終戦で役割を無くした病院に残った最後の患者とある一人の看護婦の旅立ちについて
「今日で、俺も退院か……」
「そうですね。おめでとうございます」
「……おいおい、寂しくなりますね、くらい言ってくれないのか?」
「まさか。患者様が退院なさるのですから、これ以上の幸福などありませんとも。──それに、ほんの数日の差でしょう?」
「……まあ、そりゃそうなんだけどさ」
つめたいよなぁ、と、ベッドの横、仮設の椅子に座る看護婦に、俺はため息をつく。
包帯も取れ、傷も塞がり、最早すっかり元に戻ってしまった体を見ながら、俺はこれまでの日々にじっと思いを馳せていた。
◇
ここは、元々従軍看護婦の集まる病院だった。
軍隊の後方で傷ついた兵士たちを癒し、再び戦場に送るための小拠点。
24年前、領土とか経済とか、まあそんなよくある話が拗れに拗れて、ついにうちのハゲ大統領が隣国との「戦争」を宣言したその日から、何千という人の命を救い、何千という人の死を見届けてきた。そんな場所。
だが、それも、今日でその役割を終える。
──終戦が決まったのだ。
4ヶ月ほど前、今度は随分ふさふさとした髪の大統領と、隣国の正にエリートみたいな顔をした首相とで、和平が成立したらしい。まあ、実際本当に終戦を宣言したのは少し後だったとか何とか上は言っていたが、現場からしてみればどっちも同じことだ。
和平が決まって以来、この戦場では死者が出ることはなくなった。当然、病院としての仕事も、残った兵士の看病くらいしかなくなる。そして、傷が治ってしまえばこんな場所、いつまでもいる理由はないわけで。
時間が経つにつれ一人、また一人とこの病院から患者は減っていき──そして、今入院している俺が、文字通りここの最後の患者、という訳なのだった。
「──もう、荷物はまとめたんですか? 参謀本部によると今日の昼に迎えの車が来るそうなので、それまでには準備を終えてもらわないと困りますよ」
「アンタな……いくらなんでも子供扱いしすぎだろ。俺はもう23だぞ。立派な大人だっつーの。入院中にとっくに荷造りは終わらせてんだよ」
「そういう人に限って一番大事なものを忘れてたりするんですよねぇ……」
やれやれ、と首を振る看護婦。うざい。
こいつは普段から軍人のことを舐めているとしか思えないような態度だったが、実際に終戦が決まったあたりからは、俺たちのことを本当にゴミかなんかだと思っている節がある。
そりゃまあ確かに、彼女からしたら俺たちの存在は残業みたいなもんだから煙たがられるのもわかるが、いくらなんだってもう少し手心というものがあってもいいんじゃないだろうか?
俺は抗議の意味も込めて、看護婦の方をにらみつけた。
……今俺がカバンを漁ってるのは、アレだ。ただふと中の携帯食が食べたくなったからであって、決してこの女に言われて不安になったとかでは無い。本当だ。
「あら不思議。必死に言い訳しながらカバン漁ってる人に睨まれても全然怖く無いですね」
「く、クソばばあ……」
「まだ46です」
ばばあじゃねえか。
少なくともこの戦争が始まった時点からここにいたような奴を若者扱いする大らかさは俺にはない。多少見た目が若くてもさすがに限度がある。
……まあ、青春を奪われたという意味では、同情できなくも無いが。
荷物が全部カバンの中に入っていることを確認し終えた俺は、それをポイとベッドの横に置くと、再びヘッドボードに背中を預けた。
ボード、とはいうものの、簡易なベッドなので実質鉄柵であり、姿勢は楽でも肩甲骨に食い込んできて正直少し痛い。だが、このベッドももう今日で最後かと思うと、この冷えた金属の感触が心地よかった。
そうして、なんとなくセンチな気分になってくると、自然、人間というのは「これから」について気になってくるもので。
「……なあ、看護婦さん。アンタも、数日後に事後処理を終え次第帰るんだろ? そしたら、あっちで何するつもりなんだ?」
なんて、そんなことを尋ねていた。
看護婦はその言葉に一瞬困惑した様子を見せる。だが、直ぐにただの世間話だと悟ったのか、肩の力を抜いて、そうですね、と呟いた。
「今のところは、通常の病院勤務に戻ろうかと思ってます。まあ、この歳の看護師を今から雇ってくれる病院があるか分かりませんが……これでもここの看護婦長でしたので、それなりに腕はあるつもりです。あまり場所に拘らなければ、すぐに職場も見つかるでしょう。────それで、貴方は?」
当たり障りのない答えの後の、まあ来るだろうな、とわかっていた当然の疑問。
私はこう。ではあなたは?
小学生でもできそうな会話に対して、俺は。
「……それなんだよなぁ〜」
などという、何とも気の抜けた答えを返した。
看護婦も、「はあ?」と言いたげに片眉を上げている。
だが、これはふざけているのでは無い。実際、全く無いのだ。将来の展望とかそういうものが、何一つ。
だからこそ看護婦の話を少しでも参考にしようかと思ってこの質問をしたのだが、案の定何の参考にもならなかった。
どーすっかね、と俺は投げやりにぼやく。
「元々さ、軍人になったのも俺の意思じゃなくて、いつまでも働かずにフラフラしてるんじゃ無い、って両親に強制的に入軍させられたからなんだよ。国のために戦ってるってなれば、取り敢えず体裁は良いから、って。……でも、その結果がこれじゃん」
「まあ、終戦後に片付けていた銃の誤発砲で自爆して全治3ヶ月ですからね(笑)」
「言うなあーー!!! 俺も恥ずかしいんだ!! 未だにあの時の上官の『マジ?』って顔が忘れらんねえんだよぉぉ!!」
くそう、なぜあの時の俺は筋肉マウントを取るためなんてくだらん理由でライフル抱え持ちなどというふざけたことをしてしまったんだ……後悔先に立たずとはこのことである。
「オホホ、愉快ですわ」
「笑い事じゃねぇよ〜! 何の活躍してないのにクソみたいな理由で怪我だけはしてくるとか、俺マジで勘当されちまうってぇ!」
働くあてもないのによぉ〜……と俺が頭を抱えている横で、腹を抱えて笑う看護婦。
人の人生がかかってるってこの状況で抱腹絶倒とか、この女ほんとに看護婦なんだろうか? もうこれ白衣の天使じゃなくて白い悪魔だろ。
ここは一度今までの恨みを込めて全力で抗議してやろうか、とも思った。しかし、いくら恨みつらみを述べたてたところで、彼女の笑いの炎はさらにすさまじく燃えるだけ。それが分かっているので、俺はその思考を捨て、正面の薬品カートでも眺めておとなしくしていることにした。
……うーん、カラフルな瓶が並んでるけど、全然何が何やらわからん。所詮これが軍人一年目の限界か。
と、そうしてしばらくして、看護婦はひとしきり笑った後にやっと多少の冷静さを取り戻すと──とは言っても、まだ半笑いではあったが───目尻の涙をそっとぬぐって。
「まあ、でも、きっと貴方は大丈夫ですよ。まだまだ若いですし、なにより──そう、なにより。貴方からは匂いがしませんからね」
「……匂い?」
意味が分からな過ぎて、思わず聞き返してしまう。
匂いと将来の話に、いったい何の関連があるというのだろう。
俺は鼻をつまんだブルジョワのおじさんにボコボコにされて会社から追い出される彼女を想像して、そんなわけないよな、と首をひねった。
だが、特に考えなく聞き返した質問であったが、看護婦からすると結構重い質問であったらしい。彼女はすっと目を細めると、まるで何か、古いものを思い出すかのような遠い目をした表情で話し始めた。
「ええ。匂い──血と、硝煙の匂いです。ここに長く居た人間に染みついて離れない、無下の『悪臭』。……呪い、といってもいいかもしれません。終わりの見えない泥沼の中、自身が女であることも忘れ、手が血に塗れるのも気にせずに走り回り、うめき声と発砲音に毎日身を震わせて、昨日隣で一緒に食事をした人が、次の日には冷たくなっている。そんな日々を続けて、24年経ちました。私ももう、すっかりおばさんです。昔の私に戻ることは、きっともうかなわないのでしょう。全てを忘れるには……いえ、忘れられるには、あまりに私は匂いすぎる。
……確か貴方は、ここに配属されてすぐ終戦が決まったせいで、一度も戦場には出ていないのでしたね。それはたぶん、とてつもない幸運ですよ。正直、羨ましいくらいです。あの地獄を味わうことなく、この場所を離れられるのですから。それで、貴方は若いから、きっとすぐに今日のことを忘れて、『匂い』のない日常に戻ってしまう。──本当に、羨ましい限りです」
そうこぼした彼女の表情は、ここで数ヶ月共に過ごした「あの」看護婦と同一人物とは思えないほどに儚くて。
窓から差した陽の光と、それにキラキラと反射するチリが作る独特な雰囲気も相まって、俺は何と声をかけるべきなのか、完全に計りかねていた。
───ただ、それでも、胸の奥から湧き上がってきた思いが、一つある。
彼女の言う通り、自分は戦争を知らない、ただの自堕落な青年だけれど。
日々を適当に行き、この後もなんだかんだ普通に暮らせるだろうとたかを括っている馬鹿者だけれど。
長々と語った彼女の言葉を、完全に理解できたとは、とても思えないけれど。
でも、これだけは、言ってあげないと、と思ったから。
少し気まずそうに、遠慮がちに、でも真っ直ぐに、目を向けて。
「────いや別に、アンタ血と硝煙の匂いとかしないけど? どっちかというと今は薬品と消毒の匂いだろ。ばっかだなー」
「……」
「………」
「…………」
「………………」
「…………………………………………………ふっ」
長い沈黙を破ったのは、看護婦から漏れた小さな笑い声。
そして、そっと綻ばせた表情は、今度こそ、間違いなく天使らしい穏やかなそれで。
彼女は、そのまま打ち解けた様な声色で、俺の方を見て、言った。
「ごめん。やっぱり貴方じゃ無理かも。馬鹿すぎて」
「えぇーーーー!!!!!」
間違ってるとこ訂正しただけなのに何でぇ!?!?
ひどぉい!!!!!!
◇
迎えの車は、定刻通りに現れた。
平野の地平の向こうからゆっくりと近づいてきたそれは、病院の入り口で待っていた俺と、それから同じく今日帰る予定になっている数名の軍人や看護婦の前で、ザリ、と地面を擦る音と共に止まる。
運転手は、俺より少し上くらいだろうか。見るからに生真面目そうな青年で、着ている軍服はシワひとつない。
その見た目から受ける利発な印象と、その後ろでエンジンを鳴らす無骨な装甲車が、何ともミスマッチだった。
「────これで本当に、お別れですね」
「……ん?」
運転手に荷物を渡し、積み入れの作業をぼーっとしていた俺に、ふと、背後から話しかけてきた声があった。
振り返れば、あの看護師が日の光に降られて立っている。どうやら別れの挨拶に来てくれたようだ。
だが、白衣もなければ髪も結ばれておらず、見た目は大分ラフなものになっていた。患者がいなくなったことで半ばお休み気分、ということだろうか。
軍人として仕事中の彼女としか接してこなかったので、なんだかとても新鮮だった。
「……ん。ああ、まあ、アンタも達者でな。早く仕事が見つかってアンタが元の生活に戻れるよう祈っとくぜ」
「はい、どうもありが……って、仕事に困ってるのは貴方の方でしょう。貴方こそ、いつまでも親御さんにご迷惑をおかけするんじゃありません」
「うっ……」
こっちも何か挨拶しとくか、と軽い気持ちで冗談を言ったら、普通に痛い指摘が飛んできた。最後まで手厳しい人である。
ここでまともに話すと自分が言い負かされるな、と直感したので、俺はわははそりゃそうだ、と、適当に笑って誤魔化しておいた。
まあ、彼女も誤魔化されたのに気づいたのか、はあ、とため息をついて頭を押さえていたが。
───ふと、車の方から、あの運転手の青年の「そろそろお乗りください」と言う声が聞こえてくる。
どうやら、出発の準備が終わったらしい。この場所とも、そろそろ本当にお別れのようだ。
看護婦もそれを察したのか、先ほどまで喋っていた場所から一歩身を引く。それにより病院の影が彼女にかかり、それが日向にいる俺との線引きとなった。
それから彼女は、まっすぐに、綺麗なお辞儀を披露する。
「ご退院、おめでとうございます。────長い間、お疲れ様でした」
それは、春の新芽のような、柔らかい声。
そこにはきっと、新参の俺には及びもつかないような万感がこもっているはずで。ほんの3ヶ月に「長い間」なんて言葉を使ったのも、きっとそういうことなのだろう。
ただ、それに応えるだけの配慮などは俺にはないから、俺はただ普通に笑って。
「ああ。また、どこかで」
なんて、次なんて期待してもいないくせに、もしもがあったら恥ずかしいからというだけの理由で、適当なことを言っただけだった。
それから、俺は車の方に振り向いて、看護師の方はもう見ることもない。
運転手の青年にそれじゃよろしく、と声をかけて、お任せください、と返ってくるのを耳にして。ヨイショと車に乗り込めば、足裏の感触から体重で入り口の足場がグニャとへこんだのがわかる。
そして席に座ってしばらく待てば、すぐに車は出発した。
騒がしいエンジンの音が、車内に反響してより一層耳に障る。これをあと数時間かぁ、と思うと、何となく憂鬱な気分にさせられる。
俺はその思いから逃れるために、何か癒しを求めて装甲を外された小さな窓から外の景色を覗いた。
そこに広がっていたのは、人っ子一人いない大自然。
太陽の元に照り映える草花。快晴の空を貫く遠方の山脈。風にそよいで葉を揺らし、車内なのに音まで聞こえてきそうな背の高い木々。
その美しい景色だけを見れば、つい最近までそこで大勢が殺し合いをしていた、なんてとても思えない。
だから、人間の行動も、記憶も、結局全てはちっぽけで。
気にするだけ無駄なことなんだろうな、と、俺は、柄にもなく格好つけたことを考えていた。
やり直しは聞く、と言う話です。
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