二十三話 合流
「俺たちもすっかり地下の住人になり果てたな」
「いっそ黒豹から黒ミミズに改名するとか」
「いねえだろそんな生き物」
ケンジの店を出て、京子たちは再び地下に潜った。薄暗いコンコースに降り立ち、なるべく細い道を選びながら合流地点を目指す。奇襲で一度に殺されないよう、京子は緒方の七、八メートルうしろをついていく。ウィスパーは通話状態を維持し、互いの状況が把握できるようにしてある。
たった数時間前までは周到な準備の内にあった。しかし今では一瞬先も分からない混沌の中。そういった状況に慣れていない、というわけではないが、柏木がほくそ笑んでいるかもしれない、と思うと腹が立つ。
ペンライ・カジノで柏木が口にしたこと。自分は過去や未来をあまり考えない。今が楽しければいいタイプだという言葉。そのまま受け取れば確かに薄っぺらい、ありふれた言い回しに聞こえる。
だが今この状況と併せて考えればどうだ。京子も情に篤い人間ではないが、裏切り行為を働きながら、あんなに飄々と過ごせない。嗤いながら人を陥れるようなことはできない。
柏木にはそれができる。過去も未来もなく、後悔も不安も葛藤もないから。あの自己紹介はおざなりに見えて、実は柏木の本質をこれ以上ないほどに言い表していたのかもしれない。
とはいえただ刹那的であるだけの人間が、あそこまでの境地に至れるとは思えない。格闘や銃の腕、致命傷を避ける立ち回りと判断力。躊躇なく危険に踏み込める自負と覚悟。生まれつき持ったものを、丁寧に妥協なく磨き上げた結果だろう。
今思えば、京子と手合わせした際にも、巧妙な力の加減が含まれてはいなかったか。
恐ろしい相手だ、と京子は思った。今まで敵や標的をそんな風に評したことはなかった。手強いとか、残忍だとか、そういったものとはまた違う、得体の知れない感覚だった。
しかしどのような感情を持つにせよ、彼が潘俊豪への途上に立つならば、必ず殺さなければならない。
物思いをしながらも、京子は周囲に油断なく注意を配っていた。なにかと放置されがちなモグラ街だが、衛兵力の人員を持ってすれば、しらみつぶしの捜索も不可能ではない。
すれ違う人間を素早く観察し、モグラ街の住人なのかそうでないのか、こちらに関心を持っているのかいないのか、怪しげな動き、通信がないかどうかを確かめる。
合流地点まであと三百メートルほどのところで、京子たちは白いアーチ状の天井を持つ幅広の通路に行き当たった。脇には大勢のホームレスが座り込んだり、寝転がったりしている。
地面に近い場所は彼らの財産であるガラクタや、汚れや落書きで覆われている。
隠れながら進めるような細い迂回路はない。落ち着いて歩を進める。
壁際に溜まるホームレスたちに視線を走らせる。三十メートル先、京子は持たざる者たちの中、わずかに不自然な存在を見つけた。
五十代を過ぎた男。着ているのは安物だが、妙に新しい。髭が伸びていない。目線が下がっていない。身の回りにある物品が少ない。いくつかの情報が偽装を示している。
対処したいが、この場所で銃声を響かせるわけにはいかない。囁き声で緒方に呼びかける。
「十一時の方向、青いキャップの男。衛兵力かも」
『問題ない。そのまま歩き続けろ』
京子は背後にも気を配りつつ、歩調を維持する。
一方の緒方は小細工もなにもなく、大股で偽ホームレスに近づいていった。当然相手もそれに気づくが、緒方は歩調を緩めない。仲間に知らせるか、一旦逃げるか、立ち上がって応戦するか、相手が躊躇っているうちに、二メートルの距離。
腰を浮かせた男に対して、緒方が無言のまま、容赦のない蹴りを浴びせる。たまらず座り込んだその首にもう一撃。倒れた頭にダメ押しの踏みつけ。歯が砕け、唾液と血液を吐き出す男の耳からウィスパーをむしり取り、握り潰す。
周囲のホームレスが案外無関心なのは、多分、男が新参者だったからだろう。
行くぞ、と緒方が目で合図する。
『京子ちゃん、うしろから人。どこかと通信してる』
月華が足音と電波を捉えた。振り返ると、見るからに衛兵力と分かる四人組がこちらに向かってくる。
合流地点まではまだ少し距離がある。ここは一旦逃げるのが得策か。京子は緒方と頷き合い、通路を走りはじめた。五十メートルほどうしろにいる衛兵力たちが、広東語の大声で叫んだ。
太腿の傷がわずかに痛んだが、スピードに影響があるほどではない。
数発の銃声がした。悲鳴が上がり、近くのホームレスが流れ弾に倒れる。
騒ぎが拡大する中、京子と緒方は走り続ける。残り百五十メートル、百メートル、五十メートル。
やがて通路の終わり、地上へのエスカレーター付近に、大柄な金髪の男が見えた。
「緒方さん、先に」
身体を反転させ、ホーネットを抜き放つ。衛兵力たちは四十メートルの距離まで迫っていた。京子は片膝立ちになり、追手の先頭に狙いを定めた。
発砲と共に、衛兵力の一人が仰向けに倒れる。間髪を入れず二人目の胸を撃ち抜く。残りの二人は足を止め、拳銃を両手で構えて左右に散開した。京子が地面を蹴って横転した直後、元居た場所を通り抜けた弾丸が、床のパネルを派手に跳ね上げた。
耳のすぐ傍、空気を切り裂くパラベラムの音を聞きながら、京子は三人目を撃ち倒す。それと同時に背後でも銃声が響いた。最後に残った衛兵力が顔面に弾丸を受け、ぐにゃりと力を失って倒れる。
京子が振り返ると、ドミニクの自動拳銃が硝煙を上げていた。
「オガタ、キョウコ、急ぐぞ。すぐにヤツらの仲間が集まってくる」
今来た道をホーネットで警戒しつつ、ドミニクに従う。たむろしていた数十人のホームレスたちもさすがに多くが逃げ去り、残る少数は怯えた目で衛兵力の死体や京子たちを見ていた。
エスカレーターを駆け上がると、そこには黒塗りのワンボックスが控えていた。スモークガラス。高荷重に耐える強化タイヤ。五、六人の小部隊が市街地を移動するために使う、ユピテルの専用車といったところか。
待機していたのは運転手が一人。早速それに乗り込み、その場を離れる。
「君たち二人だけか?」
走り出した車の中で、ドミニクが尋ねた。
「そうだ。戦闘員はほとんどやられた。多少は隠れてるだろうが、本拠地が襲撃されたからな、集まろうにも集まれない」
緒方が答える。ドミニクはそれに失望するでもなく、動揺するでもなく、冷静に事実を吟味している様子だった。
「こちらも動員できる数は多くない。せいぜいが二個班、十二人。自由に動ける味方は二人だけでもありがたい。もし給料が欲しければ、現地雇用隊員としての待遇もあるが……」
「アメリカンジョークか?」
緒方の反応に、不敵な笑みで返すドミニク。
「ボランティアでも楽はできないぞ。さっき以上の危険は覚悟することだ」
*
京子はてっきりオートマタ本社かその付近に行くのかと思ったが、ワンボックスが向かったのは意外にもシャングリラ南東部、本牧方面だった。以前アスール・カルテルと戦った廃病院もこのあたりだ。オールド・チャイナタウンやシャングリラ・リゾートに比べれば、確かに監視の目は緩い。
本牧ふ頭の敷地に進入し、並ぶ倉庫の間を走る。そのうち一つが、ユピテルの拠点であるらしい。運転手が目指すそれはほかのものと変わりなく、くすんだ灰色の外壁を持つ、無個性で無表情な建物だった。
ゴウゴウと風が鳴り、分厚い雲が頭上を流れる。京子たちは車を降り、その固く閉ざされた鉄扉の前に立った。ドミニクがウィスパーでなにかを命じると、自動で戸が動き、薄暗い内部が明らかになった。
PDWを持った隊員が一人顔を覗かせ、全員を中に招く。
倉庫の中では小さい方だが、それでも広さは二〇〇〇平米、天井も十五メートルを軽く超えるだろう。スペースの一部は、黒豹ビルにあったのと同じような射撃訓練場、屋内戦闘訓練場になっている。
片隅にあるプレハブが、どうやら簡易的な事務所、あるいはブリーフィングルームになっているようだ。その近くではベンチに座った四人の隊員が、思い思いに時間を潰していた。二人は日本人、一人は黒人、もう一人はおそらくヒスパニックだ。
「大尉、ご苦労様です」
日本人が立ち上がり、英語で声をかけて敬礼する。さすがにこのあたり、軍隊に準じる組織といった風だ。
「中尉、ブリーフィングの続きをしよう」
残りの隊員たちも既に立ち上がっていた。中尉と呼ばれた男が目で合図すると、彼らも京子たちを招き入れてから、続いてプレハブへと入った。
「彼の名前はバンドウだ。私の副官を務める」
部屋には中央のアルミテーブルと、簡易なスツールが八つあるだけ。そのほかは四方の壁に備えつけられた投映装置が、うすぼんやりとした光を放っていた。
ドミニクと阪東。指揮下の隊員五人。それに京子、緒方を加えた合計九人が入ると、プレハブはかなり狭苦しくなった。隊員たちは皆切り替えが早く、無駄口を叩かずテーブルにつき、あるいは壁に背を預けた。
しょっちゅう毒づいたりお喋りをしたり、虚勢を張ったりする黒豹の構成員たちより、よほどマナーのいい連中に見える。かといって緊張しているかというとそうでもない。任務の前に無駄なエネルギーを使わないよう、普段から心がけているのかもしれない。
「先程話した二人だ。作戦に組み入れることになった」
隊員たちは互いに目を見交わすが、異論を挟む者はない。このあたりも黒豹とは違う。
「こうも違うかね。ウチの連中とは」
京子とまったく同じ感想を抱いたらしい緒方が、小声で呟いた。
「今度はリクルートと教育にもっと投資したら」
「いいかな、お二人さん」
部屋奥のホログラムを示しながら、阪東中尉が言う。京子は口を閉じ、そちらに目と注意を向けた。




