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スカーレット・ホロウ  作者: 黒崎江治
ミッション1 廃病院
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三話 第一段階

「早かったな。走ってきたのか?」


 二年ぶりの再会だが、緒方の態度に感慨めいたものはない。彼はバーから手を放し、首にかけたタオルで粗雑に身体を拭い、床に放ってあったTシャツを身につけた。


「汗臭いんだけど、シャワー浴びてきたら?」


「まあ座れ」


 京子はトレーニング器具に追いやられた応接セットに目を遣る。黒革のソファとアクリルガラスのコーヒーテーブル。


 それに座って室内を見回していると、緒方は小さな冷蔵庫から瓶飲料を取り出してこちらに持ってきた。白い冷気を放つジンジャーエールが二本、ごとりとテーブルに置かれた。


 緒方は京子の対面にゆっくりと腰を下ろすと、栓抜きで王冠を外し、喉を鳴らして中身を飲んだ。


 その身体に贅肉はもちろん、示威のためにつけられた余計な筋肉もない。短く刈り上げた髪型もそのままだ。年齢は四十半ばのはずだが、三十代でも十分通る。


 魑魅魍魎が蠢く密林に生きる黒豹。弱みを見せれば喉を食い破られるが、身内には案外寛容な男。


「元気だったか京子。いや、今はスカーレットか」


「どっちでも」


「赤い髪も中々だな」


「……」


「警戒しなくてもいい。家出を怒られると思ってるのか?」


「いや、別に」


 ふん、と鼻から息を吐き、緒方は口元を歪めた。


 そういう男ではない、と京子は知っている。過去のことでわざわざ人を呼びつけて、恫喝したり追及したりする男ではない。離反分子を制裁するだけなら、緒方はもっと直接的な行動を取る。


 これまで京子のところに刺客を送り込んだり罠に嵌めたりしなかったのだから、今この場でそれをするつもりがないのは明らかだった。


「でも一応、理由ぐらいは自分の口で言えよ。けじめとして」


「あのとき、緒方さんは説明してくれなかった。潘俊豪と黒豹の関係」


「聞かれりゃ答えた。別に隠してたわけじゃない。勝手に消えたのはお前だ」


 京子は十八歳からの一年間、緒方の下で戦闘の訓練を積んだ。もちろん将来的に、黒豹の構成員として働くことを想定してのものだ。そして実際、あまり難しくない仕事もいくつかこなした。


 しかし当初、シャングリラの事情に明るくなかった京子は、黒豹が誰の味方で、誰の敵なのかをよく考えていなかった。そのうち裏社会の空気に馴染んでいき、そういった勢力図や利害関係というものを理解できるようになった。


「世間知らずだったとしても、少し頭を働かせりゃ分かるだろ。このシャングリラで潘俊豪と敵対するのは不経済だってな」


 そのあたりの事情には、黒豹が新たに手がけはじめたビジネスが深く関係していた。


 シャングリラには大量の雇用がある。とはいえ全ての仕事が、日本人や中国人にとって魅力的なものというわけではない。建設、港湾、廃棄物処理、そして性風俗。


 しかしその仕事を望み、母国よりはましな暮らしができるだろうと、海を渡ってくる人々がいる。彼ら彼女らの出身国は、ベトナム、カンボジア、ラオスをはじめとした東南アジアだ。


 真っ当な移民もいるにはいるが、シャングリラにやってくる者の多くは不法入国者だった。


 彼らは偽装を施した漁船で黒潮に乗り、太平洋近海にやってくる。そこで日本国籍の船舶に乗り換えて、シャングリラでこっそり陸揚げされる。


 この密入国ビジネスは、長らく東南アジア系マフィアの稼業だったが、俊豪はこれをある程度の管理下に置こうと考えた。そこで利用したのが、緒方の代になってから勢力を伸ばしてきた黒豹だった。


 黒豹は激しい抗争の末にその権益を奪い取り、密入国ビジネスを牛耳るようになった。


 こうして渡航費という名目の借金を負った移民たちは、日本近海で黒豹の船に回収され、俊豪の息がかかった人材ブローカーに引き渡され、シャングリラの安価な労働力になる。


 当時の抗争には京子も参加したが、新米だったせいか、任されるのは留守番か後詰めのような仕事ばかりだった。結果として俊豪の利益に大きく貢献しなかったのはせめてもの慰めだ。


 やがて抗争は終わった。京子が全体図をおおまかに把握したのは、状況が幾分落ち着いてからだった。抗争の相手。奪い取ったビジネスの内容。金の流れ。


 それらを総合して考えたとき、京子は俊豪と黒豹の関係を強く意識するようになった。間接的にではあるが、自分が俊豪の手先となっている事実は強い当惑を引き起こした。


 義理と憎悪。強力な後ろ盾がある有利と、組織の命令に縛られる不利。様々なものを天秤にかけた結果、京子は黙って黒豹を出奔した。


「今なら、もう少し上手くやったかもね」


「ま、そう思えるようになるぐらいで十分だ」


 しかし黒豹と俊豪の協力関係は間もなく終わる。おそらくは不可逆的に。破滅的に。


「で、今までよろしくやってた緒方サンが、急に掌を返した理由は?」


 京子の皮肉を気にした風もなく、緒方は本題を切り出した。


「昔とは少し、状況と登場人物が変わった。俊豪には嵐航(らんこう)って息子がいるのは知ってるか?」


衛兵力(ウェイビンリー)で副長官やってるヤツでしょ」


 ウェイビンリーと呼ばれる集団は、主に華南出身者から成る俊豪の私兵たちであり、シャングリラにおける警察力を持つ組織として知られている。


 しかし守るのは当然、俊豪やイースト・シャングリラ社の利益に関わるものに限定され、それに反する者に無慈悲な制裁を科すことも厭わない。


 全員が銃の訓練を受け、明確な命令系統を持ち、地域を分担してシャングリラに展開し、睨みを利かせている。その全貌を知る者は少ないが、京子が予測するところでは、千人から千五百人ほどの構成員がいるはずだ。


「正確にはやってた、だな。ごく最近更迭された。野心があり過ぎて警戒されたんだ。今は外交をやってるが、そのパイプを利用して、さっそくコンタクトを取ってきた」


「実の父親を暗殺するって?」


 俊豪暗殺に噛ませる、という言葉を鵜呑みにするならば、息子の嵐航が俊豪の命を狙っている、ということになる。緒方は大げさに頷いてそれを肯定した。


「そういうことだ。牙を抜かれる前に、皇帝の座を奪いたいらしい。殺さなくても目的は達成できそうな気もするが、まあ、徹底するタイプなんだろ」


 京子は眉をひそめたが、誰かの父親を殺した人間の末路としては、皮肉が効いていて似合いだろうと思い直した。それに実の父親でないなら殺してもいいのか責められれば、おっしゃる通りだと譲らざるを得ない。


「緒方さんもやったことある?」


「親殺しか。いつかはするかもな」


 緒方は瓶を持ったまま、両腕を広げるような姿勢で背もたれに身体を預けた。暴力団組織において、親子という言葉はしばしば権力の上下関係や主従と結びつく。


 独自の権益を築いているとはいえ、黒豹はいまだ複雑な組織図の中に組み込まれている。最上部にいるのは、九頭竜会という巨大な広域暴力団だ。


 しかし緒方の性格からして、いつか親やその上にいる者をも呑み込むつもりなのは間違いなかった。彼は九頭竜会のことを、老衰し、稼いだ利益を吸い上げるだけの遺物と見なしている。


 嵐航に協力するというのも、そういった闘争に向けての地盤固めなのだ。


「今回の件に関して、お前にも全部を話すことはできない。それは黒豹のほかの人間にも、たとえ幹の連中だとしてもだ」


 九頭竜会が幹。黒豹は枝。甘い実を結ぶのではなく、獲物を突き刺して体液を啜る異形の枝。それでもなにかの支えにはなるか。それとも叩き折られて共に墜ちるか。


「この部分に関しては納得しろ。前みたいに駄々をこねるなよ。だが嘘はなしだ」


 じっと緒方の瞳を見る。この男の動機は不純だが、揺らぐことはない。


「協力するか?」


 京子はしばらくそうしてから目線を下げ、たっぷり汗をかいたジンジャーエールの瓶から王冠を外した。まだ十分に冷たい中身を喉に流し込むと、空の胃に冷たい刺激が満ちる。


「やる。でも、黒豹には戻らない。私の仕事として受ける」


「それでいい。ウチもほいほい出たり入ったりできる組織じゃないからな」


 緒方は満足そうに笑ってから、具体的な話に入ろう、と言って少し身を乗り出した。その額にはまだうっすらと汗が光っている。


「俊豪を殺すにしろ拉致するにしろ、とにかく衛兵力の連中をどうにかしないと話にならない。息子の嵐航が更迭されてなけりゃ簡単なんだが、そうでなくなったから面倒な手順を踏む」


「長官殺せば早いでしょ」


「お前、脳ミソに火薬でも詰まってんのか? もうちょっとスマートに物事を考えろ」


「うるさい」


「ただ、長官を狙うってのは正しい。今回はコイツがやらかしてる不正を探って、それを交渉のネタに使う」


「衛兵力で不正なんて、今更なんじゃないの」


「道徳とか法律に逆らうタイプの不正ならな。だが体制のリスクになるような不正なら火種になる。で、そいつを傀儡にするか、引きずり降ろして後釜を据える。そうすれば色々と動きやすいだろ?」


「どっちでもいいけど、不正のネタは?」


「ある。フィリピンマフィアとの癒着だ。お前、アスールって知ってるか?」


 京子は首を振る。緒方はおもむろに立ち上がり、デスクの引き出しを漁りはじめた。


「タガログ語で青って意味のドラッグだよ。ほら」


 彼が持ってきたのは、薄い青色をした丸いシールのようなものだった。京子は先程、これと同じものを目にしている。雨の中蹴り倒したあの男は、フィリピンマフィアかその関係者だったのだろう。


「アンフェタミン入りの幻覚剤だ。それ一枚が、末端価格で五〇ドル以上。ボロい商売だが、マーケティングが上手いんだろうな」


「そのマフィア、前に潰した連中と関係あるんでしょ。密輸と密入国、似てるもんね」


「そうだ。名前はそのまんま、アスール・カルテル。俊豪にとって、密入国ビジネスをコントロール化に置いたのに、昔排除した連中がまた顔を出してくるなんてのは気分が悪い。


 長官としては、そういう連中とつき合ってることがバレるのはまずい。フィリピンマフィアどもも調子に乗って、敵対組織に手榴弾投げ込んだり、家族を拉致して身体の一部を送りつけたり、かなり過激になってるそうだから、いい醜聞の種になる」


 まったく前時代的な連中だ、と緒方はつけ加えた。


「その組織について調べて、衛兵力長官との繋がりを明らかにするのが仕事?」


「ああ。火薬だけじゃなくて、ちゃんと神経細胞も詰まってるらしいな」


「ちなみに、長官の名前は?」


董鎮氷(とうちんひょう)。探偵仕事は苦手だろうが、この機会にスキルアップしろ。銃を撃つしかできない人間は、死ぬまで鉄砲玉だぞ」


 そう言いながら、ジンジャーエールの瓶を指で弾く。


 面倒な仕事だとは思ったが、京子は文句を言わずそれを請けることにした。これまでの仕事は荒事が主だったとはいえ、調査をする機会もゼロではなかった。別段、スキルアップやキャリアアップを目指しているわけではないが。


「前金で一万ドルやる。ヤツらの動きが分かったら、連絡を寄越せ」

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