったわねえ」
「乗っている間何度舌を噛んだか」
「慣れると眠くなるのよね。編みものをしている人がいて驚いたわ」
後ろは大人三人用。
ほっそりしたお母様とお姉様と子供たち。そのうちチャーリィはまだ赤ちゃん。
詰めればなんとか乗れるかもと奮闘していると、ヴィクターはさっさと御者の隣に陣取った。
「僕が前に乗る」
「寒いでしょう? 途中で交代しましょうよ」
「どっちだって同じさ。吹きさらしだ」
「お外がよくみえる……」
クスクス笑うアンナにつられ、皆一斉に笑い出した。
笑顔で手を振るトーマス氏に『行ってきます!』と挨拶し、馬車はゆっくり走り出す。
敷地内を一周した後道に出て、他の馬車と併走すると、色々と違いが見えてきた。
「乗合馬車より高さがあるのね」
「揺れはするけどかなりマシだな。何が違うんだろう」
「使っている部品ですね。これは車輪と車体の接続部分に魔導鋼が使われてるんで」
「なるほど」
『待って! マドーコーって何!?』
何と言われても……
魔導鋼は魔力で伸ばす金属だ。
採掘時は重く硬く、しかし魔力を通すと軽く柔らかくなり、形が固定される。
『それってニッケル? アルミ? ステンレス?』
ごめんなさい、何を言っているのかわからない。
『誰でも加工できる? 武器を作ったりとか』
いいえ、専門の魔法使いがいるはず。
魔導鋼自体は各地の鉱山から出るけれど、加工は東部の町が担っている。
以前は門外不出の秘法と言われ、とても高価だったのだが……余所の国から加工法と製品が伝わり、今は割と手に入りやすい。
『実物が見たい!』
魔導鋼はリサの世界には無いらしい。興奮した声が止まない。
馬車の下を覗き込むのはごめんよと釘を刺し、目を閉じて乗り心地に集中する。
特製の部品のおかげか、とても快適だ。
「買って損はないと思いますよ。こんな値段で手に入るもんじゃないんで。こいつ色を塗る場所が少ないからって、昨日売られたばっかなんです。馬車は走るのが仕事だってのに」
「まあ……」
思わぬ形で弊害が。
リザは思わず隣を見たが、母は穏やかに笑って言った。
「そんな素晴らしい馬車が手に入るなんて、幸運ね」