(交錯)10
北条氏康の執務室に氏政が客を連れて来た。
今川からの使者・庵原忠縁だ。
面識があるので挨拶は手短に済ませた。
氏政が今川からの書状を差し出した。
「これを」
読み進めながら、つらつらと考えた。
流石は仏門上がりの義元、字が美しい。
加えて黒衣の宰相・雪斎の薫陶か、文章も分かり易い。
書状の中身は難しい依頼ではない。
氏康は顔を上げて庵原忠縁を見た。
「毎年やっている事だ。
これで良いのだな」
「はい、某もそう聞かされております。
今年も休みなく、やって頂けたら助かります」
「分かった、今年はワシが行こう。
ところで援軍は要らぬのか」
「はい、そこまでのご迷惑は掛けぬ、そうも聞かされております」
「そうは言うが、織田家が明智家と縁組したそうだ。
今川が来るとなれば、世の習いで、明智が織田に援軍を送るだろう。
その辺りはどうするつもりだ」
庵原忠縁が生真面目な顔で答えた。
「織田が尾張全土を統一した訳では御座いません。
ただ織田家を一つにしたのみ。
尾張国内には織田に従わぬ者共も多くおります。
その辺りの手抜かりは御座いません」
そこまで断言されては聞き入れるしかない。
氏政が庵原忠縁を連れて退出した。
それと入れ違いで北条幻庵が入って来た。
叔父である。
幻庵が氏康に尋ねた。
「あれは今川の使いか」
「ええ、庵原です」
「雪斎の一族か、それが何用だ」
氏康は文机の上の今川からの書状を差し出した。
一読して幻庵が微妙な笑みを浮かべた。
「面妖な、これと同じ物を武田にも届けているのか」
「はい、そう申しておりました」
「難しい注文ではないが、そう上手く行くものかな。
まあ、相手もいい大人、言っても聞かんだろう。
・・・。
ところでな氏康殿、都からの知らせが届いた」
☆
☆
年が明けると世間に様々な噂が飛び交った。
「今川様が年頭に尾張国平定を口にされた」
「武田様が年頭に信濃国平定を口にされた」
「北条様が年頭に関東平定を口にされた」
噂は直ぐに現実味を帯びてきた。
それぞれの領内で武具の値段が上がり始めた。
引き摺られるようにして戦馬や米が高騰した。
各村々には賦役として徴用する人数が通達された。
こうなると三家に敵対している諸家は安楽とはしていられない。
対抗策として地縁血縁の伝手で味方を募り始めた。
真っ先に動いたのは意外にも越後の長尾景虎であった。
越中国の椎名家よりの救援依頼を受けてのこと。
敵は神保長職。
居城は富山城。
椎名と神保の両者は対立して小競り合いを繰り返していた。
それを景虎が幾度となく仲裁していたのだが、
ついに本格的な干戈を交えるまでに発展した。
そこで景虎は椎名側に立つことにした。
自ら軍勢を率いて越中に攻め入り、迎え撃つ神保軍を撃退。
勢いに任せて居城・富山城をも攻略し、逃げ込んだ増山城を包囲した。
能登国守護・畠山氏が仲介に入った。
勿論、当人ではなく重臣が長尾軍の本陣を訪れ、神保を擁護した。
「これ以上の争いは越中の民を苦しめるだけ。
この辺りで矛を収めて如何で御座ろう」
景虎は無表情。
少し考え、目を細め、ジッと仲介者を見た。
「あの神保長職は度々申し合わせを破っておる。
次に破ったら如何される」
「それは・・・」
「さあ、如何される」
「・・・」
「畠山殿の手元に預かって頂くのはどうかな。
神保が再び越中の地を踏む事あらば、その責は畠山殿にあり。
それで如何で御座ろう」
「それは幾ら何でも・・・」
「何の覚悟もないのに仲介されるのか」
「一度立ち戻り、主に相談いたします」
「そうか、お好きになされ」
仲介者がキッと景虎を見た。
「戻るまで神保を攻めてはなりませんぞ」
景虎は睨み返した。
「お主、ワシに命ずるのか。
よくよく立場を考えた方がいいぞ」
陣幕内の武将達が立ち上がり、
刀の柄に手をかけて仲介者を威嚇した。
仲介者が青い顔で立ち去ると、柿崎景家が景虎に尋ねた。
「奴の帰りを待ちますか」
「いや、待つほど暇ではない。
明日攻め落とす、準備して置け」
景家が顔を綻ばせた。
「それでは先陣は某に」
「任せた」景虎は武将達を見回して続けた。
「せっかくだから神保の領地は取り上げる。
神保に組した連中の領地もだ。
全て我等の物とする。
そのつもりで働くように」
「椎名殿には・・・」
「あれに預けたら、また越中が荒れる」
☆