(包囲網)16
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武田義統は馬に激しく鞭をくれた。
それで早くなるわけではないが、気が急いた。
背後に明智家の騎馬隊が迫っていた。
敵の先頭とは馬身で三つほど。
矢は飛んで来ないが、声は飛んで来た。
「待ちやがれ」
義統の家来は五騎にまで減っていた。
その五騎だが、道案内として先を走っていた。
気が付いているのか、いないのか、義統を振り返る素振りは一つもない。
徒士の者達は戦場に全て置き去りにした。
自分さえ助かれば武田家も救われる、そう信じていた。
ところが後ろに従っていた者達は全て倒された。
もう義統の盾になってくれる者はいない。
このままでは若狭武田家の存続が危うい。
まさか義兄・足利義輝が破れるとは思わなかった。
六角勢の大軍に守られて安泰だった筈だ。
それがこうも易々と討ち取られ、壊滅の憂き目に遭うとは。
誤算続きだ。
敵騎馬の蹄が刻々と接近して来た。
鼓動が早まり、息が詰まりそうになった。
耳元で声が聞こえた。
「貰った」
背中に強烈な一撃を喰らった。
☆
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公方が執務する建物は、別名、花の御所と呼ばれていた。
その花の御所に三好長慶が入ると、松永久秀が出迎えた。
「お待ち申しておりました」
「様子は如何だ」
「どうもこうもありません。
相手方の使者は女子です」
公方から近江の戦況は花の御所には全く知らされなかった。
それはそうだ。
幕政に関わる知らせは公方の下に集められるもの。
公方から知らせるものではない。
公方が前線にいるものだから、報告はそこで止まってしまった。
誰も花の御所には知らせなかった。
現地とは切り離された状態にあった。
そこへ一昨日、戦場から知らせが届けられた。
公方やその側近からではなく、敵の明智家からであった。
明智家が公方の近習を捕らえ、それに書状を持たせて帰したのだ。
書状を読み、帰って来た近習を問い詰め、全てが明らかになった。
公方様お討ち死に。
ついては、その遺体の処遇に関して明智家から使者が来ると言う。
大広間に幕政に関わる評定衆が顔を揃えていた。
それでも緊急に集められたので欠員が多い。
欠員の多くは遠隔地にいるか、戦場に留まっているか、戦死したか、
その何れかであろう。
大広間の上座は当然、空席。
上座から見て左側に評定衆が居並んでいた。
長慶と久秀もそちらに腰を下ろした。
座長役の伊勢貞孝が廊下に控えている若者に合図した。
若者は阿吽の呼吸で姿を消した。
暫くすると、三人を連れて戻って来た。
明智家からの使者と副使、合わせて三名であった。
使者は女子であった。
年の頃は四十前。
綺麗な所作で腰を下ろした。
副使の一人も女子、十四五。
もう一人の副使は男、三十前。
代表して使者が挨拶した。
「初めてお目にかかります。
明智家にて奥取締役方に任じられているお園と申します。
この度は私に全権が委ねられております」
軽く会釈した。
伊勢貞孝が鷹揚に頷いた。
「某が政所の執事の伊勢貞孝じゃ、よしなにな」
「伊勢貞孝様ですね。
こちらこそ、よしなに」
「それで公方様の遺体はいつ戻して貰えるのじゃ」
「それにつきましては、あれを」
お園の目配せで、男の副使が懐から一通の書状を取り出した。
それを手前に差し出した。
先の若侍が急ぎ膝を進めて受け取り、伊勢貞孝に渡した。
開いて読む伊勢貞孝の表情が厳しくなった。
読み進めながら、使者の顔をもチラと読みつ、また書状に目を落とす、
何やら忙し気、焦っているのか。
暫し長考し、顔を左に向けた。
三好長慶を手招きした。
長慶は無言で膝を進めた。
貞孝が何も言わずに書状を手渡した。
再び腕を組んで、思考に入る貞孝。
長慶は書状を読み進めた。
見慣れぬ文字が多い。
個人被害額、村被害額、領地被害額、賠償金。
それらの説明と、羅列された数字。
そして最後に公方様の引き渡し金額。
初めて見る書式・・・。
どうやら公方様の遺体は買い戻さねばならぬらしい。
同時に請求された金額支払いも求められている。
もしや、これは商取引の一種なのか。