(西から迫る兵火)12
尼子晴久率いる山陽道軍が、宿営していた播磨から動いた。
一兵も余す事なく、軍頭を丹波へ向けた。
丹波口からの山城侵攻を明確にした。
これに応じて、丹波を占領していた山陰道軍も動いた。
山陰道軍の大将・宇山久兼が、本隊と石見の国人衆を率い、
山城へ侵攻した。
都の手前で待ち受ける両細川軍との衝突を回避し、
後から来る山陽道軍の為に野営地を確保した。
私は琵琶湖の湖畔に陣を敷いた。
陣には、明智家当主の標の旗ではなく、竹中の旗印を掲げた。
丹波口の軍配を竹中に預けたので、それを優先させた。
あくまでも丹波口は竹中とその与力の物。
口出しするつもりは毛頭ない。
竹中の殿軍を装って、のんびりしていた。
もう飯母呂とか、小笠原に悩まされたくない。
山南敬太郎が私を呼びに来た。
「竹中殿が布陣を終えました」
陣幕の内で地図を見た。
山南が急ぎ手書きした布陣図だ。
真ん前に竹中の本陣。
その先、左の山蔭に酒井勢。
更に斜め左、森蔭に藤堂勢。
最前線の丹波口、神社に魚住勢。
地形を活かした陣形で、尼子軍を刺激せぬ様にしていた。
生憎と、見える尼子軍は小笠原殿の軍勢のみ。
負傷者と一時捕虜となった者達で、然程の脅威はない。
小笠原を置いたのは尼子晴久の指示であろう。
上洛に注力して他は些事、後回しとの判断かと。
使番が次々に状況を報じて来た。
山陽道からの軍が長蛇の隊列で山城に侵攻した。
用意された野営地に布陣した。
野営地と言っても、寺社や村々を含めた物。
それらを武力で借り受けた。
同時にそれは両細川軍も知るところ。
そして、膨れ上がる尼子軍に恐れをなしたのか、
両細川軍が戦わずに瓦解した。
散らされた蜘蛛の子の様に、和泉や摂津へ逃れて行く。
そもそも両細川自身の手勢が少ないので、制御が利かない。
真っ先に両細川家が陣を畳んだとの報もあった。
これで足利義栄の目が消えた。
辛うじて生き延びていた幕府政所の門が大きく開かれた。
執事・伊勢貞孝が奉公衆を連れて尼子軍へ向かった。
先代の実弟・覚慶様を京洛に迎え入れる為であった。
事前の打ち合わせに従い、尼子晴久に否はない。
それでも用心は怠らない。
大部隊は動かさず、京洛の周辺各所に小勢を配置した。
両細川への睨みと同時に三好家への牽制を行った。
そして自らは一万を率いて洛中へ入った。
だが易々と将軍宣下には至らない。
それはそうだ。
朝廷にとって覚慶は知らない子。
何の貢献もしてない子。
尼子晴久は前年、皇位継承の儀の為の資金を用立てた。
その貢献が知られていたので官位が上げられた。
従五位下から従五位上へ。
だからといって覚慶への将軍宣下は別の話。
下京だけでなく、御所を始めとした上京も荒廃していた。
「そんな中で将軍宣下が許せるか」と朝廷雀や京雀を怒らせた。
伊勢貞孝が要所要所も懐に金子を配るが、
宥めるには全く足りなかった。
尼子晴久は人心を掴むために、京洛の復興に躍起になった。
人材が不足していたので、兵をも動員した。
季節柄、賦役の農民を国元へ戻さざるを得なくなったが、
それでも意固地になって復興に務めた。
農民が減ると、当初十万を超えていた兵力が半減した。
京洛の周辺に小勢を配備し、警戒に務めていたが、
長くなった駐屯に飽きたのか、各所で穴が空いた。
そこを野盗の類に突かれた。
富者が襲われ、付け火が横行した。
小谷の城に戻った私に猪鹿の爺さんが説明してくれた。
「尼子晴久は苦労している様ですな。
両細川に雇われた者達が京洛で暴れ回っております。
強盗、追剝ぎ、付け火、人攫い、数えるとキリがありませんな。
建てる途中の御所にも火が放たれました。
やりたい放題です」
「侍所は」
「侍所は当然、所司代も検非違使も役に立ちませんな」
「では誰が京洛を守るのだ」
爺さんは考えてから言う。
「まず一番に力のある寺社、次に街の大人衆ですな。
かと言って、全てに目が届く訳ではありませんが」
「零れた箇所もあると」
爺さんが肩を竦めた。
「焼け跡や川原ですな。
屋根だけでも残っていれば御の字かと」
「それでも京洛に残っているのか」
「焼け出された者達に伝手があれば、そちらへ向かうでしょう。
でも、そうでない者達は」
爺さんは珈琲に酒を垂らした。




