(交錯)13
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長尾景虎は越中を代官・宇佐美定満に任せて居城に帰還した。
すると城も城下町も戦勝と領土獲得で興奮状態であった。
これまでは敵に勝っても寸土も得なかったのが、今回は丸ごと奪った。
それも最小の被害で。
景虎の様変わりを訝る者より、素直に喜ぶ者の方が多かった。
そんな者達を見て景虎は苦笑いするが、多くは語らない。
勿論、論功行賞は忘れない。
居館の大広間に家臣一同を集めて従軍した者達を褒め、
士卒の端々まで然るべき物を与えた。
感状から、領地加増や褒賞金だけでなく、名刀や陶磁器の類まで、
豊かな越後の国だけに与える物には事欠かない。
一通り済むと女中達が酒と肴を運んで来た。
景虎は皆に言い渡した。
「今日は潰れるまで飲んでも構わん。
次の戦も近い、この機会に飲み溜めをしておけ」
一斉に声が上がった。
「えいえい、おー」
景虎は苦笑いした。
「お前ら、それでは鬨の声ではないか、どこを攻めるつもりだ」
近くにいた柿崎景家が応じた。
「大吟醸でござる」
人一倍飲んでいる景虎の傍に柿崎景家が膝を進めた。
小声で問う。
「お館様、聞き忘れておりましたが、明智家との交渉は如何なりました」
景虎は全く酔っていない。
大虎にはなりそうにない。
「一つ目。
国境は旧来のままと言う事で合意した。
二つ目。
一向一揆は、互いに力を合わせ、磨り潰すことで、これまた合意した。
三つ目。
話し合いは順調だ。
詳細を双方の取次役方で詰めている、それで良いな」
「それを聞いて安心しました。
これで遠慮なく武田や北条を叩けますな」
景虎は柿崎を見て、笑みを浮かべ、深く頷いた。
それで柿崎は喜んだ。
「それは楽しみですな、腕が鳴ります」
そこへ甘粕景持が割り込んで来た。
少し酔いが回っていた。
「内緒話ですかな」
柿崎景家は甘粕の肩に手を置いた。
「お主の噂をしていたのよ」
「ほう、どのような」
「いい男だとな」
「ぬかせ、煽て上げても何も出さんぞ」
甘粕は柿崎の手を外し、景虎に尋ねた。
「ところでお館様、今川が上洛すると聞きました。
もう兵は出したのですかな」
景虎は丼の酒を飲み干した。
「はっきりとは知らぬが、そろそろかな」
「今川殿は街道一の弓取り、織田で止められますかな」
「兵力差からすると、織田では難しい」
「だとすると何らかの手立てが必要ですな」
越後は景虎の次の関東出兵で沸いていた。
士卒も民も、誰もが勝利を信じて疑わない。
そんな中でも景虎は冷静に兵糧を買い集め、足軽を銭雇いした。
装備もふんだんにある。
万全の態勢で出兵できると、ほくそ笑んだ。
表が活発なだけではない。
裏方の越後忍びも忙しい。
侵攻路を下調べする傍ら、侵攻路沿いの有力者の内情も探った。
北条に臣従していても、場合によっては勝ち馬に乗る傾向があるのだ。
自家の存続の為には泥水を啜るのも厭わない関東武士。
それを露骨に体現する者が多いだけに、完全な信用は置けない。
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北条氏康は兵を率いて上野に向かっていた。
上野の去就定まらぬ者達を誅する為だ。
が、それは表向きの理由。
実際は今川家の要請で長尾景虎の牽制を行う。
武田が明智家牽制の為、場合によっては美濃奥深くへ侵攻するので、
その間、景虎を引き摺りまわして欲しい、と願ってもない要請だった。
しかもその期間の兵糧もくれると言う。
それが先払いで送られて来た。
断れる訳がない。
兵糧に不安がないので嫡男・氏政を上総へ向かわせた。
里見家を追い払い、ついでに上総をも掌中の物とせよと命じた。
二つも獲れるとは思わないが、余裕で一つは獲れる、そう計算していた。
今川が尾張を獲り、武田が美濃を獲る。
そして北条は上総を獲る。
三方よし。
氏康は期待に胸を膨らませながら厩橋城に向かった。