八話 模擬戦
「失礼します」
「おつかれーッス」
現れたのは二人の若い男だった。片方は知らない顔だ。体格のいい丸刈り頭。もう片方は見覚えがある。ジーンズに白黒のジャンパー姿。耳までの茶髪と顎鬚と、やや軽薄そうな顔つき。
「健一、こないだ言ってたお姉さんだ」
「ああ、やっぱりアンタが」
健一と呼ばれた茶髪の男はエナメルのボストンバッグを部屋の隅に置き、京子の姿をしげしげと眺めた。いやらしさを感じる視線ではない。筋肉のバランスと重心を見る油断のない目だ。
京子も柏木の前に立ち、彼と同じ目でその身体を見た。身長一七五センチ、体重は七〇キロと少し。体形や筋肉のつき方はサッカー選手に近い。
「廃病院にいた人?」
京子は確認した。
「そうそう、三〇ドル貸したヒト。二〇ドルだっけ?」
「赤羽京子」
「柏木健一。どうも、スカーレットさん。かわいいよりもカッコいい系だね」
こちらをバカにしているのではなく、もともとそういう軽薄な態度を取る人間であるように思えた。金を借りたからという気持ちが、若干の贔屓を生じさせているのかもしれない。
もう一人の丸刈り頭はというと、先程から仏頂面で京子を見つめている。女というだけで相手を侮るタイプであるように思えた。あまりいい印象を持たれていないようだ。
「オヤジ、手合わせって、この女とですか」
丸刈りが不満げな声を出す。組長、という呼称はいかにも前時代のヤクザらしい。緒方が好んで呼ばせているとは思えないから、別組織での経歴が長かったのかもしれない。三十歳ぐらいに見えるが、おそらく老け顔なだけで、実年齢はもっと若いだろう。
「手合わせって、私聞いてないけど」
「言ってなかったからな。あとリュウ、手合わせすんのは健一だ。お前じゃ勝負にならん」
緒方の言葉に、丸刈りが青筋を立てた。上司が相手でなければ食ってかかったかもしれない。柏木はその様子を面白そうに眺めている。
「勝負にならんって……。将棋するわけじゃないんでしょ?」
「当たり前だろ。納得いかないならやってもいいぞ。やるか?」
「いいですよ。やってやりますよ」
「だそうだ。京子、怪我させるなよ」
毛穴だらけの鼻をひくひくと痙攣させ、丸刈りが進み出た。拳を鳴らし、分かりやすくこちらを威嚇する。身長一八五センチ、体重九五キロ超。体格だけなら緒方にも匹敵するが、余分な肉も多い。
「準備運動は?」
「舐めんな」
京子の言葉を挑発と取ったようだ。丸刈りが憮然として構える。全くの素人ではない。スタイルの基礎はおそらくボクシング。
「じゃあ、判定は俺がやるから」
渋々、丸刈りと四メートルの距離で対峙し、合図を待つ。
「はじめ」
鈍重そうな体躯に比べると、丸刈りの動きは俊敏だった。一気に詰めた間合いから、太い腕での右ストレート。まともに喰らえば顔面が粉砕しそうだ。
京子は最小限の動きでそれを躱すのと同時に、ほとんど垂直に上げた右の足刀を、丸刈りの首に叩き込む。気道を潰されて悶絶した相手に対して、顎、みぞおち、下腹に押し込むような突きの連撃。
最後の二つは万が一のタフさを考慮してのダメ押しだったが、結果的には不要だった。
受け身も取れず、仰向けに倒れる丸刈り。起き上がってくる気配はない。
「一本」
緒方が気の抜けた声で告げる。判定が遅かったのは、生意気な丸刈りに対する制裁のつもりか。その傍らの柏木がうへぇと声を上げた。
「もうちょっと遊んでやれよ」
「そんなことしたら余計キレるでしょこの人は」
丸刈りは間もなく意識を回復したが、もう一戦、と息巻くほどの元気はなかった。
京子にとって、それはいつかも見た光景だった。黒豹の若い構成員とともに、緒方のもとで訓練を受けたとき。新兵よろしく居並ぶ男たちの中に、十八歳の女が一人。
おいおい、ここは街中のフィットネス教室かよ。緒方さんがスカウトしてきたらしい。愛人としてじゃなくて? なんのつもりで? いや別に文句はねえけどさ、子守はゴメンだぜ。でも組み技ならちょっと相手して欲しいよな。
しかし侮りの視線は三日でなくなった。陰口さえ三週間で聞かなくなった。そのときからいる構成員は、京子の実力を――不承不承だったとしても――認めているはずだ。
今マットの上に転がっている丸刈りは新入りらしく、それを知らない。別に知らなくても構わないのだが、面倒を増やすのはやめて欲しい。
「じゃあ次、健一」
「えぇ……、リュウ君が瞬殺だったのに? 怖いなァ」
その言葉とは裏腹に、対戦自体を拒否するつもりはないようだ。少なくとも、先程の丸刈りよりは強いという自負があるのだろう。ジャンパーを脱ぎ、灰色のTシャツ姿になる。その肉体には態度と裏腹の、真摯な鍛錬の跡が見て取れた。
「金的アリ顔面アリ。ただし眼球はナシにしろ。三本勝負」
またも緒方が一方的にルールを告げ、なしくずし的に試合が組まれる。京子と柏木はマットの上に立ち、二人ともが構えない状態で向かい合った。
「はじめ」
開始直後、互いに素早く間合いを詰める。柏木がフェイントから身体を沈めてボディーブローを放った。京子は腰から大きく身体をひねって有効打を防ぎ、コンパクトな左の後ろ蹴りで応戦する。
みぞおちに命中。直撃したと思われたが、京子の足裏に伝わったのは硬く軽い感触だった。カウンターに反応して腹筋を固め、体捌きと重心移動で威力を殺したのだ。
それは卓越した防御技術のなせる業だった。もしこれが実戦ならば、勝負は続いただろう。
「一本」
両者が距離を取ったところで、緒方が判定を告げた。
「いやァ、本気だったんだけどなあ」
柏木が腹をさすりながら言った。おそらくそれは真実だ。初撃で突き出された拳には、一片の躊躇もなかった。
「二本目、いけるでしょ」
京子は言った。
「まだまだイけますよ、お嬢さん」
飄々とした様子で柏木が構える。
「はじめ」
間合いを詰めて、再びの至近距離。柏木の動きは京子に比べると粗削りだが、代わりに速さと重さがある。今度の応酬は十秒以上続き、最終的には京子が柏木の後頭部に拳を添えて終わった。
「一本。ホラホラ頑張れ」
煽られた柏木は首と肩の関節をぐりぐりと動かし、両手で二度、自分の頬を張った。ほんの少し、目つきが鋭くなる。
「休憩はいいな? 三本目、はじめ」
二本取られてなお柏木は痛打を恐れず、積極的に攻撃を仕掛けてくる。その速度は、先程より格段に増していた。
開始直後、左下からのアッパーが、京子の顎先五ミリの位置を切り裂いた。間髪を入れず、上段の後ろ回し蹴りが側頭部に襲いかかる。
京子は腹筋を使って素早く身体を折りたたみ、今度は右拳で顎を狙う。しかし柏木は恐るべき反射神経で首をねじり、それを回避した。文字通りの紙一重。
次の動きにも迷いがなかった。京子が腕を戻す前に懐へと入り込み、払い腰の要領で身体を投げ飛ばしたのだ。
しかしマットに叩きつけられる前、京子は比較的自由な左手で、柏木の耳を軽くつまんだ。
「ッ、と……」
柏木の動きが止まり、京子の身体をゆっくりとマットに降ろす。
「ん、どうした。引き分けか?」
緒方からは見えていないようだが、判定はおおむね正しい。
京子は柏木の耳から指を外した。実際にちぎったわけではないが、容易にそうできたということは柏木も理解しただろう。ただし殺すか殺されるかというレベルになれば、耳に構わず京子を投げ、追撃に移ったはずだ。
「強いねェ、京子さん」
「どうも」
柏木を退かせて身を起こす。
「……まだまだ修行しないとだなァ」
言い訳しない分過去の男たちより清々しいが、どこか底の見えない態度でもあった。実戦でこそ力を発揮するタイプなのかもしれない。
「二敗と一分か。まあ内容的には食い下がった方だな」
半ば予想していたとでもいうような感想とともに、緒方が座っていたマシンから立ち上がった。
「よし、次は射撃の部」
「うへぇ……」