二十五話 ダイユー突入
京子は暗い水面を見つめながら、ウィスパーから流れる歌を聴いていた。今や過ぎ去った日々に生き、早くして死んだシンガーの声は、絶望さえ突き抜けるような力強さに満ちていた。
あと少しで作戦開始の時刻を迎える。絶唱の途中で音楽を止めると、護岸に絶えず打ち寄せる、荒い波の音がフェードインしてきた。握りしめた希望さえ浚ってしまいそうな、虚ろで散漫な響きだった。
軍用ゴムボートの操縦手を除き、既に全員が集合している。事前の準備は滞りなく終了し、ジェットパックも装着した。あとは合図を待つだけの状態だ
ふ頭の一角にたむろする京子たちの気配は、宵闇をかき回すような強い海風で紛れている。しかし一旦海に出れば、密入国を取り締まるための哨戒レーダーやドローン――日本政府ではなく、イースト・シャングリラ社の所有――が航行の障害となる。
もし発見され、警備艇に追跡されるような事態となれば、これまでのすべてが水の泡だ。
少なくとも京子たちがボートに乗り、陸地から離れるまでの間、沿岸警備の目を欺く必要がある。そのためにはオートマタ社が設けたシステムのバックドアと、そこから侵入させるマルウェアが役に立つ。
ドミニクの説明によると、それは無制限に増殖し破壊を振りまくウィルスの類ではない。ほんの三十分ほど主要な機能を停止させ、その後何事もなかったかのように復帰させることで、騒ぎを最小限にしつつ目的を達成するスマートなプログラムらしい。
果たして正しく機能するのかどうか、京子に予測する術はないが、オートマタ社のエンジニアが挑戦してダメなら、きっと誰がやってもうまくはいかないだろう。
阪東が青白く光るデジタルウォッチの文字盤を眺めている。ドミニクが遠く南東の水平線に目を遣った。
午後八時ちょうど。護岸や海に向けられた探照灯の一部が消え、港はより一層濃い闇に包まれた。はじまりは静かだが、警備の一部は異変に気づいただろう。
二分後、波を切る音とともに小型舟艇が近づいてきた。無明の海に溶けるような三隻の軍用ゴムボート。乗員は十四名。京子と緒方は同じものを選んだ。速やかに、密やかに、十秒で全員が収容されたあと、ボートは静かに護岸を離れた。
滑り出しはつつがなく。しかしもちろん、ここで躓いていては話にならない。
ボートは衝突を避けるため、それぞれ距離を開けて進んだ。目視で探知されないよう照明はつけず、標的に近づくまではGPSを航行の指針とする。ダイユーまでの距離はおよそ九キロ、時間にすればほんの十分程度だ。
京子は腰に吊ってあるホーネットを確かめる。ケンジの店で調達した予備の弾倉は一つ。ユピテルの隊員はスイス製と思しきPDWを装備。
緒方もそれを使うよう提案されたが、彼はバジリスク――愛用の鈍重なリボルバーを使うことに固執し、結局は阪東もさじを投げた。これもまた、まともな神経の人間には理解できない思考だろう。
時折跳ねるボートの上で前方に目を凝らせば、もぞもぞと神経質に身じろぎする隊員たちの黒い背中が目に入る。彼らはこれから待ち受けるであろう苛烈な戦闘に昂ぶり、あるいは緊張で身を慄かせていた。
京子に恐怖はない。この三年でどこかに置き忘れてしまった。しかし緊張し殺気立った味方と一緒にいるのはどうにも居心地が悪い。便乗させてもらっている手前、文句を言えるはずもないが。
『〝傘〟を展開しろ』
交信用のチャンネルから、ドミニクの声が流れた。ボートが速度を落とし、船体中央の装置から、細い金属と黒い炭素繊維のシートが繰り出される。それはダイユーのレーダーに対する擬装として、文字通り傘のように京子たちの頭上を覆った。
出力を抑えたエンジンの音、隊員たちの息遣いが傘の中に籠る。弱く光るモニターの表示が、ダイユーまでの距離を示していた。
『目標まで残り一〇〇〇』
阪東が告げる。もし今傘を取れば、ダイユーの巨大な船体が見えるだろう。機関砲や重機関銃であれば既に射程範囲内だが、今のところ相手が撃ってくる気配はない。
『残り六〇〇』
ボートがさらに速度を弱める。隊員の一人が、傘を固定している留め具に手をかけた。
『残り二〇〇。傘を畳め。十五秒後にフェーズ2へ移行する』
黒い覆いが取り払われ、暗い海に浮かぶダイユーが姿を現した。船殻から見える屋内には、暖かく乾いた明かりが灯っている。遠く背後にある街の光は、対岸の房総半島だ。
『フェーズ2まで、四、三、二……』
ゼロの直前、ボート近くの海面にいくつもの水柱が立ち、一瞬遅れて連続した銃声が響いた。目視でこちらを認識した敵による、重機関銃での掃射がはじまったのだ。
『フェーズ2開始』
機銃の弾幕に晒されてなお冷静なドミニクの声が、作戦の続行を告げた。操縦手を除く全員が立ち上がり、ジェットパックを起動させる。
「緒方さん、明後日に飛んでかないでよ」
「言ってろ」
京子は訓練通り小さなレバーを操作し、空中へと飛び出した。周囲の人間、あたりを覆う暗闇。条件は多少違うものの、姿勢と慣性の安定が重要なのは変わらない。
白いライトに照らされる甲板上、三脚に設置された重機関銃の射線がこちらを向いた。京子が噴射角度の調整と重心移動で右にスライドした直後、味方が一人機関銃弾を受け、火花とともに四散した。
船に降りなければ反撃もままならない。京子は射角から外れるため一度大きく高度を稼ぎ、ほぼ直上から後方甲板への着地を試みた。
可能な限り勢いを殺しても、なお下肢にかかる衝撃は大きい。しかし京子は素早く立ち直り、ジェットパックを取り外し、ホーネットを構えた。おくれを取るわけにはいかない。
目前にはヘリポート。丸で囲まれた大きなHの文字がある。二十メートル先のガラス越しに見えるのは、高級クラブかと見紛うばかりの豪勢なラウンジだ。そこからは今この瞬間も、黒服に身を包んだ衛兵力が続々と吐き出されてくる。
先んじた隊員たちが機関銃手を排除し、屋内に向かって弾幕を張る中、ほぼ全員が甲板へと降り立った。緒方もなんとか海に落ちることなく到着したようだ。
「おーおー、ウヨウヨいやがんな」
俊豪も当然、襲撃を警戒していたのだろう。敵の中には拳銃だけの人間もちらほらいたが、あとから出てきた連中は、ほとんどがサブマシンガンやPDWで十分に武装していた。
椅子やカウンターを盾にして応戦してくる相手との間で、激しい銃撃戦が展開される。ラウンジと甲板を隔てるガラスは既に跡形もなかった。
京子も遮蔽の間を移動する一人を仕留め、バーカウンターの裏から顔を出した一人の頭を撃ち抜いた。その背後にある洋酒のボトルが砕け、血とアルコールが混じり合った。
損害を抑えつつ敵を排除することも重要だが、この作戦には速度こそが求められる。船を制圧したところで、嵐航を連れた俊豪がボートかなにかで逃げては話にならない。京子は危険を押して突出した。
身を低くしつつ左舷に沿って走り、ラウンジの入口まで到達する。割れたガラスを踏みしだき、室内に滑り込む。すぐうしろからユピテルの隊員たちも追いついてきた。
ラウンジは惨憺たる有様だ。飴色のテーブル、菓子やナッツを思わせる色のクッション、柔らかい光を放つシャンデリア。ほんの一分前まで持ち主の贅を誇っていたそれらが、いまや削られ、引き裂かれ、内臓を露わにしていた。
床には薬莢と死体が散乱し、空間には血と硝煙の臭いが充満している。銃声と広東語の怒号が飛び交い、あたりは殺意の坩堝と化していた。
二十人ほどいた衛兵力たちは半数ほどが死傷し、残りも徐々に後退をはじめた。緒方のバジリスクが火を噴き、一人の肉体に風穴を空ける。ユピテルたちが前進し、ラウンジの中ほどまで達する。
『うしろに無人機!』
ソファの陰から奥を窺う京子の耳元で、月華が鋭く囁いた。
身体をひねって背後を見ると、先程通過してきたラウンジの入口から、蜘蛛型の無人機がウゾウゾと入り込んでくるところだった。その数およそ十体。サイドデッキか船殻を伝って回り込んできたのだろう。
京子は自分に銃口を向けた一体を撃って沈黙させたが、不意を突かれたユピテルの何人かが、小口径の銃弾に倒れた。先程後退した衛兵力たちは、こちらを誘い込むための囮だったのだ。
「いつまでもチンタラしてられねえな」
バジリスクで無人機を粉砕した緒方が、京子の傍らにしゃがみ込んむ。ソファの上部が銃弾で削られ、木端が飛び散った。
「左奥に螺旋階段がある。大物はあの上にいるはずだ」
京子も階段の存在には気づいていた。衛兵力の何人かがそちらに注意を向けていたのも。俊豪か嵐航か、あるいは両方が上のフロアにいるのだ。
「三で飛び出すぞ。一、二の……」
ソファの陰からラウンジ中央を横切り、十メートル先の螺旋階段へと走る。それに気づいた衛兵力の一人が、必死の形相でこちらを阻止しようと立ち塞がってきた。
京子は疾走の勢いそのままに磨き上げられた床の上をスライディングし、相手の両足を払うように蹴った。転げた身体を緒方が踏みつけると、骨の折れる鈍い音が響く。
そのとき、奥にある二つの扉から、タクティカルスーツに身を包んだ十数人の部隊がラウンジに躍り込んできた。衛兵力の精鋭部隊、黒ずくめの屍たちだ。




