01 羽音
血なまぐさい匂いが充満している。響くのは銃撃音と喚き声。赤い雨が降り続ける荒野に、1人の天使が舞い降りた。
「やめてくれ!」
若い男の叫び声が響く。首筋に刃物を突きつけられていた。体が恐怖の色で染まる。弾の切れたak-47を、震える手で懸命に握っていた。
「すまないな」
ナイフを握る男は言う。体格が良く、声も地を這うような重厚なものだった。
大きな手で若い男の首を掴む。彼は抵抗しようとその腕をつかみ返したが、圧倒的な体格差を前にすぐに組み伏せられてしまった。地面に押さえつけられ、もはやどうすることもできない。
「僕には、まだ、妻が、国に......」
首元を締められたまま、掠れた声で言った。その途端、首にかかっている力がふっと緩んだ。目の前の男に、明らかに動揺の色がある。
今だ。
思い切り頭を振り上げ、頭突きを食らわした。脳が揺れる数秒、相手の腕を振りほどき、立ち上がった。ぼやけた視界が治るころ、遅れて痛みがやってくる。目の前の男は額に血を流しながら、鬼の形相でこちらを見つめていた。それを見て、また体に恐怖が走る。ほとんど脊髄反射で、足が動いていた。
「逃げるなぁ!」
後ろから怒号が響く。地面が揺れ、足がもつれた。地面が視界に急接近する。とっさに手を着くが、足はそのまま動かなかった。
「あ......」
振り返ると、大男が刃物を掲げていた。獣のような目付きで、腕を振り下ろそうとしている。視界に、死が恐ろしい速さで近づいた。
しかし不思議なことに、その動作はとても遅く感じられた。まるでスローモーションのように視界が動く。かといって己の体が動くわけでない。ただ、その間に、様々な見知った顔が浮かんだ。尊敬する両親、信頼する友、そして、最愛の女性。記憶の底に溜まっていたものが、鮮明に溢れ出した。涙を零す暇もない中で、彼は1人の名を呼んだ。
「アイラ......」
そして、視界は動きだした。彼はゆっくりと目をつぶった。
パァン
銃声と鮮血が舞った。
と同時に、青年の顔に液体がかかった。それの温度で、彼は自分が生きているのだとわかった。
恐る恐る目を開ける。目の前には、地面に突っ伏した大男と、1人の少女がいた。
銀色の長髪が風になびく。助かったという安心感よりも先に、込み上げてくる感情があった。なんて美しいんだろう、と思った。
小さい顔に大きな瞳。瞬きをする度に白いまつ毛が揺れ、息をする度に唇が色付いた。
若い男はただ、全てを忘れて彼女を見ていた。彼女以外の時が止まったようであった。
風にのって枯葉が舞う。生気を感じさせないこの荒野に、ひとつの光る場所があった。青年は涙を流した。
少女は微笑む。天使のようだった。
身に纏う白いコートには、鮮やかな赤が飛び散っていた。
※ ※ ※ ※ ※
ダァンダァン
鼓膜が破れそうになるこの音も、鼻を刺すようなこの匂いも、長くここに居る人間にしてみればなんてことはない。
彼も、その1人であった。
ただ己の本能に従い、光る剣を振るう。死骸の上に立つその姿は、死を呼ぶ神と同等であった。
今日もまた、同じことの繰り返しである。返り血で濡れた髪から涼しい目を覗かせた。青い瞳である。すらっとした長身が、白いコートで覆われていた。
「うわあああああ!」
前から1人の若者が走ってくる。剣を振りかぶり、目を血走らせていた。
これに対して、男は剣を下段に構えた。腰を低くし、相手が近づくのを待つ。
4メートル、3メートル、2メートル......。その時、男は低い姿勢で一歩踏み出し、腕を振った。鮮血が、彼の顔を濡らした。
若者は口をぱくぱくとしながら、その場に崩れ落ちた。地面に血溜まりが広がる。
男は一つ、息をして空を見つめた。なんのことはない、いつも通りの曇天である。しかし、彼はどこかを見つめていた。雲の先を、見つめていた。
目を細めて、剣を掲げる。
男は駆けた。
彼の行く先には、いつも隣に死があった。
※ ※ ※ ※ ※
「本当に、ありがとうございます」
青年は涙を拭って感謝を述べた。目の前には、狙撃銃を担いだ美しい少女がいる。
2人は、レンガ塀の後ろに隠れていた。最前線から1キロほど離れた場所である。幸い、辺りに敵兵は見当たらない。先ほどは隠れていた敵の生き残りだったようだ。しかし遠くからは絶え間なく爆音が耳に届く。ここもまだ安全とは言えなかった。
「危ないところでしたね」
少女は微笑む。絵画のような笑顔に、男の目がまた潤んだ。これが、噂の『女』だということは一目瞭然であった。
「あの......」
そう男が言うと、彼女は口角をあげたまま首を傾げた。それによって動く髪の毛の1本1本が、光の反射によって輝く。
男はゴクリと唾を飲み、己の心中を告げた。
「あなたが、天使ですか......?」
少女はポカンとした顔になった。自分が失言したと気づいた男は慌てて口を動かす。
「いえ、その、変な意味ではなくて。仲間の中で噂になっているんですよ。戦場に舞い降りた天使がいるって。もしかして、と思って.......」
拙い口調で言った。そうすると彼女はくすりと笑って返す。
「そう呼ばれることもあるみたいね。もちろん、私は人間だけれど」
「けれど、僕には天使に見えます」
「ありがとう。ところであなた、さっき私の名前を呼んだ?」
この質問に、男は首をかしげた。無論、彼は少女の名すら知らない。
「ほら、言ってたじゃない。『ライア』って......」
そう言われて男はハッとする。
「いえ、僕が言ったのは『アイラ』です。勘違いさせてすみません」
「あら、逆から読むと私の名前ね」
そう言うと少女ーーライアは大きな目をぱちりとさせた。薄く青がかった瞳は、さしずめアクアマリンのようである。
「アイラっていうのは、あなたの奥さん?」
「いえ、実はまだ、結婚していないんです。なにせ、国がこんな状況ですから。はやく戦争を終わらせて、式を挙げたいです」
「そうなの。ここで会ったのもなにかの縁ね。お名前は?」
「ルーカス、といいます」
青年ーールーカスはキリッとした表情で言った。金色の短い髪を覆う軍帽を、深く被り直す。目が大きく幼い印象を受けるが、まっすぐな瞳をしていた。
「ルーカス......、光という意味ね。いい名前だわ」
「ありがとうございます」
2人は目を合わせて笑った。ルーカスは、久しく感じていない安らぎの中にいた。癒しにも似たこの感情は、本来、この場所とは決して同居しないものである。だからこそ戦場に住む人々は、ゆっくりと、確実に精神を病んでいく。なぜ皆がこの少女を天使と崇めるのか、ルーカスは今わかった気がした。
「あのーー」
ドォォォォォン
とてつもない爆音が、2人の耳を切り裂いた。レンガ塀が砕け飛ぶ。ルーカスは少女に向かって抱きついた。レンガの破片が、背中いっぱいに降り注ぐ。
「ルーカス......」
ライアは地面に頭を打ちつけていた。ぼやけた視界には、金色の髪の青年がいる。
「ライア......。怪我はない?」
ルーカスはライアに覆いかぶさり、かすれる意識を必死につなぎ止めていた。背中がズキズキと痛む。額から流れる血が、ぽたぽたとライアの頬に落ちた。
「私は大丈夫。とにかくあなたの手当てをーー」
パァンパァン
銃弾が、ライアの耳をかすった。その瞬間、ルーカスの腕の力が抜け、ばたりとライアの上に倒れ込んだ。
「ルーカス!」
ライアは恐る恐る右に顔を向けると、砂ぼこりの先に黒いコートの集団が見えた。敵兵である。
「ルーカス、逃げるわよ!」
ライアは彼を抱き起こし、肩をもった。しかし彼の返事はない。体も脱力している。意識がない。ライアはルーカスを引きづり、左へと向かおうとした。
「誰かーー」
ライアがそう声をあげると、1人の人影が浮かび上がった。濃い砂ぼこりで良くは見えない。だんだんと、こちらに近づいてくる。
ライアも必死に足を動かした。
少しづつ、距離が縮まる。
これが、2人の初めての出会いだった。
「女か」
低く、冷たい声が響いた。
気がついたら、その男はライアの目の前にいた。
切れ長の目である。青い瞳が、彼女を突き刺した。
ライアは呆然と立ちつくした。
男はルーカスの方に目をやる。すると彼の瞼をぐいっと開け、なにかを確認した。
「こりゃもう、死んでるぞ」
平たんな口調であった。その言葉に、彼女は静かに下唇を噛んだ。
「前方から敵兵です」
ライアは告げる。体中から絞り出した言葉だった。
「ああ、だから来てんだよ」
男は彼女を見下ろして言う。かきあげた深い青の髪に、血が滴っていた。
「戦線の一部が突破された」
「えっーー」
ライアは驚きを隠せない。ここ1年ほど膠着していた戦況が、今になって動き出したということか。
「私も戦います」
強い声で言った。上を見上げ、男の瞳を見つめた。
「お前になにができる」
「誰かの身代わりになることくらいは」
「十分だ」
男は剣を、少女は銃をとった。
これは天使と死神の物語。
残酷な戦場で、彼らは何を願うのか。
いつかの、己の散り際まで。