二十二話 敗走
事情を知らない、うらぶれた姿の通行人とエスカレーターですれ違う。血の臭いに気づき、振り返り、小さく息を呑む。
しかしそれだけだ。関わり合いになろうとはしない。トラブルに巻き込まれるのは誰だってゴメンなのだ。もしこれが京子一人だけなら、多少は違ったかもしれない。
エスカレーターを降りた先の、広大な地下街。衛兵力の目を避けるために奥へ。枝道へ。血が垂れないように気を配る。通りがかる人々は、さすがに皆怪訝な目を向ける。しかし京子や緒方の纏う死と暴力の臭いが、望ましくない干渉を遠ざける。
やがて京子は、少しの間隠れられそうな場所を見つけた。廃墟に蓋をかぶせただけのようなマッサージ店の裏手。段ボールの破片やペットボトル、ボロボロの衣服や紙くずが散乱するビニールシート。
もしかすると、普段誰かが寝起きしている場所なのかもしれない。そこに座り込み、一息つく。
「緒方さん、背中見せて」
手榴弾かコンクリートの破片による傷。しかし誰かの身体が盾になったのか、爆発からの距離に比べればダメージは軽い方だ。とはいえ、ここでは満足な応急手当もできない。放って置けば、傷口が化膿して命に関わるだろう。
京子は自らの傷にも目を落とす。太腿に銃弾が掠ってできたもの。放って置いても死にはしないだろうが、できるなら早めに治療しておきたい。
「なにが起こったか、見てたか?」
緒方が尋ねた。
「……見てた」
「言ってみろ」
「健一がいた。にやにや嗤いながら、逃げた」
「……だろうな。マンティスの銃声がしないと思った」
緒方が低い声で言った。背後で爆発が起こったときには、薄々予感していたのだろう。
不愉快そうではあったが、大きな動揺はなかった。証券ディーラーが落ちていく株価チャートを見ているような、あくまでも平静さを失わない態度だった。
「土壇場になってなんでこんな」
「土壇場だからだろ。裏切り者だったのはずっと前からだ。多分な」
これまでの行動。どこまでが柏木の本心で、どこまでが裏切り者としての演技だったのか。
廃病院で京子を労ったときはどうだ。模擬戦で悔しさを見せたときはどうだ。カジノで身の上を語ったときは。京子の背中をドローンから守ったときは。
虚偽と真実。はっきり区別できるものではないのかもしれない。柏木はなにを考えながらそれをやったのか。そしてなんのために、誰のために、仲間を殺すような真似をしたのか。
「ムカつくなァ」
緒方が言った。
「なにに」
「当ててみろ」
面倒臭い男だ。
「ビルが滅茶苦茶になったこと」
「違う」
「仲間が殺されたこと」
「もちろんあるが、一番じゃない」
「人間を見る目がない自分のポンコツっぷり」
「それは言い過ぎだ」
いいか、と緒方は京子に顔を近づける。
「一番気に喰わないのは俺が生かされたってことだ。マンティスで後頭部を撃つこともできたはずなのに、そうしなかった。
同情や義理じゃない。適当に怪我をさせておけば十分だ。あとは放って置けば大丈夫。シャングリラから逃げ出すか、少なくともほとぼりが冷めるまで身を隠すかしているだろう。そういう舐め腐った態度にムカついてる」
「どう考えても殺す方が手っ取り早いのに」
「上司の意向とかだろ。心当たりはある。コトが済んだら締め上げてやるさ」
「なにするにしたって、まず医者行かないと。いないの、かかりつけの闇医者とか」
ふうん、と口を曲げた緒方が、やがて一人の名前を挙げる。
「……確かに馴染みかもしれないけどさあ」
京子は言った。信頼はできる。しかし有力者ではない。危険を冒して緒方を匿うだろうか。
「なに、ちょっとの間隠れるだけだ。ここからも近いしな。あぁクソ、痛え」
苦しげに呻きながら、緒方が立ち上がる。追手を撒いたらしいとはいえ、背中から血を流している男は目立ち過ぎる。一か所に長く留まるのは危険だ。残弾はまだ少しあるが、衛兵力に見つかった場合、長く抗うことはできないだろう。
京子は傍らに転がっていたニット帽を被り、緋色の髪を隠した。湿っており、酷く臭うが、背に腹は代えられない。緒方にも同じようなジャンパーを羽織らせる。傷口に菌が入るかもしれないが、遠くから発見されて撃たれるよりはましだろう。
モグラ街の最底辺と同じような格好になったところで、二人は隠れ家となるべき場所へと移動をはじめた。
*
以前は野毛と呼ばれていた場所に、小さな修理工の店がある。修理工といっても、扱うのは電化製品や配管などではない。元々陸上自衛隊に所属していた店主のもとを訪れるのは、彼に銃の整備や弾丸の購入を依頼する裏稼業の人間だ。
二人が戸口に立ったとき、店主はなにも言わず中へと招き入れた。京子のウィスパーであらかじめ連絡を取っていたとはいえ、詳しい事情を伝えていたわけではない。
しかし店主は普段の仕事と同じように淡々とした様子で、動揺も怯えもなく事態に対応した。
薄暗い店内には、先程まで吸っていたのか、タバコの臭いがする。
「わりいなケンジさん。面倒なことに巻き込んで」
「ああ、まったく迷惑だね。いいから傷を見せな」
緒方と店主がどのような間柄なのか京子は知らなかったが、そこには明らかに、古い付き合いだという以上の気安さがあった。
ジャンパーとTシャツを脱がせ、焼酎をぶっかけ、患部の血を拭き取る。
「攻撃型手榴弾か。屋内で使うような、殺傷範囲が狭いヤツだ。例によって内戦の余りもんだろ。破片は一応取っとくか?」
「頼むわ」
外傷の治療に心得があるらしい店主は、京子に止血の指示をしながら、背中にめり込んだ金属片を、ピンセットで一つ一つ取り除いていく。先程の消毒といい、かなり痛いはずだが、緒方は毒づきこそすれ、泣き言は一切口に出さなかった。
京子も焼酎と包帯を貰い、自分の傷を手当てする。多少は痛むが、動作に大きな支障は出ないだろう。
時刻は午前十一時。屋外では雨が降りはじめたようだ。京子と緒方は居室なのか倉庫なのか分からない板敷の部屋で、傷ついた身体を休めていた。もちろん、長くそうするつもりはない。
「緒方さんは、ここで脱落?」
京子は煽るような口調で言った。脱落というのはすなわちシャングリラの外へ逃げるということだ。しかし銃による抗争が警察の介入を受けないのも、傷ついた人間が歩き回って通報されないのも、ここがシャングリラだからに過ぎない。
外に出ればそこは紛れもなく日本国であり、犯罪者が犯罪者として扱われる法治国家だ。事件に巻き込まれた人間が病院に駆け込めば、医師は警察に通報する義務を果たすだろう。
「警察に捕まるぐらいなら、チンピラに蹴り殺された方がマシだ」
緒方の性格から言って、強がりではない。
「俺は自分がヤクザだとは思っちゃいないが、ヤクザと同じぐらいメンツは大事にする。兵隊がいなくとも金があればいい、金がなくとも意地があればいい。全部なくしたらただの凡人だ。凡人として生きるつもりはない」
「決意は結構だけど、どうやって意地を見せるの」
「京子、まだ潘俊豪を殺す気があるか?」
「…………」
「聞くまでもなかったな」
当然のことだ。もし緒方がここで脱落したとしても、シャングリラを出るつもりは毛頭ない。
「ま、俺を見捨てて単独行動に戻るってんなら、それも一つだ」
もちろんそういう選択肢もある。しかし冷徹な計算の上で動くとしても、緒方や彼が持つコネクションには意味がある。
そしてなにより柏木は、きっと再び緒方の近くに姿を現すだろう。以前と同じ、飄々とした顔で。彼に対しての気持ちは、復讐というほど大層なものではない。自分を舐めた人間に、相応の代償を払わせるだけだ。
それは浅い睡眠の習慣と同様、シャングリラで過ごすうち、いつのまにか身についた行動原理だった。
「ひとまず、状況を整理しよう」
緒方が言った。
「さっき襲ってきたのは屍の連中。これは俊豪の命令で動く。もちろん黒豹とは敵同士だが、表面上、殺し合いになるほど対立が激化してたわけじゃない。潰せば潰したで、向こうさんにデメリットがある、っていう関係だった。じゃあ、なぜ襲ってきたか?」
「潰すことによるメリットが生じた」
京子は答える。理解度をテストされているようで気に喰わなかったが、全貌を把握しかねていたのは事実だ。
「正確には逆だな。潰さないことによるデメリットが新たに発覚した。この場合は大詰めを迎えつつあった襲撃計画だ。もちろん、情報の漏洩には気をつけていた。こないだお前が殺ったヤン――楊博文も、核心までは掴んでいないはずだ」
「私は知ってるけど」
「お前に教えたのは、引き込むのに必要だったからだ。健一に教えたのは……、まあ、ちょっと迂闊だったかもな」
「節穴」
「うるせぇ」
「で、そこから俊豪に情報が漏れた?」
「直接繋がってたとは考えにくいが、結果的にはそうだな。気になるのは、ほかの動きだ。嵐航、ユピテル、衛兵力」
「衛兵力の方はもうダメでしょ」
「だろうな。董鎮氷の後釜に据えたヤツは、クーデターを起こせるようなタマじゃない。頭抑えつけられりゃだんまりだ。気になるのは嵐航」
俊豪にしてみれば、嵐航は自分を暗殺しようとした黒幕。しかし同時に実の息子でもある。一時は衛兵力の副長官を任せたが、そのときも確か野心を持ち過ぎて左遷されたという話だ。二度目はないということになるか、それとも親子の情がものを言うか。
「自分の計画が俊豪にバレたとなれば、強引に行動に移すか、あるいはなんとか隠蔽なり逃げ切りを図るなりするか。ヤツが俺たちを生贄にして降参した、という線もなくはない」
なんにせよ、把握できない情報が多い。とはいえひとりでに集まるのを待っていては、状況が悪くなるばかりだ。
「一応、ユピテルには知り合いがいる。なにか話が利けるかも」
京子は言った。
「おいおい、意外なコネクションだな」
「こっちの事情は、色々伝えちゃっていいんだよね?」
「今更知られて困ることなんてねえよ」
「……月華、ドミニク・ブラッドフォードに通話要請」
『はいはぁい』
若干投げやりな緒方の傍らで、応答を待つ。
『私だ』
少ししてから通話口に響いたのは、ホテルで会ったときとも、教会で会ったときとも違う、緊張感のある声だった。彼は今、ユピテル大尉として行動しているのだろう。
「こちら赤羽京子。今、黒豹の緒方と一緒にいる」
『生きていたか。黒豹のビルに襲撃があったと聞いた』
「まあね。今は近くに避難中。そっちの状況を知りたい。必要に応じて連携を取る」
連携、という言葉には多分に見栄が含まれている。二人しかいないと知られていれば、失笑されても文句は言えない。
ドミニクは少しの間黙っていた。伝えるべき情報と、そうでないものとを吟味しているようだった。
『こちらも同様に襲撃を受けた。ただし我々が目的ではない。護衛対象の……嵐航だ。移動中敵部隊と遭遇し、隊員が死傷。嵐航は拉致された』
「……いつ?」
『二時間半前だ』
黒豹襲撃とほぼ同時。となれば、やはり計画の全貌が知られている可能性が高かった。裏切り者はきっと複数いたのだろう。隠れていたリスクが顕在化し、グループが崩壊に向かいつつある。
「ユピテルはどうするつもりなの」
『当面の任務が変更される。護衛から、奪還へ。最終目的に変更はない』
最終目的。すなわち潘俊豪の暗殺。彼らはまだ挽回の目があると信じている。おそらく緒方や京子とは異なる行動原理に基づいた判断なのだろうが、目的が一致さえしていれば、動機の違いはあまり重要でない。
「そっちに合流したい」
『協力関係は継続している。事情は変わったが、こちらに拒む理由はない。だが、迎えを出すほどの余裕はないぞ。合流地点を設定するから、そこまで来てくれ』
京子は緒方の方をちらりと見遣ってから、条件を呑んだ。
『……シェリーに叱られるな、これは』
「そういうのは、コトが済んでから考えて」
通話を終える。次の目標が決まった。
「緒方さん、出発の準備」
「もう少し待て」
「傷が痛む?」
「いざというとき弾ナシじゃあ格好つかんだろうが。用意してもらってる」
緒方が持っていたショットガンは逃走の際に失われていた。今あるのは445スーパーマグ弾が装填可能なバジリスクのみ。京子のホーネットはまだ弾を残しているが、補給があるに越したことはない。
しばらく座って待っていると店主が現れ、二人の前に箱入りの弾丸を置いた。
「支払いは今度でいい」
「ああ、次は整備も頼む。最近撃ちまくってるからな」
ついでに臭いニット帽とジャンパーを捨て、銃を隠せるような衣服を借りる。京子には少し大きすぎるが、モグラ街の住人は気にもしないだろう。
「もっと派手にいきたいもんだ」
「爆薬でも腹に巻いて突っ込めば」
「それも悪くない」
ドミニクに示された合流地点は、ここから直線で一キロ強。車で移動する、雨の中徒歩で移動する、地下街を移動する。どれにせよそこまで時間はかからないが、先程までと同じように、モグラ街を経由するのが一番安全だろう、と京子は判断した。




