(交錯)11
☆
武田信玄は北信濃への侵攻の途次にあった。
野営を嫌い、社寺に泊まった。
その夜、庭先に気配を感じた。
刺客ではない。
身辺には常に側仕えと甲州忍びが配されているので、その懸念はない。
彼等が通したと言うことは、それ相応の者で、
緊急の知らせを持って来た者、且つ、表から入れない者。
一人しか顔が思い浮かばない。
扱い難い奴だが、得難い奴。
「入るがよい」
「かしこまりました」
やはり飛加藤の声だ。
音も立てずに廊下に上がり、部屋にすいと入って来た。
敷居の近くに平伏した。
「お久しぶりでございます」
「おう、久しいな。
もっと近くへ寄れ。
大声で話す内容ではないのだろう」
飛加藤はススッと膝を進めるが、一定以上は前には出ない。
斬撃を警戒していると分かった。
思わず信玄は漏らした。
「相も変わらず用心深いな」
飛加藤は無表情。
「生まれつきの小心者でして」
飛加藤。
どこの忍びかは判然としないが、名は広く知られていた。
一般にではない。
忍び仲間や金持ちの大名武将等にだ。
彼等にとって有益な情報を売り歩くからだ。
その情報の正確さは、とても一人働きで得られる物ではない。
多くの配下を抱えていると見ても差し支えないだろう。
信玄は尋ねた。
「北信の情報か」
「いいえ、それはもうお持ちでしょう。
信玄公が手ぶらで出兵されるとは、とても思えません」
信玄は嬉しそうに言う。
「そうは言うがな、ワシとて万全ではない。
万全を期しておるが、いつもいつも、どこかしらに穴がある」
「我等は神に非ずして、ただの人ですから、それも無理からぬことかと」
信玄は戯言を楽しみつつ、本題に入った。
「お主も暇ではなかろう。
今宵の売り物はなんじゃ」
飛加藤はチラリと奥の襖を見た。
それに信玄が応じた。
「他の者達もお主をある程度信用している、が、深くは信用していない。
そう言うことだ、いない者と思ってくれ」
飛加藤はコクリと頷いた。
「越後、越中、長尾、椎名、神保」
信玄にとっては面白い話ではない。
「越後の景虎が越中に攻め込んだ話か。
神保を追い詰めたものの、能登の畠山が仲介に入ったのだろう」
「その先は・・・」
「まだ入って来ない」
「この先も入ってこないでしょうな」
信玄は奴の言葉を反芻した。
色々な意味に取れる。
飛加藤は無表情を貫いた。
「某は何もしていない。
長尾景虎が先の上洛で甲賀より新規の忍びを大漁に雇い入れ、
軒猿を増やした。
その軒猿が越中と北信の国境を固めている。
甲州忍びはその網に引っ掛かったようだな」
軒猿。
長尾景虎配下の越後忍びの一つ。
長尾景虎の上洛は耳にしていた。
それが甲賀とは・・・。
明智家との抗争で甲賀を領内に持つ六角家の力が落ちた。
その影響が甲賀にも現れたのだろう。
でなければ大量の雇用は有り得ない。
その増えた軒猿が振り向けられるは、誰が考えても信玄しかいない。
「買おう」
飛加藤の表情が崩れた。
「お買い上げ有難う御座います。
それでお支払いは・・・」商人の顔になった。
「戦だ、余分な砂金はない。
そこでだ、京の三ツ橋屋は知っておるよな」
「ええ、存じております」
「一筆書く、それで良いか」
「勿論ですとも」
「では聞かせて貰おうか」
飛加藤は姿勢を正して越中の一連を騒ぎを詳細に語った。
聞かされる信玄はウムウムと唸りつ、時折質問し、
納得すると説明を続行させた。
お陰で長い時間がかけられた。
飛加藤の説明が終えても信玄は口を開かない。
腕組みして沈思黙考。
「長尾景虎に何かあったのか」
「何かとは・・・」
「以前とは違う動きだ。
上洛する前は戦場では果断であったが、政は至って凡人、
出奔するほどに無能だったとも言える。
それを周りが支えていたから、なんとか成っていた。
しかし、此度の越中の仕置きを見ると、政にも果断になった。
なにがあった、お主はどう思う」