1:魔法使い一家の逃亡
埃だらけの汚らしい路地裏に下ろされ、馬車が走り去った瞬間、脳裏に数多の星が瞬いた。
それはまるで濁流のように恐怖と絶望を押し流し、メソメソと涙を流していた十三歳の少女を変えてしまった。
「……ここは危ないわ」
「なんですって? リザ、今何と言ったの?」
姉の震える声を聞く。
なんとも奇妙な心地だった。
物が消え人が消え、何不自由なく暮らしていた邸宅から追い出され、行くあてもなく途方に暮れる貴族の娘リザは此処に居る。
一方で目標に向かって学び続け、あこがれの職に就き世界中を飛び回る自立した女性としての自意識が同時に存在していた。私はナルミ・リサ。国籍、日本。……まって、コクセキって何?
混乱するリザの意識を塗りつぶすように、リサが『今すぐここから離れなさい!』と叫ぶ。
彼女はこの場所にスラムの空気を感じ取っていた。目つきの悪い通行人、物売りは地べたに直接腰を下ろし、薄汚い身なりの子供が道端のごみを漁っている。
頭の中でもう一度状況を確認する。
青ざめ震えている姉のクレア、口を真一文字に結んだ弟のヴィクター、姉のスカートの裏に隠れ泣いている妹アンナ、腕に末弟チャーリィを抱き、不安そうに周囲を見渡す母のメガン。
本来であれば足を踏み入れる事さえない場所で、立ち尽くす六匹の羊。
無意識に握った手が、小さく硬い感触に触れた。
「ねえ、ちょっと、そこの貴方!」
手にかごを抱えて歩いていた少年が、ぎょっとしたように此方を向く。
厄介事の匂いを嗅ぎ取り、そそくさと立ち去ろうとする彼の進路を遮り声をかける。
「お仕事中ごめんなさい。道案内を頼みたいの。近くに質屋──いえ、古着屋はあるかしら?」
「悪いけど──」
外した指輪を見せる。
誕生日のお祝いに、父から贈られた守護石。
「私達とても困ってるの……案内してくれたら差し上げるわ」
後半声を潜めて言えば、少年の瞳が一瞬揺れる。
所々つぎやほつれはあるが、比較的整った身なりにそれなりの背丈。
栄養状態も悪くない。工房の丁稚か、使い走りだろうか? 何でもいい、この指輪の価値が伝われば。
「わかった」
「ありがとう。用事が済んだら渡すわね」
伸びてきた手をさっと躱す。
はしこい目つきの少年ににこりと笑って見せる。とにかく笑顔だ。少しでも揉めている気配を出せばトラブルを呼び込む。これ以上の厄介事はごめんだ。
治安の悪い地域ではびくびくせず、堂々としていること──世界を旅したリサの教え。
「みんな、ついてきて」
姉に目配せをし、泣いているアンナの手を掴む。
足元の荷物を二つ、持ち上げて両肩にかけ歩き出す。
母は戸惑いながらも姉に付き添われ、ヴィクターはさっと隣へ位置取った。
普段は生意気な弟だけど、頭の回転は速い。彼は無言でリザの持った鞄を一つ取る。
「大丈夫なのか?」
「そう願うしかないわね」
少年の背を追いかける。
結構な速度だが、ついていくしかない。此処は危険だ。一刻も早く離れなければ。
「まってねえさま、はやすぎるの。そんなに歩けない……」
「頑張って」
ぐずる妹をなだめて進む。
いつも本ばかり読んでいる、大人しい姉の顔を仰ぎ見たアンナはひくんと喉を鳴らした。
そのまま黙って歩き出す。彼女なりに何か察したのかも知れない。
普段のリザなら泣きはせずとも、黙って突っ立っているか、姉の影に隠れていただろう。
しかし今は一刻も早く家族を安全な場所に移す事しか考えていない。
日本に生まれ、世界を旅したリサの意識がそうさせていた。こんな治安の悪そうな場所で、それも綺麗な格好をした女子供ばかり、獲物でしかないわよ。あっという間に身包みを剥がれ、売り飛ばされるに違いない。
父インプリー子爵は領地を持たぬ宮廷貴族で、国王の信頼厚い側近。
家には十分なお金があり、リザ達はつい最近まで何不自由なく暮らしてきた。
だが高齢の国王の体調が思わしくなく、毎日だった父の帰宅が二日に一度、三日に一度と伸びていき──それがとうとう一週間にも及ぶ頃、父は帰ってこなくなった。
食卓は火が消えたようにさみしく、心配した母は何度も王宮に手紙を出したけれど、返事は来ない。
そんな中国王に続き王太子が病に倒れたと発表がされ、王都は重苦しい空気に包まれた。
国の大事にも関わらず王宮は不気味に沈黙し、ひょっとすると恐ろしい企てがあり、王や王子は殺されているのではないかと憶測する者もいた。
領地を持つ貴族はこぞって引き上げ、インプリー家も縁戚のウインズ伯爵家に誘われたものの、父の帰宅を待つと母は断った。
子供達だけでもという申し出もあったが……あの時リザ達は事の重大さを分かっていなかった。王宮を慌ただしく出入りする兵の姿や、少しずつ店頭から物が消え、人が消えていくことにも目を瞑っていた。ある朝父がなんでもないように帰ってきて、『ただいま、長いこと留守にして悪かったね。皆元気かい?』と言ってくれると信じていたのだ。
最初に逃げ出したのは馬丁だった。
次に下男と通いの女中たち。執事も使いの途中でいなくなった。
家の物が無くなっていると気付いたのはその後だ。罪を罰する父はおらず、屋敷のお金はごっそりと持ち去られていた。
そのうち支払いが滞り、得体の知れない証文にサインを迫る輩が押しかけてきて、末弟を産んで間もない母は倒れてしまった。
僅かに残った使用人が『もうここには来られない』『お嬢様も逃げた方がいい』と言って去って行く。
それでもリザはぐずぐずと父の帰りを待っていた。かたいパンもおいしくないスープも我慢している。今にきっとお父様がすべてを良くしてくださる筈。
……父は戻らなかった。
見知らぬ男達がやってきて、一家を追い立てみすぼらしい馬車に乗せた。
屋敷がお父様のものでなくなった、という事を喚いていたようだが、真偽の程はわからない。
残ったのは身の回りの僅かな物と家族だけ。
「まだ遠いの?」
薄汚い路地裏で、住人達にじろじろと品定めされる環境から一刻も早く逃れなければならない。
焦るリザと、豹変した次女に困惑する家族たち。
それでもしっかりと着いてきている。のんびり屋かもしれないが、インプリー一家の結束はかたいのだ。
「ここだよ。おいばあさん!」
品物が重ねられた小山が幾つも、それも半分路上に突き出している。
店構えと不衛生さに圧倒される。しかし贅沢は言っていられない。
「大声を出すんじゃないよ、耳がやぶけちまうだろ」
「客つれてきたんだよ」
「はあ?」
皺だらけの顔を上げた老婆が、一家を見回し目つきを変えた。
リザは少年に指輪を渡して礼を言い、店主に近づきその体を押すようにして一家を手招く。
「なんだい、どうなってる」
「見ての通りよ。私達は目立ちすぎる。どこかで着替えなきゃならないわ」
「……そのようだね」
「お願い、おばあさん。私達に服を売ってちょうだい」
十三歳のリザに自由に出来る宝飾品はない。
インプリー家は子供に贅沢をさせる家ではなかった。それにまだ社交デビューすらしていないのだ。相応しい方に見初められるまで、借り物を身につけてお相手を探す……こんな事になった以上、出来そうにないけどね。
「来な」
老婆を追い、一家は狭く不思議な匂いの詰まった店の奥へ向かう。
積み上げられた服は全て古着で、新しいのは一つも無い。
誰かが着た服を、それも洗濯をしたかどうかも怪しい物を肌に触れさせるのは嫌だったが、頭の中でリサが『贅沢言わないの!』と釘を刺す。わかった、わかったわよ!
「この辺じゃないのかね。あんたらが用事がある服は」
奥には明らかに仕立てが違い、汚れ具合もややましな古着が吊されていた。
外の品より高価なものは、持って行かれないよう此処においているのだろう。
「あんた、選べるかい?」
「ごめんなさい、わからない」
「しょうがないねまったく……アルマ!」
布の固まりがごそりと動く。奥に作業部屋があるようだ。
のそりと姿を現した女性は見上げる程に背が高く、眠たげな顔をしていた。背後で息をのむ音がしたが、リザ──ほぼリサの意識──は彼女が着ているドレスに目が行った。
「素敵なドレスね。そんな風にひだ飾りを斜めに使うなんて考えもしなかったわ」
一瞬驚いたように身を引いた彼女の、緑の目が戸惑ったように店主へ向く。
「ほらアルマ、なんて言うんだい?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
うっすらと頬を染めたアルマは身を折って、そそくさと店の外へ向かう。
一家は自然と彼女に道を空け、クレアは『本当に素敵』とにっこり笑って送り出す。
誰とでもすぐ友達になってしまう姉の社交性を目の当たりにし、リザは誇らしく思うと同時、『私がお姉様を守らないと』と心に刻む。
「ここにあるのは全部古着を解いて作り直した服さ。言っとくけど表のより高いよ」
「さっきのアルマさんが作ったのね。これを見たら表の品を買う気にはならないものね。合う物を選んでもらえます? 私達あまり詳しくなくて」
服選びは思いのほか楽しかった。
思っていたよりずっと上等の品で、あたたかい上着も人数分揃った。
皆着慣れない庶民の服に戸惑ってはいたものの、元の服より動きやすいとヴィクターなどはすっかり気に入っていた。
着ているドレスを下取りに出せば、少しだけど現金も手に入った。これで残り少ない母の宝石を売らずに済む。下着類は売らない。これだけ質の良い物は、今後手に入れるのは困難であろう。洗って大事に使わなければ。
「何かかぶった方がいい。あんたたち綺麗すぎるからね。それで、あてはあるのかい?」
咄嗟に言葉に詰まる。私達はどうすれば?
幾つか計画はあった。ひとまずは宿へ落ち着き、安く借りられる家を探す。
または近くの小さな町に引っ越して、王都の様子を伺いながら──駄目だ。こんなのやっていける訳がない。
どちらの計画も父が生きて戻る事を前提にしている。リザは父の帰還を信じていたが、冷静なリサは最悪の事態に備えるべきだと言う。
『この国の貴族がどんなものか知らないけど、大人しく収まるとは思えない。この場合、王に近い程危険』とはっきり突きつけてきて泣きそうになった。
「あります」
それまで沈黙していた母が、末弟をあやしながら言った。
「貴方達のおじいさまのお家。でもとても遠いの。馬車が通っているかも分からない」
「私たち、受け入れてもらえるかしら?」
「もちろんよ! ずっとそうするべきだと思ってたの。クレアと、赤ちゃんだったリザだけは会った事があるのよ」
それしかないという思いと、よりによってそこ!? という絶望。
北部の大森林を有するグランウィル家ならば、確かにこれ以上無く安全。
だがそもそも何故安全なのかと言うと、国の北端というド辺境だからだ。
城は対山岳民族の守りとして築かれ、兵が常駐する国境の防衛線。
祖父ジェフリーをトップとする領軍は国内三番目の勢力であり、だからこそ父と母は結婚した。有力な貴族家との繋がりを恐れた王は、グランウィル家の娘を重用する臣下に娶らせ、安定を図った。
では父が居ない今、私達の立場は──
「それってどこに」
「お母様」
妹の無邪気な問いを遮って呼びかけると、母はさっと顔を青ざめさせた。
優秀な夫に五人の子供。王都で幸せな家庭を築いた彼女だが、元はグランウィル家の娘。
自分たちの置かれた状況を、わからない筈がない。
「準備も出来た事ですし、これ以上はご迷惑になりますわ。参りましょう」
説明も無く放り出されたのは、むしろ幸運だったかもしれない。
人目を嫌ったのか、家に来たのは兵ではなかった。
世間知らずの貴族一家。
手違いで邸宅を追い出され、治安の悪い貧民街に放り出されてしまった彼らは身包みを剥がれ殺される。
後にグランウィル家が知ったとて、そんな話で片付けられるのかもしれない。
父が帰らない理由。王宮から返事は来なかった。親交のある家は領地に引き上げていき、インプリー家は孤立していた。これら全てが故意であったら?
「騒がせて申し訳ありません。お世話になりました」
「その言葉遣いはいけないよ。私のように話すんだ」
「……わかった、わ」
老婆は宿を教えてくれた。汚い安宿だが客の事情を詮索しない。
「私の名前を出して馬車の切符を用意してもらいな。古着屋のコルテだ」
「古着屋の、コルテさん」
「子供だらけだし、六人もいるから目立つんだよ。三人と三人、二人と四人でもいいけどね、分けて切符を買ってバラバラに乗る。馬車に乗っている間も知らんぷりして、離れた町でこっそり合流するんだよ。わかるかい?」
「乗る時間もずらした方がいい?」
「そうさね、上出来だ」
町をつなぐ乗合馬車は、大抵固まって移動する。
特に王都から出る馬車の数は多く、名前ではなく人数で切符を切り、管理している。問い合わせが来るならそこからと教えてくれた。
「途中金を稼がなきゃならないかもね」
「……多分、大丈夫。なんとか出来ると思う」
「金は表に出すんじゃないよ。盗られても良いように分けて持って、服に縫い込んで隠すんだ」
「お裁縫は得意よ。お姉様が」
「ククッ、なるほどね」
外に出るのが怖い。
「誰かに聞かれたら、私はあんたたちの話をする」
「……」
「ドレスを買い叩いて追い出してやったと教えてやるさ」
「……ありがとう、コルテさん」
礼を言って抱きしめると、優しい匂いがした。
リサの記憶が浮かんで来る。異国のマーケットで、羊の毛から糸を紡いでいた老婆のこと。スパイスと乾いた日なたの匂いがする猫。
入った時は怖かったけど、此処以上に安全な場所は無い気がする。
でも行かなきゃ。
私がみんなを連れて行く。