二十六話 決着
直後、アサルトライフルによる強烈な弾幕が展開される。どこかにある水槽のアクリルが割れ、大きな魚が床に投げ出された。背後で緒方が呻き、床に転がる音がした。京子は立ち上がって屍を牽制しつつ、緒方に目を遣る。
「先に行っとけ。全員ぶっ殺してから追っかける」
幸い致命傷ではないようだが、すっかり頭にきてしまったようだ。京子は目だけで了解の意を示してから、螺旋階段に足をかけた。
血の臭いに沈むラウンジを離れても、必ずしも危険から遠ざかっているわけではない。京子にはステップを縁取る大粒の真珠が、死体の濁った眼球に見えた。
五メートルの高さを一気に駆けると、階下を見張る敵の足先が見えた。致命傷は狙わず、足首から脛にかけて弾丸を撃ち込む。位置関係の不利があっても、反射神経ならば負けはしない。
膝をついた男の懐に入り込み、その身体を担ぐようにして階段を上り切る。緒方なら簡単にやってのけるのだろうが、京子には少々の気合が必要な作業だ。
螺旋階段の先はまた別のラウンジになっているが、広さは一階の半分に満たない。部屋の中にはほかに三人の屍がいて、船の前方――客室や執務室――への通路を守っていた。
彼らは動揺しているように見えた。下の連中に任せていれば安心だと油断していたのかもしれない。
一方的な蹂躙に慣れたがゆえの甘さは、判断の遅さにも表れていた。肉の盾となった男の身体が銃弾の雨に晒されたとき、京子は既に床を転がりながら、ホーネットの引鉄に指をかけていた。
放たれた弾丸は一人の脇から心臓を破って背中へ、もう一人の顎から脳を削ってこめかみへと突き抜ける。しかしもう一人はアサルトライフルを身代わりに死を免れた。
京子が仕留め損ねた敵は、激高したような様子で破損した銃を捨て、腰のコンバットナイフを抜いて接近戦を挑んできた。
京子は突き出された刃先が胸に突き刺さる直前、ほぼ垂直の蹴りを繰り出して相手の顎に見舞った。そのままナイフを持った腕を取り、背筋の力を使ってへし折る。
床に倒れた男からナイフをもぎ取り、その喉に突き刺す。血が噴き上がり、男の身体がガクガクと痙攣した。
焦点を失っていく男の瞳に、京子は返り血まみれの自分を見た。予備の弾倉を取り出して、空のものと交換する。階下ではまだ戦闘が続いているようだ。
そのとき通路の奥、執務室の辺りで鈍い音が響いた。銃声ではない。
「月華、今の……」
問いかけようとして、京子はウィスパーを落としたことに気がついた。今さっき殺した男の足元で破片になってしまっている。しかし今は七〇〇ドルの損害も、通信の喪失さえ気にしてはいられない。どのみち、音の正体は直接確かめるつもりだった。
一度大きく息を吐き、顔にかかった血を拭う。それからホーネットを構え直し、素早く通路を進んだ。左右には客室の扉が二つずつあったが、各部屋を確かめることはしない。今更伏兵ということもないだろう。
通路の突き当たりは執務室となっている。一瞬、気配に耳を澄ませてから、京子は錠を撃ち抜き、扉を蹴り開ける。
室内は明るかった。厳選された美術品。壁際にはアンティークのキャビネット。奥に鎮座する黒檀のデスク。手前には白を基調としたソファーセットとカーペット。
かつて高尚な秩序を醸していたであろう執務室は、今や衝動的に作り出された異物のせいで、致命的な不協和を感じさせる空間となっていた。
京子が見たのは一つの死体と、それを見下ろす一人の男。
死体は痩せた老人のものだ。豊かな白髪を持つ頭を砕かれ、零れ落ちた義眼が血濡れのカーペットに転がっている。瑠璃色の瞳。金の縁取り。京子の脳裏に刻まれた、潘俊豪だけが持つ特徴。
俊豪が死んだ。殺したのは嵐航だった。今なお息荒く、手には凶器となった把手つきの壺が握られたままだ。策謀を巡らせ、周到に準備をした挙句、結局は火中に投げ込まれ、自らの手で父親を殺したのだ。二人の間にどんなやりとりがあったのか。京子には分からないし、また知る必要もない。
俊豪が死んだ。京子の復讐は宙に浮いた。あるいは計画の成就という意味で、復讐は果たされたのだろうか?
京子は一瞬混乱し、茫然としかけたが、今は最終的な評価を下している場合ではないと思い直した。嵐航発見の報告をしようとして、ウィスパーを失くしたことに思い至る。
「脱出するよ。歩ける?」
「ああ……」
放心した様子の嵐航を正気に戻し、ついてくるよう命じる。彼の落とした壺が、カーペットの上でぱっくりと割れた。
ユピテルの隊員と合流したいが、果たして何人が生き残っているのか。階下の銃声は先程より弱まったものの、まだ散発的に響いている。京子が執務室の扉を開けて通路を出ると、右手の螺旋階段、階下のダイニングから誰かが姿を現した。
敵かと思ってホーネットを構えたが、違った。阪東とユピテルの隊員が一人。
「こちらブラボー。ヌルを発見した」
全隊に報告してから、阪東が俊豪の所在を尋ねる。
「そこの部屋に死体がある」
京子が執務室を示すと、彼は無感情に頷いた。
「こちらも死傷者多数だが、船は制圧しつつある。これより作戦はフェーズ3に――」
言いかけた阪東の肩越しに、京子は螺旋階段から飛び出してくる人影を見た。おそらくは階上から、少しの気配さえ感じさせず。
回避行動を取る間に、見慣れた二挺拳銃から精密無比な弾丸が放たれた。一発が京子の傍らをすり抜け、扉の前にいた嵐航に命中した。阪東ともう一人が応戦体勢を整える前に、二発がそれぞれの頭を撃ち抜いた。
微笑を浮かべた柏木の口元がわずかに動いた。発砲の余韻に紛れて声は聞こえなかったが、京子はその形が成す広東語の意味を瞬時に理解した。
愚か者の末路。
いつか壁に記された血文字。俊豪に殺された京子の両親と、その関係者に宛てられたメッセージ。なぜ柏木がそれを知っているのか、どこでそれを知ったのか。しかしそんなことはどうでもよかった。彼の行為はこれ以上ないほど、強烈に京子を侮っていた。
しかし柏木が口にした言葉で冷静さを失うほど、京子の意思は柔らかくも未熟でもない。そんなもので揺らぐほど、この十年は薄くも弱くもない。
安心しろ、と京子は心の中で呟いた。そんなに心配しなくても、ちゃんと相手をしてやる。
一瞬で三人を殺してみせた柏木だが、この場で京子と対峙することは避けた。ホーネットから銃弾が吐き出されるのとほぼ同時、彼は飛び降りるようにして階下に姿を消した。
嵐航を確認すると、白いシャツの胸に赤い染みが広がっていた。かつて陰謀を語ったその口から、大量の血が吐き出された。まだ死んではいないが、もう助からないだろう。
それよりも柏木だ。個人的な恨みを抜きにしても、このまま放置しておけば撤退するユピテルを襲うだろう。京子は彼を追いかけて螺旋階段を下り、欧州の宮廷を思わせるロココ風ダイニングに降り立った。
この場所でも激しい戦闘がおこなわれたようだ。今は誰も動いていないが、左方で人の足音がした。そちらは確かシアタールームだ。京子はホーネットを構えながら死体を跳び越え、柏木の誘いに乗る。
まだ締まり切っていない扉を蹴ると、派手な音を上げて蝶番が外れた。三列に並んだ一人用ソファと小さな丸テーブル。その奥には巨大なホログラム装置。あたりには、屍のものと思しきケースや物資が転がっている。柏木の姿は見えない。どこかに隠れているのだろう。
俊豪は死んだ。嵐航も死んだ。柏木が誰であれ、どの勢力に与するなんであれ、果たすべき役割は終わったはずなのだ。本当にただの楽しみなのか、ここまでして狂った快楽を求めるのか。
「柏木!」
京子は得体の知れない男の名を呼んだ。しかしこれもきっと本物ではないのだろう。
一瞬あと、ホログラム装置の陰から柏木が飛び出してきた。シミひとつないワイシャツを身につけ、なんの冗談か京子の髪と同じ緋色のネクタイを締めている。
マンティスの連射が天井の照明を砕き、シアターホールにガラスの雨を降らせた。壁や天井に凝らされた建築の技巧が、開戦の号砲を複雑に反響させる。
床を転がる柏木の身体を、ホーネットの弾痕が追いかける。互いにソファを遮蔽としながら、致命的な隙を伺い続ける。
柏木は今この瞬間ダイユーにいる誰よりも気負いなく、誰よりも軽やかに振舞っていた。彼は死や痛みへの恐怖から隠れるのではなく、ただ力を尽くして健闘し、勝利を得るためにそうするのだった。
貫通力の高いSCAP弾の応酬が、並んだソファを無残な姿にしていく。そのうち、こちらの位置を見越したような一発が、京子の頬から口角にかけて、皮膚を破るように貫通した。
「ッ……」
口内に熱い血が溢れる。
銃撃の手応えありと見たのか、柏木の動く気配がした。京子は傷を無視し、顔を上げて銃口を向ける。
しかしそこに柏木の姿はない。気配だと思ったのは、陽動で転がされたテーブルだった。右に殺気を感じた京子は、相手を見ずに後ろ蹴りを繰り出した。
人間離れした身体のバネでこちらに跳びかかろうとしてきた柏木は、腰をひねって直撃を躱し、京子のすぐ近くに着地した。五十センチの距離で、互いに体勢を立て直す。
表情とは裏腹に、柏木も決して余裕ではない。首筋には汗が浮き、肩口から軽く出血している。
そして超至近距離での銃撃戦。足さばきで位置を変え、肘と腕の動きで相手の銃口を逸らす。京子の膝が柏木の大腿を打ち、柏木の銃把が京子の肩を打った。銃弾は互いの身体に命中せず、映像装置や音響装置、複雑な形の壁や天井を滅茶苦茶に破壊していった。
ホーネットとマンティスが弾切れになったのはほぼ同時だった。柏木はこれ見よがしに銃を落とし、それが床で音を立てる前に鋭い突きを放った。京子はそれをホーネットで受けたが、勢いに負けてそれを取り落とした。
間髪入れず、重い拳の連撃が繰り出された。一発を逸らし、一発を躱し、京子は身体を沈めて脇腹への鉤打ちを叩きこんだ。柏木が後退し、凄絶な笑みを浮かべる。
狂人め。頬が破れていなければ、声に出して罵っていただろう。
京子が渾身の上段回し蹴りを見舞うと、柏木はわずかに身体を沈めて直撃を防ぎ、そのまま一回転して反撃のハイキックを放った。京子はなんとか防御したが、強烈な威力は殺し切れなかった。吹き飛ばされるようにして倒れ、ソファとテーブルの脚に頭をぶつける。目の前が一瞬暗くなった。
肉食獣の素早さと執拗さで、柏木が覆い被さってきた。殴りつけるのではなく、万力のように首を締め上げてくる。京子はその手首を掴んで引きはがそうとするものの、筋力の差は歴然だった。気道が狭窄し、意識が薄れる。
「やっぱ強いわ、京子さん」
憎しみも力みも含まない無邪気な感嘆が、どこか遠くから聞こえる。敗北と死。
しかし次の瞬間、柏木の側頭部になにかが衝突し、硬い音を立てた。京子の霞む目に見えたのは、大きな銀色の回転式弾倉。こんな本気の場にリボルバーを持ち込む男は、シャングリラ広しといえども一人しかいない。
一三〇〇グラムの金属塊をぶつけられた柏木の身体は大きく傾ぎ、首を絞める力が弱まった。京子は絡みついていた指を無理やり外した。口内に溜まった血が喉に流れ込み、激しく咳き込む。その赤い飛沫が柏木の顔にかかり、図らずも目潰しの役割を果たした。
京子は膝を折り畳み、のしかかっている相手の身体を両足で押し返す。血に濡れた喉で酸素を求めながら、なんとか立ち上がった。柏木も立ち上がろうとする。そのこめかみに、槌のような爪先での一撃。
その直後、京子は平衡感覚を失い、膝をついて床に這いつくばった。破けた頬から、また大量の血が落ちる。あと一撃加えられていたら、あと一秒首を絞められていたら危なかった。
柏木にとどめを刺す余力はない。しかしあとは緒方がケリをつけるはずだ。
「いい恰好だな、二人とも」
ほかに投げるものはなかったのか、宣言通り全員ぶっ殺したのか、ドミニクや他の隊員はどうなったのか。尋ねたいことは色々とあったが、今は口を動かすことすら困難だ。
さすがの緒方も疲労困憊といった様子だったが、当初の目的を果たすだけの体力は残っているようだ。太い脚を持ち上げて、柏木の首を踏みつける。
しかし体重をかける直前、ぎょっとしたように動きを止めたあと、慌てたように後退し、いきなり京子の腰ベルトを掴んだ。
「クソが」
緒方の太い腕が、京子をソファの陰に放り投げる。
直後、シアターホールを衝撃が突き抜けた。それは黒豹のビルであったような手榴弾の爆発だった。距離と遮蔽のおかげで破片に傷つけられることはなかったが、既に満身創痍の状態であった京子は、もはや意識を保つことすら困難だった。
一瞬五感が揺さぶられたあと、意識が深い海の底に沈んでいく。しかしそれはある種の安らぎでもあった。なにを感じる必要もない、冷たく暗い場所への逃避。
結局、作戦はどうなったのだろう? 緒方は無事か? いや、なにがどうなったにせよ、自分はやれるだけのことはやったのだ。これ以上はできない。
しばらく休もう。あるいはもっと長い間。このまま死ぬなら、それでもいい。




