(西から迫る兵火)13
私は猪鹿の爺さんに尋ねた。
「当家が流民を大切に扱っているのは知られているのだろう。
なのに、どうして当家へ逃れて来ないのだ」
爺さんは珈琲を一口飲み、ゆっくり答えた。
「最近はその手の噂を流すのを控えておりますのじゃ」
「どうして、私は聞いておらぬが」
「殿のお耳を憚って、内緒にしておりました」
私を除け者にしていたと平気で言う。
全く、うちの大人衆は。
私を何時まで子供扱いするのだろう。
これでも双子の親なんだけど。
「当然、訳があるんだよな」
「はい、ここ最近なのですが、
流民を装った忍びが屯田の村に入る様になりました。
当家には我等だけでなく、山窩衆、河原衆の目があり、
敵の忍びは仕事がし難いのです。
そこで連中が考えたのが、草です。
草として根を張らせる心積もりかと」
面倒臭い事になった。
私は単刀直入に尋ねた。
「もしかすると、すでに草が根を張っているとか」
爺さんがニコリとした。
「流石、殿ですな、話が早い。
それも想定しております」
「何らかの手を打ってるんだろうな」
「別の組に洗い直しをさせております」
当家の忍びは甲賀衆から始まった。
これに伊賀、根来、雑賀等から引き抜いた忍びや、抜け忍が加わった。
三河からの服部党は丸抱えだが、他は推して知るべし。
それらがかなりの数に膨れ上がったので、仲間でも顔を知らぬ者も多い。
その誰か達が洗い直しを命じられているのだろう。
爺さんは、それが誰の組なのか、私にも教えてくれない。
尼子が京洛では苦労していた。
各方面からの嘆願や要請に、人手と資金を振り分けたのだが、
それが尽きる事がないのだ。
今日までの幕政のツケを支払わされてるとも言えた。
そんな尼子の惨状を横目に私は私で、執務室に閉じ込められた。
山積みの書類が私を手招きしていた。
嬉しくはない。
それでもこれは私の職分。
決裁し、関係個所に通達せねば皆が困る。
飛騨や能登からの書類が多い。
特に問い合わせの文書だ。
敵対する勢力を駆逐したものの、
在地の者共の対処に苦慮しているのであろう。
そこで私は処理、処置、処分の三つに分けて説明し、各所に通達した。
それを終えたら、私は飛騨と能登の新たな体制を発表した。
柱は勤番。
飛騨は七番隊に任じた。
隊長は原源五郎だ。
元は美濃勤番の、一番隊の副隊長を恙なく務めたので、
問題なく務めてくれるだろう。
能登は八番隊に任じた。
隊長は吉田安兵衛だ。
彼もまた、加賀勤番の、三番隊の副隊長を務めた者。
これまでの経験を活かしてくれるだろう。
暑苦しい季節の中、暑苦しい知らせが届けられた。
まずは越後の長尾景虎殿から。
彼は策謀により、北越後の揚北衆を蜂起させた。
そして春日山城に誘引した。
これが見事、嵌った。
誘い出した軍勢を打ち破り、返す刀で西と南より北越後へ侵攻した。
勿論、全ての揚北衆が敵に回った訳ではない。
元々の味方や、内応した国人衆もいた。
それらと共に蜂起した揚北衆を完膚無きまで平らげた。
「光国殿、そなたも知ってるとは思うが、
そなたを真似て越中で屯田の村を広げた。
此度はそれを北越後でも行おうと思う。
ついては、そなたに所望したい。
祝い酒を送って欲しい」
書状の末尾にそう記されていた。
越後の完全な統一を祝う気持ちはあった。
銃か槍か、消費した兵糧か、それで悩んでいた。
ところが、祝い酒を強請られた。
それで良いのか、景虎くん。
久し振りに側仕えに戻った近藤勇史郎に尋ねられた。
「如何しますか」
「送るしかないよな」
「ですな」
「急ぎだと思うから船便にしてくれ」
「あの方は蟒蛇です。
どのくらい送りますか」
「それが難しいな。
酒毒が怖いから、・・・薬膳酒や麦焼酎も入れて送るか」
「あっ、それが宜しいかと。
紅茶や珈琲もお好みの様でした。
そちらも入れて置きましょう」
紅茶を飲み干したお市ちゃんが振り返った。
「貴方様、【鎮西八郎伝奇その二】が刷り上がったのだがや。
それも入れても宜しいだが、えーよね」
【鎮西八郎伝奇】が巷では、大好評だとは聞いていた。
「景虎殿と約束でもしていたのか」
「いいや、尼御前様と文の遣り取りをしとるの。
それでそういう話になって、一番に送る事にしたのだがね」




