(西から迫る兵火)22
このところ、伊勢貞孝の名をよく聞くようになった。
朝廷との交渉で実利を得ているのもあるが、それよりも何よりも、
最大なのは幕府奉公衆の立て直しではなかろうか。
三好家が音なしの構えに転じたのを幸い、
度重なる将軍の不手際で散り散りになった彼等を再招集した。
勿論、伊勢一人の力ではない。
後ろ盾の尼子晴久の力添えも大きい。
何せ、潤沢な資金を提供してくれたのだ。
奉公衆が数を増すとそれは都の治安維持に繋がった。
それで増々、伊勢が一目置かれる様になった。
そこへ再び、尼子の兵力の増強。
山陽山陰の田植えを終えたので、呼び寄せた。
目的は当然、将軍宣下。
管領就任で片翼を得たが、それでは上洛の意味がない。
両翼を得てこその面目躍如。
兵力増強でそこまで都に踏み止まる態勢を整えた。
伊勢は尼子と相諮って管領の持ち場を定めた。
畠山氏を河内守護にも任じ、三好氏を監視させた。
斯波氏を丹波守護にも任じ、明智家を監視させた。
細川氏を丹後守護に任じ、遠隔地の大名との折衝を任せた。
違ったのは尼子氏。
自由裁量が正式に認められ、誰にも縛られる事がなくなった。
これは偏に、投入した銭金の威力だろう。
将軍宣下が急遽決まった。
それも一ヶ月後。
本来であれば準備に費やす期間が、少なくとも半年は必要なのだ。
特に、足利家との誼の深いお歴々を招き、見届けて貰う。
見届け人になって貰うと同時に味方に引き込む。
その為には、事前に書状の遣り取りが必須なのだ。
都だけでなく、通行する街道の大名との折衝とか、・・・。
足利覚慶の我儘で、全てが無に帰した。
待ち切れなかったらしい。
これには尼子晴久もお手上げだったらしい。
そう漏れ聞こえた。
兎にも角にも、忙しない事になった。
都から各所へ使者が多数走った。
出欠の確認ではなく、宣下の知らせに重きが置かれた。
早い話が、新しい将軍が擁立されますよ。
それは覚慶様ですよ、とのお知らせ。
そして、暗に、列席せずとも祝いの品を送ってくれとの催促。
諸々の事情を掻い摘んで説明してくれた猪鹿熊久の顔色が冴えない。
私は好奇心丸出しで尋ねた。
「人手が足りなくなったのか」
「ええ、西に東に使者ですからね。
それら全てに目を通すだけで手一杯です。
流石にこれには疲れました」
「裏取りは」
「先代に任せています」
最近、猪鹿の爺さんの足が遠のいていた。
遂に、その悠々自適のご隠居様まで狩り出されたのか。
可哀想に。
でもまあ、ボケ防止にはなるか。
側仕えの土方敏三郎が熊久に尋ねた。
「怪しい点は」
「まだ精査中です」
お茶を淹れていた猪鹿蝶が何気なく言う。
「将軍宣下は隠れ蓑ですか」
相手の首魁は二人。
山陽山陰の巨魁・尼子晴久。
畿内で辣腕を振るう老獪な伊勢貞孝。
煮ても焼いても食えぬ二人。
将軍宣下だけで終わらないかも知れない。
土方が頷いた。
「尼子勢が十万を超えたそうではないか。
この所、夜盗や不逞の輩も少なくなったと聞いた。
都の警備にしては多過ぎるな」
熊久が天井を見上げた。
「その十万の、本当の使いどころですな。
となると、三好家。
当主の長慶様は床に臥したままだそうです。
今なら狙い目です」
私は熊久に尋ねた。
「使者が向かった先で特に多いのはどこだ」
熊久が答えた。
「四国方面ですな」
使者は、四国の有力者を漏れなく訪れていた。
そうなると単に、将軍宣下とは別の思惑があっても不思議ではない。
「四国には足利家由縁の家が多いな」
土方が応じた。
「分家筋ですが、国人領主が多いですな。
もしかすると、三好攻めの際に、それらで持って四国勢の牽制ですか」
三好家の地盤は四国。
主力と言っても良い。
それを封じれば、畿内の三好家恐るに足らず。
私は熊久に尋ねた。
「三好家の状況は。
特に長慶殿とその兄弟間だが」
「十河一存殿病死、三好実休殿戦死、この弟二人の死が堪えています。
残ったのは安宅冬康殿お一人。
長老としてその重責を担っていますが、どこまでご嫡男を支えられるか」