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スカーレット・ホロウ  作者: 黒崎江治
ミッション1 廃病院
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二話 黒豹の男

 無風地帯という名前は一見穏やかな印象を与えるが、それは大きな勢力による抗争がないとか、奪い合う程の利権がないというだけであり、決して安心して暮らせる地域というわけではない。


 身の安全を第一にする人間はシャングリラに近づかないし、中に仕事がある人間でも住居は外に構える。しかし京子には、そうできない理由と、そうしたくない理由があった。


 ホーネットをボストンバッグにしまい直し、意識不明のフィリピン人から注意を外す。この気温なら放置していても凍死はしないだろうし、もしそうなったところで大した問題ではない。


 スニーカーの裏で濡れた路面を踏みながら、京子は再び雨の無風地帯を歩きはじめた。


 狭苦しい通りに軒を連ねる伝統的なスタイルの居酒屋や、雑多な国籍の飲食店の中に、京子の住処もバーという形で店を構えていた。


 今は看板の照明も消しているが、夜になれば立体映像(ホログラム)装置で、Poison(ポイズン) Hydrate(ハイドレート) というピンク色のフォントが浮かび上がる。


 黒っぽい木製のドアを開くと、席数せいぜい十五の薄暗い内部が露わになる。ポイズンハイドレートは小さな店で、客はほとんど顔見知りのような常連ばかりだ。


 樹木のこげ茶と濃い紫を基調としたインテリアは、店主のやや古風な趣味によるものだった。


 今、カウンターの裏で寝ぼけ眼を擦りながら朝食の準備をしているのは、シェリーという名の女性だ。黒く長い髪に中性的な目鼻立ち、それに不似合いなやけに大きい眼鏡。


 若く見えるが実年齢は不明。日本語、英語、広東語を流暢に話すが、出身国も不明。ただし英語の発音から、シンガポールに長くいたらしいことは推察できる。


 彼女はここ二年の間京子の保護者であり、大家であり、雇用主だった。


 雇用といっても血生臭い種類の、非合法な仕事ではない。銃ではなく、トレーと、グラスと、アイスピックを使うバーの仕事だった。京子が週に十五時間の労働を果たすと、家賃と光熱費と食費が無料、という取り決めになっている。


 それ未満の場合は京子が支払い、それを超える場合はシェリーが支払う。シャングリラ中心部での仕事に比べて割がいいわけではないが、気を使わなくていいのと、勤務を柔軟に調整できるのは都合が良かった。


「おかえりなさい。朝ごはん食べた?」


 シェリーが顔を上げた。匂いからして、焼いているのは卵とベーコンらしい。脂がパチパチと音を立てる。


「食べた食べた。もう十時だよ」


 彼女は京子の裏稼業に気づいているようであるが、普段は特になにも言ってこない。


 シャングリラに住むような人間は多かれ少なかれ傷や秘密を持っているので、過去や稼業の詳細を曖昧に納得しておくのは、住民にとってある種のマナーだと言えた。


 もっとも、まったく無関心というわけでもないようで、身の上を心配するような発言は時折投げかけられる。


 京子は店の奥から階段を上がり、二階にある自室に入った。せいぜい四畳半ほどの狭い部屋の中には、ベッド、クローゼット、それからウィスパーに接続可能なアクリルフレームのELディスプレイがある程度だ。


 あとは、銃器を納めておくためのプラスチックケースと、手入れをするための道具。京子の性格に合わせた、飾り気のない住処だった。


 ボストンバッグからホーネットを取り出して、ケースに収める。ポリマーが多用されたこの小型PDWは、弾丸を除けば九百グラム強と軽量だ。


 単射であれば二百メートルまでかなりの集弾性能を誇り、連射となれば一分間に八百発を撃ち尽くす。京子はどのような局面にも対応できるホーネットの汎用性を高く評価していた。


「月華、いつもの音楽」


『はいはぁい』


 ベッドに寝転び、音楽を聴く。京子は一九七〇、八〇年代アメリカのロックを好んだ。アーティストが生きていた時代に聴くことはなかったが、両親はよくそうしていたらしい。


 歌うのも好きだったが、音程を取るのが酷く苦手だったので、人前で歌うのは控えていた。


 京子がしばらく調子外れな歌を口ずさんでいると、不意に音楽のボリュームが下がった。


『京子ちゃん。黒豹の緒方さんから通話要請』


「切断で」


『……あ、待って。話さないと後悔するけどいいのかって』


 この二年間、緒方は何度か通話を要請してきた。京子はすべて拒否していたが、後悔するなどと言って食い下がってくるのははじめてだった。なにか特別な事情の存在を予感して、要請を受けることにした。


「……じゃあ、話す。音楽消して」


 一瞬小さなノイズが混ざり、通話が切り替わった。


『よう京子。久しぶりだな』


 ウィスパーから野太い声が響いた。


「一回聞こうと思ってたんだけど、なんでこのアドレス知ってるの?」


『俺はなんでも知ってる』


「黒豹に帰ってこいって話?」


『そうだ。だが今回はご褒美がある。聞きたいか?』


「なに」


 ご褒美、という言い方が気にかかった。京子が月並みな報酬で靡くことはないと、緒方はよく知っているはずだ。


『どうしようかな……』


「切っていい?」


『まあ待て。潘俊豪(ハンシュンゴウ)の暗殺に一枚噛ませてやる』


「…………」


 潘俊豪。


 その名前は京子の気持ちを不規則に波立たせた。忘れたくても忘れられない、そして忘れるつもりもない名前だった。俊豪は当時十一歳だった京子の父母を殺した組織の黒幕であり、シャングリラ一のビッグネームでもある。


『興味を持ったな? まずは事務所に顔を出せ。そこで話してやる』


 緒方は言った。そして京子の答えも待たず、通話を打ち切った。


 京子は少しの間目を閉じ、緒方の真意に想像を巡らせた。それから一度ケースに収めたホーネットを取り出し、弾倉を入れてボストンバッグに突っ込んだ。部屋を出て一階に降り、ようやく朝食を摂りはじめたシェリーに外出を告げる。


「また出るの? 行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から顔を覗かせた白い太陽が、濡れたアスファルトの表面を明るく照らしていた。

 

       *


 二〇〇八年に起こった世界史上の大事件は、今なお東アジアの各地にその爪痕を残している。


 これまで政治的なひずみを高い成長率で覆い隠していた中国は、二〇〇七年の後半、突如として崩壊した不動産バブルにより、急激な景気後退(リセッション)に陥った。


 それは経済の破局を招いただけでなく、これまで抑え込んできたリスクを一気に顕在化させた。


 結果として、一九四九年から続いた中華人民共和国は致命的な地割れを起こした。共産党および北京政府の威信や影響力は急低下し、割拠した軍閥同士の苛烈な内戦が発生した。


 はじめは国内だけの争いであったが、規模と影響の大きさを考えれば、周辺諸国の介入は不可避だった。


 世界の盟主たらんとするアメリカ、ここぞとばかりに南下しようとするロシア、十九世紀の再現を狙う欧州資本、元々領土紛争を抱えていたインドなど、内戦はやがて各国の思惑が入り乱れた代理戦争と化し、戦場はさながら世界の兵器メーカーによる博覧会の様相を呈した。


 蒼穹を切り裂く戦闘機の編隊。シルクロードを疾駆する装甲車両(A F V)の群。対戦車兵器を担いだ非正規兵(ゲリラ)。それを狩り出そうとする武装無人航空機(ドローン)


 悲惨な戦禍は三年もの間、広大な中国大陸を席巻した。最終的には戦闘員と非戦闘員を合わせて一千万以上の死者を出し、かつて中国だった領域を六つに割る形で一応の終息を見た。


 その割拠した勢力の一つが、広州や深圳、香港などを支配下に置く華南(かなん)軍閥。そして軍閥の権力者である潘俊豪が政争に敗れ、日本へと亡命してきたのが二〇一一年のことだった。


 俊豪の亡命受け入れは日本政府にとって極めて危険な綱渡りだった。ところがこの狡猾な政治家は、二〇〇七年に香港沖で発見されていたメタンハイドレート鉱床の利権を持ち、それをある程度自由に差配することができた。


 そして結局、日本経済に一瞬の浮揚を約束する代わり、完全な保護を獲得したのである。


 しかし俊豪には日本で隠居するつもりなどなかった。この男は政治家としてだけではなく実業家としての才覚も発揮し、桜木町の新港地区で建設が完了したばかりの統合型リゾートを運営する、イースト・シャングリラ社の最高経営責任者(C E O)に収まってしまったのである。


 彼が腰を落ち着けた横浜中華街が膨張しはじめたのは、このときからだった。


 俊豪はメタンハイドレートの利権とイースト・シャングリラ社が稼ぎ出す豊富な資金を背景に、地価の低下に喘いでいた横浜中華街周辺の強引な開発を推し進めた。


 企業を買収し、商業ビルを建て、技術を導入し、インフラを整備した。湯水のように資本が投入されるさまは、沈滞した生活に慣れていた日本人にとって、一種の狂騒とも映っただろう。


 亡命から四年が経ったころには桜木町駅が彼の勢力圏に呑み込まれ、七年後の二〇一八年にはその辺縁が横浜駅に到達した。いつしか桜木町と関内の一帯は、シャングリラと呼ばれるようになっていた。血みどろの内戦が、図らずも生み出した東方の楽園。


 中国内戦に伴う経済的な大混乱に陥る前から、日本は不可逆的な衰退の道を辿っていた。メタンハイドレートによってもたらされた豊かさも、所詮は一時しのぎにしかならなかった。


 しかしこのシャングリラ一帯にだけは、十分な量の金が回っていた。カジノ、ホテル、その他の娯楽施設に落とされる大量の外貨があり、それによって成り立つ雇用があった。


 老いていく日本の中でシャングリラだけが若々しく、そこで生活する人々は華やかで豊かであるように見えた。そして豊かさはこの時代、日本のほかの地域では極めて手に入りにくくなっていた。


 しかし光が強ければまた影も濃い。東アジア最大の繁華街となったシャングリラで俊豪は皇帝となり、日本政府の介入すらはねのけるほどの力を持った。


 当然のことながら不正が横行し、無法が蔓延った。いくつもの組織が暗躍し、イースト・シャングリラ社が取りこぼした利権を奪い合うようになった。その手段としての暴力も、ごく一般的なものとして見られるようになっていった。


 使われているのは、内戦の終結でだぶついた大量の武器だ。


 かつて京子が身を寄せていた黒豹という組織も、シャングリラにおいて利権の切り取りを狙う勢力の一つだ。関東に根を張っていた広域暴力団の三次団体をその前身とし、元々は芸能と性風俗を資金源としてきた。


 数年前、緒方戒(おがたかい)という男をトップとする体制となってから急速に規模を拡大し、現在約三百の構成員を以て、シャングリラ南西部の黄金町周辺を縄張りとしている。


 今、京子はその古巣に戻ってきていた。駅の近くにある地上六階、地下三階のビルが、丸々黒豹の所有物だ。茶色い石材の壁面を見上げながら、京子はかつてこの建物に出入りしていた時代を思い出し、短く感慨に耽った。


 この場所から一キロと離れていないポイズンハイドレートに住んでいるのも、いつかはここに戻らざるを得ないという、無意識的な予感があったからなのかもしれない。


 ビルの入り口近くで、目つきの鋭い警備員がこちらを見た。しかし既に緒方から情報が伝わっているのか、身元を確認されることすらなかった。出奔したのは二年前のことなので、あるいはまだ顔を覚えられているのかもしれない。


 小さく頭を下げた警備員を横目に、京子はボディチェックもなく玄関ホールを通過した。そのまま非常階段で六階へ向かう。


 京子は出入りしていたときの記憶から、ビルの全フロアをおおまかに把握していた。一部を除いて、雰囲気は一般の企業とさほど変わりない。このような組織であっても、必要のない場面であからさまな暴力が見られることはない。


 かつて所属する何人かと関わる機会もあったが、彼らもほとんどの場合、普通のビジネスマンと大きくは違わなかった。


 息を上げることもなく階段を昇り切った京子は、重い防火扉を開いて階段室を出た。


 六階フロアはデザインに曲線が多く用いられ、五階以下のフロアとは雰囲気を異にしている。京子はクリーム色の間接照明と、その光を吸収する黒いカーペットに囲まれた廊下を進んだ。


 フロアの配置は二年前とほとんど変わっていないようで、記憶通り、奥の一角に緒方の部屋があった。ドアの前に立つと、内部からは呻き声と荒い息遣いが聞こえてくる。


 強めに二度のノック。


「入れ」


 部屋の中も、雰囲気はフロアとほぼ同じだった。ただし中にはトレーニング用の器具が置かれ、広いスペースのたっぷり半分を占有している。今も部屋の主が上半身裸で懸垂スタンドにぶら下がり、十何回目かの昇降を終えたところらしかった。

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