エピローグ それは一握りの
三週間が経った。
ダイユーへの襲撃、潘俊豪と嵐航の死は、当然のことながらシャングリラを震撼させた。ただし真実の多くはより穏当な形で公表され、おそらくは関係者の奔走によって、今のところ致命的な崩壊は食い止められていた。
衛兵力も表向き、襲撃計画の全容を特定し、実行犯を拘束するために動き回っている。しかし実際のところは、ここぞとばかりに台頭しようとする有象無象の対処と、既得権益の防衛に必死で、俊豪の弔い合戦をする余力はないようだ。
とはいえ、京子もまだ多くの事情を知っているわけではない。つい三日前まで入院していたからだ。顔面の裂傷一か所、指の単純骨折一か所、上腕の亀裂骨折一か所、擦過傷や打撲は無数。
しかし現場の激しさを考えれば、これはほとんど無傷と言ってもいい。ダイユーの戦闘で発生した敵味方の死傷者は、軽く見積もって三十人以上、生き残ったユピテルの隊員も、まだ何人かは意識不明の重体だと聞く。
手榴弾で気絶したあとのことは、当然のことながら覚えていない。あのまま放置されていてもおかしくはなかったが、どうやら奇特な誰かに回収されたらしい。京子が次に意識を取り戻したとき、そこはオートマタ社が所有する病院のベッドだった。
修羅場を生き残り、安全な場所での療養を許された京子は、医者を驚かせるような速度で回復し、ダイユーで重傷を負った人間の中では二番目に早く退院した。弾丸に裂かれた頬の傷はまだ赤く生々しかったが、抜糸は既に済んでいる。
三週間のうちに季節は進んだ。最近は晴れの日でも薄着だと肌寒い。昼前のこの時間、京子は入院生活で鈍った身体をほぐすため、海辺の風を受けつつ、ネオランドマークの近くにあるホテルまで、わざわざ徒歩で向かっているところだった。それは以前、緒方と嵐航が会合に使った場所だった。
共に策謀を巡らせた二人のうち、片方は死に、片方は生き残った。京子は先んじて退院していた緒方に呼ばれ、顔を出しに行くことになっていた。京子もまた、緒方に告げておく必要のある事柄があった。
櫛切りにしたオレンジのような建物が近づいてくる。呼気で蒸れた傷にかゆみを覚え、京子は顔を覆っていたマスクを外した。
送迎の車が行き来するエントランスを通り抜け、煌びやかなロビーを横切る。事件の前後でここの雰囲気はあまり変わっていない。結局のところ、誰が死のうと生きようと、万事に大きな影響はないのかもしれない。
十年間考え続けてきた復讐は終わった。それが大きな喜びをもたらすことはなかった。逆に大きな虚脱をもたらすこともなかった。変化らしい変化と言えば、せいぜい顔に傷痕が残ったこと、あとは髪を黒く染め直したことぐらいか。
両親が殺されたときと同様、数か月すれば気づくこともあるのだろうか。しかしそればかりは、時が経ってみないと分からない。
京子はほかの客に紛れてエレベーターに乗り込んだ。何人かが頬の傷をちらりと見て、慌てたように目を逸らす。
前回訪れたのは確か二十九階のロイヤルスイートだった。今向かっているのは七階のジュニアスイートだ。黒豹も消滅の瀬戸際で、緒方も贅沢をする余裕がないのかもしれない。
エレベーターを降り、落ち着いた色彩の廊下を進む。教えられた部屋の呼び鈴を鳴らすと、すぐに扉が開いた。こちらもまた事件の前後でほとんど変わらぬ緒方の顔。
「チェーンぐらいかけといたら?」
「最初がそれかよ。まあいい、入れ」
リビングに通され、革のソファに腰かける。窓からは海がよく見えた。緒方はテーブルにジンジャーエールの瓶を二本置き、片方の王冠を外した。
「冷たい飲み物は沁みるのか?」
指で頬を示して見せる。
「いや。普通にする分には困らない」
「そりゃなによりだ」
「緒方さんの方が絶対重傷だった気がするんだけど」
「俺を殺す最大のチャンスは、ジェットパックで飛んでたときだったな」
屍の部隊と最前線でやりあったことといい、バジリスクの弾丸を撃ち尽くしてなお生き残ったことといい、負傷しながらも柏木を追ってシアターホールまでやってきたことといい、つくづく無茶苦茶な人間だと思う。
「まず確認したいのは」
ジンジャーエールには手をつけず、京子は切り出した。
「柏木のこと。アイツが何者だったのか」
緒方は黙ったまま、人差し指を上に向けた。京子にはその意味することがすぐに分かった。
「幹?」
黒豹の上部組織。九頭竜会という名前の広域暴力団だ。
「そうだ。黒豹ウチが大きくなりすぎると困るからって、幹の連中が俊豪とつるんでウチに送り込んだ犬が柏木だった。
けどまあ俺が見たところ、幹の方でも扱いに困ってたらしい。出自にもよく分からんところが多い。今回やらかした理由については、次に会ったら聞いてみろ」
「生きてるの?」
「まさか。骨も残ってねえよ」
やはりあの場で敗北を悟った柏木は、手榴弾を抱いて自爆したのだ。やろうと思えば京子や緒方を殺すこともできたはずだが、そうしたところで彼にとってなんの意味もなかったのだろう。
「裏で糸を引いてたヤツは春巻の具にするとして、俺たちはもっと先のことも考える必要がある。俊豪は死んだが、跡を継ぐ予定だった嵐航も脱落した。これからはじまるのは、本命不在の勢力争いだ。血がドバドバ出る種類のな」
当然、そうなる。ユピテル、黒豹、フィリピンマフィア。イースト・シャングリラ社や衛兵力も一枚岩ではない。国外からは俊豪と繋がりのあった華南軍閥。日本政府も当然介入してくるだろう。
「これから五年は絶対に退屈しない見通しなんだが、まずは人間を集めないと話にならん。そういうわけで京子、ひと段落ついたところで、いい加減黒豹に戻ってこい」
緒方が京子を呼んだ理由はこれだった。屍による襲撃で拠点を破壊され、構成員は大勢死んだ。今の黒豹は組織としての体を成しておらず、まともな活動を再開するのにすら何ヶ月も要するだろう。
それからは不在の間に食い荒らされた利権を取り戻すため、また激しい闘争を展開することになる。もし京子が緒方に手を貸せば、その期間をずっと短くできる。
しかし京子にそうするつもりはなかった。まだ少し引きつる唇で、はっきりと告げる。
「私は戻らない」
「まだフリーでやるつもりか?」
「フリーでもやらない。シャングリラを出る」
「高飛びか。今はどこもそんなに変わら――」
「違う」
苛立つ京子の顔を、緒方はにやにやと眺めた。
「もう殺し合いは止めて、普通の生活に戻る」
緒方はこらえ切れなくなったように低く笑いはじめ、嘲るような声で言った。
「普通の生活に? 戻る?」
「…………」
「お前、復讐を果たしたからには全部が清算されて、今まで身につけてきたことも、やってきたことも綺麗さっぱりないことになって、昔々の純粋だった人間に戻れるなんて考えてるのか?
自分がうまくやれば、なにも知らない周りの人間とよろしくやれると思ってるのか? それとも周りの人間がありのままの自分を受け入れて、仲間にしてくれると期待してるのか?」
京子は冷ややかな視線だけでそれに答えた。
「俺に言わせれば、復讐なんてのは世間が思ってるほど大層なもんじゃない。人生を賭けるのは勝手、美談に仕立てあげるのも勝手。けど本質はもっともっと原始的なモンだ。
やられたからやり返す。そんなの畜生だってやってることだ。人間様はアタマがいいから、それを長く覚えてるってだけだ。
なんも特別なことじゃない。復讐が成功しようが失敗しようが、死ななけりゃそのまま人生は続く。これまでやってきたことは、ちゃんと身体にくっついてる。ただ髪の色を戻したぐらいで」
緒方は自分の短い髪をつまんでみせる。
「普通に戻れるなんていうのはシアワセすぎる考えだ。お前にはここのほかに戻る場所なんてない。シャングリラだけがお前の居場所だ。なあ、スカーレット」
緒方は自分の演説が気に入ったのか、しばらく含み笑いを続けていた。
「緒方さん」
彼が落ち着いてから口を開く。
「なんだ」
「やっぱり人を見る目ないよ」
目の前に置かれたままだったジンジャーエールをつき返し、会話を終わらせるべく席を立つ。その間、緒方は薄笑いを浮かべたままなにも喋らず、引き留める素振りも見せなかった。
背を向けて部屋を出る間際、京子には緒方の小さなため息と、瓶の王冠を外す音が聞こえた。
*
啖呵を切ってみせたはいいが、どこに行ってどう生活するか、京子に具体的な計画があるわけではなかった。それに思い至ってみると、自分の決断が緒方の言った通り、あまりに楽観的な夢想に基づくものだったのではないか、と考えずにはいられなかった。
復讐を達成するための技術や思考様式以外、なにも磨いてこなかった。終わったあとの見通しなど、なに一つ持っていなかった。果たすべきことを果たせば、自分の人生はなにか不思議な過程を経て、うまいこと決着するのだと思っていた。
それは間違いだった。前途に待っているのがあまりに長く、荒涼とした余生であることを予感して、京子は慄いた。
「お姉さん!」
不吉な物思いに捕らわれていた京子は、はじめ声をかけられたことに気づかなかった。
「ねえ、お姉さん」
二度声をかけられてからようやく足を止め、うしろから歩み寄ってきた人物に目を遣る。それはデニムのジャケットを着た快活そうな少女だった。
「もしかしたら人違いかもしれないけど、私のこと、分かる?」
彼女の顔にはどこか見覚えがあった。ごちゃごちゃした思考を脇に置き、記憶を手繰る。
「マフィアに攫われたときに、助けてくれたよね」
「……ああ」
ようやく思い出した。廃病院でフィリピンマフィアに拘束されていた少女だ。名前は憶えていない。そもそも聞いていなかったかもしれない。
「カレン。カレン・ブラッドフォード」
少女は握手を求め、京子は戸惑いながらもそれに応じた。
「……ブラッドフォード?」
「うん。お姉さんの名前は? 今度会ったら教えてくれるって言った」
そんなことを言っただろうか。適当にはぐらかしてもよかったが、よくよく考えれば、もはや身分を隠す必要もない。
「赤羽京子」
カレンはにっこりと笑い、肩掛けのバッグからいそいそと封筒を取り出した。皺を伸ばしてから、京子に手渡す。
「なにこれ」
「三十ドル。いつか返そうと思って、バッグに入れてたの。今日はお父さんのお見舞いに行ってきたところだったんだけど、お姉さんの顔が見えたから」
律儀なことだが、金を出したのは柏木であって京子ではない。しかしようやく気がかりがなくなったという様子のカレンを前にして、突き返すのも気が引けた。
しばし逡巡したあと、京子は慣れない提案を口にした。
「カレン。今から少し時間ある?」
「お昼食べてから帰ろうと思ってたところだけど」
「私が奢ってあげるから、なにか食べに行こう」
「本当?」
カレンが見せた表情には、紛れもない純真さと希望の光があった。それはシャングリラで生きるにあたって不要なばかりか、危険でさえある属性だった。しかし今の京子には彼女の性格や行動が好ましく、そして羨ましく思えた。
柏木の金を使ってしまう口実のつもりだったが、京子はそれが本心でないと気づいていた。血生臭い自分の過去も、なにか綺麗なものを残すのに役立っていたと感じたかったのだ。
「月華、この辺で美味しいハンバーガー屋探して」
『いいけど、大きく口開けると痛くない?』
「じゃあ、カフェで。甘いものがあるとこ」
『はいはぁい』
せめて今は、内向的に考えるのを止めよう。純真は無理でも、一握りの希望を持って。まずはカフェのメニューに想いを巡らせるところから。
やがて月華が店に目星をつけた。しかしそれはどういうわけだか、随分と離れた場所にあった。それでも京子とカレンはタクシーでなく脚を使うことに決め、晴れた空の下をゆっくりと、二人並んで歩きはじめた。
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