七話 血染めの過去
京子の父は県警に所属する警察官だった。強く、賢く、並外れて我慢強い人物で、常に努力と研鑽を怠らなかったが、他人にそれを押しつけることはなかった。
京子と顔を合わせたことのある同僚の警察官は、いつも父を優秀な人間だと褒めそやした。京子にはそれが自分のことのように嬉しかったし、称賛を受けて曖昧に笑う父親の顔を今でも覚えていた。
仕事は忙しかったが、母がそれに文句を言うことはなかった。両親は非常に仲が良く、喧嘩した姿は一度も見たことがなかった。
父には秘密があった。しかしそれは家族の信頼を裏切る種類のものではなかった。父は公安部門に所属する警察官で、当時既に成立しつつあったシャングリラと、その首魁である潘俊豪の内偵をおこなっていた。
もっとも、京子がそれを知ったのは両親が死んでからだ。その前は、なにか秘密の捜査をしているんだろう、という程度の認識しか持っていなかった。父が仕事の詳細について家で話すことは、まったくと言っていいほどなかった。
これは半分京子の贔屓もあるが、父は俊豪の喉元まで迫っていたに違いないのだ。そうでもなければ、あんなに残虐な殺され方をするはずがない。
両親の死体は、家族が住むマンションの室内にあった。十一歳の京子はその日、友人と遠出をしていて家にいなかった。テーマパークを満喫して夕方に帰ってきたとき、マンションの前は警察官と野次馬でごったがえしていた。
京子が事情を尋ねると、慌てた警察官に身柄を保護された。それから間もなく、両親の死が告げられた。
だから、京子が直接殺害現場を見ることはなかった。しかし聴取の過程で提示された断片的な資料と、そこから構成された情景が、京子の脳裏に今も赤黒く焼きついている。
両親の切断された首が置かれたコーヒーテーブル。胴体から流れ出てカーペットを濡らした大量の血。それを使って壁に書かれた広東語の文章。
犯人は極めて計画的に、一切の容赦なく仕事をこなしていた。もしこの日京子が家にいたならば、生首は間違いなく三つになっていたはずだ。
事件発生からしばらくのことは、京子の記憶にほとんど残っていない。それは現実感のない生活だった。医師やカウンセラーと何回か話した。夜に悪夢を見て起きることが何度もあった。少し落ち着いたのは、静岡県にある祖父母の家に預けられて、三か月ほど経ったころだった。
いつか訪れた父の元同僚が、こっそり事件の概要と、父がやっていたことを教えてくれた。彼は必ず潘俊豪を捕まえると言ったが、その約束は結局果たされなかった。数か月後、彼もまた死体になった。それ以降、父の死を取り巻く捜査が進んだと聞いたことはない。
京子は既に芽生えはじめていた強い想いを秘めたまま、表向きは普通の生活に戻った。中学校に進学し、優秀な成績を修めた。友人は多くなかったが、トラブルは一切起こさなかった。
高校では授業で習う英語のほかに、独学で中国語を勉強した。部活動に所属し、身体を鍛えた。
その過程で、京子は自分の才能に気がついた。人並外れた動体視力と反射神経だ。
ボールを取ること、打ち返すこと。不意に向かってきたなにかを避けること。号砲と同時に飛び出すこと。走り去り、通り過ぎるなにかを認識すること。
なぜほかの人にはできなくて、自分にはできるのか。才能に気づいてからは、それらをさらに伸ばそうと努力した。
高校では空手をやった。突きも蹴りも、足さばきも重心移動も、見切るのは退屈と思えるほどに容易だった。しかし目立ち過ぎないよう、圧勝は避けた。大会での手加減を指摘された京子は、勉強を理由に部活を辞めた。もちろん、角が立たないように。
そのほか、生活のすべてにおいて注意深く努力し、どんな不条理にも我慢強く対処した。
高校を卒業した京子はアスリートにも大学生にもならなかった。十一歳のときからずっと計画していたことを実行に移した。
シャングリラに行くとは言わなかった。横浜に戻るとだけ告げた。京子の学力を知る教師は首をかしげ、進学を強く勧めた。過去に起こったことを知る祖父母は強く反対した。
もちろん京子は揺るがなかった。結局、家出同然の別れとなった。
七年の月日で、復讐の念は身を焦がすような熱を失っていた。しかし溶けて消えることは決してなかった。それは冷えてなお強固になり、京子の虚ろな魂を殻のごとく覆っていた。
十八歳になった京子は横浜に戻り、様変わりした町並みを眺めた。シャングリラと呼ばれるようになった場所に向かい、ひとまず状況を把握しようとうろついていたところ、ガラの悪い男とトラブルになった。
そして緒方と出会った。彼は手慣れた様子でトラブルを処理すると、気さくな兄貴風の親切さで京子の身の上を聞いた。
思えばよくついて行ったものだ。しかし今も自分が生きているのは、このときの判断があったからなのかもしれない。
*
「お前とこうすんのも久しぶりだな。最近の若いモンは身体鍛えるの嫌がんだよ」
黄金町駅近くにある黒豹事務所ビル。その地下一階には広いトレーニングルームがある。半分はマシンやバーベルに占有され、もう半分は道場のようなマット敷きになっている。午前十一時、京子と緒方はそこで身体を動かしていた。
アスール・カルテルを調べるにあたって緒方から受け取ったのが一万ドル。仕事が終わったあとにもう一万ドルが報酬として支払われた。そのほかに京子はもう一つ、トレーニングルームと射撃場の使用許可を要求した。肉体の鍛錬はともかく、射撃の訓練ができる場所は貴重だ。
勘や感覚、動作の精密さは絶えず研がなければ徐々に損なわれていく。これまでは鈍らないよう意識して仕事をしていたが、鍛錬の機会が得られれば、過剰に気を使わなくてもいい。
「三年前、あの場にいたのは偶然だった?」
京子はいっとき記憶をシャングリラの路地裏に飛ばし、尋ねた。
「ほかになにがある。ただ、男だったら声をかけなかっただろうし、ブスでもババアでも声をかけなかった。若くて顔がいいってのはそれだけで価値がある。道に五百円玉が落ちてたら拾うだろ。それとおんなじだ」
しかし娼婦コールガールやカジノディーラーとするには、京子の才覚はあまりに突出し、持っている動機はあまりに過激だった。会って間もなくそれに気づいた緒方は、京子に格闘と銃の扱いを教えた。
「顔ね……」
「結局顔は関係なくなったけどな。まあ暴力も金になるから構わんが」
緒方は立った姿勢から九〇キロのバーベルを掴み、腰の高さまで上げ、またゆっくりと下ろした。同じことを十回繰り返す。彼にとってはこれがウォーミングアップだ。
地下二階にある射撃場、地下三階にある室内戦闘訓練場に比べて、このトレーニングルームは明らかに人気がない。三年前からそうだった。今も緒方と京子以外の人間はいない。皆、腕立て伏せより人型の的を撃つのが好きなのだ。
京子は畳を模したマットの上で、空中に向かって連続した蹴りを放つ。身長一七一センチ、体重おおむね六〇キロ。女性にしては大柄だが、筋量とリーチは努力しても男に及ばない。だから脚を使ってそれらを補え、というのが緒方の育成方針だった。
「で、あのあとカルテル関係はどうなったの?」
京子は尋ねた。このとき、廃病院での出来事から五日が経っていた。
「フィリピン人どもと董鎮氷の繋がりについては裏付けが取れた。あとは色々と準備中だ。それはそうと、顔を合わせといてもらいたいヤツがいる」
「誰?」
「呼んどいたから、そろそろ来るだろ」
京子がもう一通りの型を終えたとき、トレーニングルームのドアが開いた。