六話 仕事の時間
翌日。京子はジーンズとポロシャツに身を包み、アスール・カルテル襲撃の準備を進めていた。どちらも夜に目立たない暗い色。タイトながら伸縮性の高い素材が使われている。
運動性を追求するならジャージかスパッツだが、街歩きに不自然な格好は別の危険を招きやすい。着る前には、硝煙の臭いが残っていないかしっかりと確かめる。
それから部屋のクローゼットを漁る。ナイロン製のホルスターを取り出し、腰の上に巻く。
ボディアーマーを着けて仕事をしたことはない。それは確かに即死の可能性を下げるが、最終的に生き残れるのは、回収し手当してくれる仲間がいた場合の話だ。
弾丸が貫通しないだけで衝撃は伝わるし、狭い範囲に二発喰らえば素材が耐えられない。負傷して行動不能になれば、結局は捕縛か死が待っているのだ。
そもそもSCAP弾を防げるレベルのものは、最低でも五キロの重量があり、京子の体格と筋力で着用するにはデメリットが大きすぎる。単独行動を基本とするならば、跳弾や破片すら受けないことが前提で、軽さと動きやすさがなによりも優先されるのだ。
今回の仕事場は廃病院。調べたところ周囲に大きなマンションや商業施設はなし。遠くから敵に発見されるリスクを考えて、京子は決行を夜と決めていた。
敷地や建物の配置を考えると、マフィアたちはある程度分散している可能性が高かった。無用な銃声で人を集めなくて済むよう、ホーネットの銃口にはサイレンサーを取りつける。それをホルスターへ挿し込み、先日買ったコートで隠す。靴は全力疾走に耐えうるランニングシューズ。
準備を終えた京子は、ポイズンハイドレートの裏口を出た。天候は曇り。気温は低く、風が強い。
ねぐらから少し歩き、タクシーを捕まえる。寡黙な運転手がAIに指示を飛ばすと、車はオールド・チャイナタウンの外側を回り、やがて海沿いの道路に合流した。左手の埠頭には、稼働するクレーンの灯りがいくつも見える。
京子は廃病院から数百メートルのところで車を降りた。注意深く辺りを確認すると、近くに黒豹のものらしいワンボックスが停まっていた。
海から吹く冷たい風が背を叩く。このあたりには、バーもダンスクラブもない。客引きの人間もいなければ、色鮮やかなホログラム広告もない。シャングリラにありながら、その恩恵に預かれなかった辺縁。暗く寒々しい都市の空隙。
廃病院は長く緩い坂の中腹にある。京子は街灯のない、老朽化したアスファルトの道を進んでいった。身を包んでいたコートは途中で脱ぎ、適当な場所へ捨てる。シャングリラの内側に、証拠品から犯人を特定するような捜査機関は存在していない。
周囲に点在する家々も、人が住んでいるのかいないのか。風の音を除けば、辺りは非常に静かだった。京子がゆっくりとしたペースで坂を上っていくと、やがてくすんだ白い外壁を持つ、古びた病院の建物が見えてきた。
さらに歩調を緩め、人の気配を探る。
闇の中にタバコの火が見えた。病院の玄関付近、枯れ果てた植木の近くに、黒い人影が寄りかかっている。ほんのわずか赤く照らされた鼻は、日本人のそれよりもやや幅が広い。
見張りか、ただ一服しているだけかは分からない。しかし京子にとってはどちらでもよかった。サイレンサー付きのホーネットで、十五メートルの距離から無防備なこめかみを撃ち抜く。
男は呻き声一つ上げずに崩れ落ちた。 そのまま三秒待つ。誰かが気づいた様子はない。
京子はおもむろに歩み寄り、男の死を確認した。カルテルの人間で間違いなさそうだ。零れた血と脳漿の中で、タバコが末期の煙をくゆらせていた。
病院に目を戻す。全体図は事前に記憶していた。敷地内には大きな建物が二つ。手前が診療棟。渡り廊下で接続された奥に入院棟。それぞれの一階、奥に向かって右方向にやや広い部屋がある。人が集まるとしたらその辺りだろうと見当をつけ、京子は強化ガラスの入口ドアを開けた。
廃病院内部。埃とカビと、わずかに饐えたような臭いがする。当然のことながら照明はついていなかった。非常灯さえない暗がりの中、京子は足元の障害物に気を配りながら周囲に耳を澄ませた。
右方向から下品な笑い声が聞こえる。角から覗き込むと、戸が外され枠だけになった部屋の出入り口から、わずかに光が漏れていた。電気は通っていないだろうから、バッテリーかなにかを持ち込んでいるのだろう。
足音を忍ばせながらゆっくりと移動する。ときおり躱されるタガログ語の意味は分からないが、雰囲気は弛緩しきっている。
『五人』
声質を分析した月華が静かに告げる。
大まかな配置を頭に思い描いてから、京子は部屋の中に踏み込んだ。
部屋の中には月華が言った通り五人のマフィアがいた。手近な一人の胴体を撃ち抜くと、さすがに全員が素早く反応した。
咄嗟に立ち上がる者、とりあえず怒鳴る者、銃を手に取る者、座っていたソファに身を隠す者。瞬間的に膨らんだ殺気の中、京子は視界の中にすべてを捉え、反撃の用意を整えた人間から狙っていった。
銃口から吐き出される弾が骨を砕き、肉を抉り、部屋を硝煙と血と臓物の臭いで満たしていく。胸を撃たれた一人が死ぬ間際に発砲し、その弾丸が窓ガラスを粉々に割った。
そんな中、生き残った巨漢が一人、ソファの陰から突進してきた。低い姿勢のタックル。不意を突いたつもりだろうが、京子は脂肪の余った胸のあたりに一発撃ち込んでから、勢いの萎えた巨漢の頭を、膝を一閃させて蹴り砕いた。
足元で横向きに倒れ、ぶごっ、ぶごっと奇妙な声を上げる男の後頭部を撃つと、巨体は完全に動きを止めた。
予備の弾倉は持ってきてある。だが、残弾にはまだ余裕があった。
服についた返り血に顔をしかめながら、京子は改めて部屋の中を眺める。ほかの部屋から持ち込まれたらしい布のソファ、テーブルの上にはタブレット型の端末、見慣れない蒸留酒の瓶、トランプ、使いかけのアスール。
ここは一時的な拠点でなく、かなり長い間たまり場になっていたようだ。
壁際には、椅子に縛りつけられた全裸の男がいた。はじめから微動だにしなかったので、敵になり得ないことは分かっていた。カルテルの不興を買い、拉致されたのだろうか。
念のため脈を確かめたが、やはり死んでいた。体中に痣があり、十本近くのダーツが刺さっている。京子はそのうち一本を引き抜いた。どうやら生きているうちに投げつけられたようだ。
ラピッドサイクラーで聞いた言葉が思い出される。カルテルは怖い。しかしこれは怖いというよりも、趣味が悪いと言うべきだ。
ほかに興味を惹くものはない。踵を返して玄関付近に戻る。
そのとき、奥にある診療棟の方向から、こちらに小走りで近づいてくる気配がした。
たった一人。京子は角で待ち伏せて、曲がってきた男の膝を蹴りつける。転倒しながら悪態をつく男の額に、SCAP弾を一発撃ち込んだ。
多分、奥にも何人かいるのだろう。京子はそう判断して、入院棟に足を向けた。屋内は不穏に静まり返っている。襲撃を確信した敵が、息を殺して待ち構えているのだ。
どこかで小さな呻き声が聞こえた。
渡り廊下を通った先が入院棟だ。京子が右奥にあるらしい食堂を窺うと、暗闇に銃声が響き、飛来した銃弾が白い壁材を粉砕した。
続く激しい連射に顔を引っ込める。拳銃ではない。音や威力からしてライフル。銃身が短く取り回しのいいアサルトカービンだろう。撃っているのは少なくとも二人。
ホーネットを連射に切り替えてから、銃声に注意を集中した。周到でない弾幕には独特のリズムがあり、どんな銃にも弾切れはある。京子は射撃と射撃の空隙にある、ほんのわずかな時間を狙っていた。
三秒後、カルテルの一人が弾切れに気づいた。相手が身を隠すまでの間に角を飛び出し、弾丸を浴びせる。装填を終えて反撃してくるもう一人の弾丸は、前方に回転しながら躱した。起き上がりざまの連射で、敵の身体に一列の赤い花を咲かせる。
薬莢と銃が落ちる音。声なく倒れる人体。残響と硝煙の中立ち上がった京子は、ホーネットを構えたまま食堂に向かう。一人は生かせ、と緒方が言っていたことを改めて意識する。うっかり忘れていたわけではない。殺すときは生かすことを考えない。
食堂に足を踏み入れる直前、大振りのナイフが横から突き出された。それは黒いポロシャツの端をわずかに切り裂いたが、肉にはあと一センチ足りなかった。
京子はナイフの先端を横目に捉えつつ、襲撃者の足を払い、顎を下から肘で強打した。よろめいた男のみぞおちに、爪先で一撃を喰らわせる。
苦痛に喘ぎ倒れた男の胸を踏んで床に押しつけ、顔面に銃を向けた。
「スカーレット……誰に雇われた。アメリカ人か?」
男は咳き込みながらも、癖の強い英語で言った。半ば目を閉じ、息も絶え絶えといった様子だ。
「聞ける立場にあると思ってんの?」
「金が欲しいのか。払う用意ならある。カルテルには口添えしてやる」
「…………」
「日本や中国が睨み合ってるうちに、俺らが――」
面倒になった京子は男の胸から足を外し、代わりに思いきり膝を踏みつけた。ごきりと骨の折れる音と、次いで絶叫が食堂に響く。
「営業ならよそでどうぞ」
わめき続ける男の頭を蹴って黙らせ、周囲の気配に耳を澄ませる。こちらに向かってくる音はないが、食堂の奥からくぐもった声が聞こえた。
男のもとにしゃがみ込み、ナイフを拾って遠くに放る。拳銃は持っていないようだ。その代わり、先程の部屋にいたフィリピン人たちより身なりがいい。
その手には金時計や宝石のついた指輪が嵌められており、この男がカルテルの中でも上の立場にあることを示していた。黄色く濁った憎悪の目を、京子は正面から無感情に受け止める。
立ち上がって男から目を離し、声の主を確かめるため奥へと進む。そこにいたのは手足を黒いバンドで結束され、口に布を詰められた少女だった。
年齢は十三か十四。服装はジーンズにパーカー。顔立ちからすると、日本と欧米系のハーフだ。強姦はされていない。酷い出血もない。
京子は彼女の傍にしゃがみ込み、口に詰められていた布を取り去る。
「うるさくしないでね。痛いところある?」
ひとまずは英語で話しかける。
少女は首を振った。その顔は酷く青ざめている。京子が少し遅れていたら、彼女もダーツの的になっていたかもしれない。
「誰ですか?」
「秘密。とにかく、悪い人たちはもういない。今から人を呼ぶけど、味方だから大丈夫」
ウィスパーで応援に連絡を取り、現在地を伝える。車が来るまではほんの二、三分。京子と少女は一言も喋らなかった。
やがて黒豹の人間が四人ほどやってきた。京子が生き残りを指し示すと、三人がそれを担いで出ていった。若い男が一人だけ残り、気安い口調で京子に声をかけてきた。
「全部一人でやっちゃうの、すごいねェ。なんかこだわりがあんの?」
煽るでも侮るでもなく、単純に興味があるというような口調だった。茶色に染めた髪と顎ひげ。年齢は京子と同じくらい。
「……練習」
二年前に黒豹を出たあと、京子は一つの不都合に気がついた。今まで高めてきた技量をどうやって維持し、向上させていけばいいのか、ということだ。
黒豹が所有しているトレーニング施設は使えない。格闘はともかく、射撃練習ができる場所は極端に限られる。シャングリラの外側にもそういう場所はあるが、どこでやるにせよまとまった金が必要になる。
結局、実戦――生きた人間を撃つ――の機会を求めるのが手っ取り早い、ということになった。金を貰い、人を殺す。はじめのころは仕事を選ばず、最近はかなり選り好みができるようになった。
この行為の副産物として、京子は緒方に従っていたときにはなかった葛藤を感じるようになった。自分の意思で誰かの命を奪う。殺されるのが当然の人間であっても、自分が決めなければ失われなかったかもしれない命を。
黒豹での仕事は緒方が決定し、責任を取った。そこに京子の意思が介入する余地はほとんどなかった。
思えば髪を赤く染めたのはこのころだ。表向きは、黒豹の人間に見つからないように。しかしやはり本音としては、殺人者としての自分を、黒髪の人間――赤羽京子――と分離しておきたい、という気持ちがあったのだろう。
「練習ね……」
男は呟いた。どんな感想を持ったのかは分からない。
「で、そっちのコはどしたの」
「拉致されてたっぽい。私が送ってく」
「親切じゃん」
「悪いけど、お金貸してくれる? タクシー代、自分の分しか持ってこなかったから」
彼はポケットを探り、ややくたびれた十ドル紙幣を三枚、京子に手渡した。
「お疲れさん。後始末はやっとくから」
男に礼を言い、少女を連れて廃病院をあとにする。周囲に野次馬はいない。警察が来る気配もない。行きと同じ道を通って戻る。うっすら汗ばんだ頬や前腕を、冷たい夜風が撫でた。服に染みた血と硝煙の臭いが鼻先に届く。
「家は近い? 三〇ドルで帰れそう?」
京子は尋ねた。
「うん。お姉さん、殺し屋?」
「まあね」
「人殺したことあるの?」
「もちろん」
ああそうか、と少女はぼんやりとした声で言った。まだかなり動揺しているようだが、自分の住所ぐらいは言えるだろう。さすがに家まで送っていく気はない。
大通りでタクシーを捕まえ、少女を乗せて現金を渡す。このころになると、青ざめていた彼女の顔にも、少しだけ生気が戻ってきていた。
「名前、聞いてもいい?」
上目遣いで少女が尋ねた。
「今度会ったらね」
きっと会うことはないだろう。
タクシーに乗って去る彼女を見送り、京子もまた別のタクシーを捕まえた。自分の料金はニューロでも支払える。
黒豹への報告はさっきの男たちが済ませるはずだ。運転手にポイズンハイドレート近くの住所を伝え、京子は硬い背もたれに身を預けた。