(波紋)2
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甲斐の国、躑躅ヶ崎館。
武田晴信は出家した。
閻魔帳を憚って名を信玄としたが、業は深かった。
権力の座に就いたまま、大広間に主立った家臣を集めた。
「一同の者、都の騒ぎは耳にしているだろう。
色々言われていて、どれが真か分からぬと思う。
そこで、この者を都より呼び寄せた」
小姓に案内されて一人の商人が入って来た。
下座に腰を下ろし、両手をついて深々と頭を下げた。
その者に信玄が声をかけた。
「都にて甲斐の為に働いておる。
三ツ橋屋の徳兵衛と申す。
のう、徳兵衛、儲かっておるか」
徳兵衛は顔を上げない。
下の者らしく、伏せたままで応じた。
「いいえ、ほどほどです」落ち着いた声。
「そうか、儲かっておっても正直には言えぬわな。
それはワシが悪かった」
「いいえ、いいえ、お館様には儲けさせて頂いております」
「ワシから儲けるのは構わん。
相応の働きはして貰っておるからな。
ところで、他に取引しているのは誰だ」
「奉公衆の方々や、管領様の御家来衆です」
「そうか、商売繁盛でなによりだ。
伊勢家とはどうだ」
「渋いですな」
「三好家は・・・」
「このところ散財なさってますが、お家が傾く事はないでしょう」
「公家衆は如何だ」
「切りたいのですが、お館様の申し付けですので、
細々と銭で繋いでおります」
前振りは終えた。
信玄は真剣な顔になった。
「皆に順序立てて説明してくれ」
「どの辺りからにいたしますか」
「長くなるかも知れんが、明智家との確執からだ。
その姿勢では苦しいだろうから、面を上げても良い。
ワシに気楽に喋っていたようにな」
「承知いたしました」
商人が顔を上げて皆を見回した。
大広間にいる大半の者達よりも鋭い目。
鷹が獲物を求める目色をしていた。
でも、それは一瞬。
直ぐに変化させた。
真反対の穏やかな目色で語りかけた。
喋りは商人そのものだが、そこに衒いや虚実はない。
耳にした話、目にした事実、それらを淡々と述べただけ。
自分なりの解釈も入れない。
判断は聞いた者に譲る語り口。
途中、信玄の指示で運ばれた温いお茶で何度か口を潤すが、
口調は最後まで緩まない。
聞かされた方は堪らない。
甲斐に出回っている噂とは、だいぶ食い違いがある。
極悪非道の明智家・・・。
公明正大な公方様・・・。
そして先代の武田信虎の遣り口・・・。
互いを顔を見合わせ、小声で言葉を交わす。
三ツ橋屋徳兵衛がお茶菓子に手を伸ばした。
それを見た信玄は笑みを浮かべた。
「どうだ、その菓子は」
徳兵衛はお茶で流し込む。
「けっこうですな。
都から職人を呼び寄せられたのですか」
「ほう、分かるか。
その通りだ。
ぽっとでの明智家には負けてはおれん。
当家も職工を招くことにした」
「それは宜しいですな」
信玄は表情を改めた。
「菓子はそれでいい。
・・・。
幕府はどうなると思う。
都人として話してくれ」
「痛いのは三好家の離反ですな。
大きな柱が欠けてしまいました。
埋めようにも近在に力のある大名がおりません。
こればかりは・・・」
「ほう、すると権力は管領家と伊勢家か」
「はい、次の問題は誰が後継者になるか、ですな」
「誰だと思う」
「常識的には義輝様のご舎弟様でしょう。
覚慶様か周嵩様。
まさかとは思いますが、阿波公方様の目も・・・。
そうなると、また騒ぎになりますな」
「武田家も源氏の血筋だ、どう思う」
「今の足利よりも相応しいと思います。
が、途上に明智家があります」
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