(新時代)1
二人とその側近達しかいない場なのだが、
岩成友通が小声で安宅冬康に勧めた。
「城内の動きがきな臭くなりました。
そろそろ淡路へ戻られた方が宜しいかと存ずるが」
彼だけでなく居合わせた者達も同じ気持ちらしい。
皆が頷いた。
それに冬康は苦笑いで応じた。
「あの者共に後ろを見せろと」
「お気持ちは分かります。
ただ、兵は拙速を尊ぶとも申します。
何事も起きぬうちに去られる事をお勧めします。
翌早朝にでも」
「それは好かんな、逃げるようで好かん」
冬康の側仕えの一人が言う。
「おそれながら申し上げます。
お馬廻衆であれば、今直ぐ発てます」
友通が同意した。
「それが良いですな。
騎馬のみであれば何があっても動き易い。
襲撃されれば相手せず、分散して逃げれば宜しかろう」
重ねて少数精鋭で淡路へ引き揚げろと勧めた。
冬康は迷った。
「分かるが、逃げるのはどうもな・・・」
名を惜しんだ。
しかし冬康本人の考えはどうあれ、
周辺の状況から引き揚げざるを得なくなった。
明智領へ攻め込む四方面、大和口、山城口、丹波口、丹後口、
それぞれを受け持っていた官軍が殲滅の憂き目に遭ったからだ。
加えて容赦なく辺り一帯が大きく焼き払われた。
殊に山城口の火の手が都へ及ぼうとした影響は大きい。
官軍の体たらくを都雀が大いに嘆いた。
これにより険しくなった飯盛山城の空気も、
より一層険悪なものへと変じた。
冬康は、都へ出していた淡路衆を飯盛山城へ戻した。
これにより飯盛山城に留め置いていた淡路衆と合わせると、
その兵力は二千余。
この兵力で堺へ赴き、少数で海路淡路へ戻るつもりでいた。
海は淡路水軍衆の得意とするところ。
明智家が手出しできるとは思えなかった。
臥している三好長慶に代わり、嫡男の慶興が見送りに出た。
「叔父貴殿、父が大変お世話になりました」
深々と頭を下げる甥っ子に冬康は無表情で返した。
「ああ、こちらこそ邪魔したな」
双方共に視線に色を表さない。
二千余、数にすれば少ないかも知れないが、
街道を埋め尽くすには十分過ぎた。
物見、先鋒、第二軍、本隊、小荷駄隊、殿軍。
それぞれが適度な間隔で、渋滞せぬように続いた。
そして慎重にして、行く手に伏兵を置ける場所と見るや、
弓隊に命じて矢を射込ませる厳重な警戒振り。
堺まで短距離移動なので、慌てず騒がずで行軍して行く。
と、二日目、隊列後方で銃撃音が重なり鳴り響いた。
小荷駄隊に撃ち込まれたのだ。
徒士の組頭を装っていた安宅冬康を蜂の巣にした。
☆
私は何時ものように小谷城の薬草園にいた。
朝から土を耕していた。
薬草が育ちますように、薬草が育ちますように、と祈りながら畝をうねうね。
薬草は難しい。
土地が豊かであれば良いというものではない。
乾燥した地を好むもの、風が強い地を好むもの、湿地を好むもの、
日陰を好むもの、寒地を好むもの、とそれぞれなのだ。
だから、悲しいかな、この薬草園で育たぬ種もある。
私を呼ぶ声が聞こえた。
お腹を大きくしたお市が上がって来た。
「光国様、皆様方がお集まりだがやよ」
お付きの侍女達の顔色が悪い。
彼女を案じて気が休まらないのだろう。
私はお市の手を取った。
「大丈夫か、疲れないか」
「大丈夫だがや。
ちいとは身体を動かさと、かえって身体に障りようるとよ」
「さあ、一緒に居館に戻るか」
私はお市の手を引き、背中に手を当て、薬草園を後にした。
居館の大広間には大勢の文武官の顔があった。
官軍との戦いが終了したので、一部を備えに残し、
大部分が小谷に集まっていた。
「御大将のお成りです」
お屋形様呼びはなく、正式に御大将となった。
大人衆筆頭の伊東康介から始まった。
「お味方の大勝利おめでとうございます」
これに一同が声を合わせた。
大広間が揺れた。
いやいや、私は薬草園の世話をしていただけ。
「皆もよくやってくれた。
これで畿内との争いは当分ないだろう」
大人衆次席の武田観見が口を開いた。
「当分ですか」
「人は愚かだから、直ぐに忘れる。
あるいは、負けた原因を他人に転嫁し、自分は負けていないと言う」