十九話 制止不能
車窓から見えるのは静かな朝の繁華街。比較的まともな勤め先に向かう人々が歩いているほかは、帰り損ねた酔客や夜勤明けの従業員がちらほら。
店から出た廃棄物を回収する車、おこぼれを狙うカラス。それらの風景を通り過ぎ、背後に置き去り、京子たちはヤンの住居へ向かう。
目的地から一ブロック離れたあたりで、京子は頭上をよぎる黒い影を目にした。
窓に顔を寄せ、空を確認しようとしたとき、柏木もまた前方のなにかに気づき、声を上げた。
「降りろ!」
ほぼ同時に踏まれるブレーキ。前方への強い慣性が働き、削られたタイヤが悲鳴を上げる。京子は状況を確かめる前に勢いよくドアを開き、車から転がり出た。
頭を守りつつ姿勢を低くし、車から少しでも距離を取る。
その二秒あと、京子の背中を衝撃波が襲った。吹き飛んだ鉄片やガラスが傍らを通り過ぎる。よろけつつさらに距離を取り、横の路地まで後退する。
爆発の残響に紛れて、頭上にローター音。京子が目線を上げると、二十メートルほどの高さに、四つの回転翼を備えた無人飛行機が浮いていた。ビルの角から顔を出しつつ、離脱しようとしているそれをホーネットで狙撃する。
機体が大きく傾ぎ、そのまま近くに墜落した。
京子は先程まで乗っていた車を確認した。地雷かなにかを踏んだのか、車体は突き上げられたような形で破壊されていた。フレームは辛うじて原型を留めているが、運転手はまず生きていないだろう。脱出が遅れていれば、京子たちも同じ運命を辿っていたはずだ。
道路の反対側に目を移せば、マンティスを構えた柏木がこちらに走り寄ってくる。
「さすがにヤバかった。京子さん、怪我は?」
「大丈夫」
「さっきの見た? 蜘蛛っぽいヤツ」
「飛んでたのじゃなくて?」
「車の前からサササーッて。アレが爆薬か地雷か抱えてたんだ。えげつないことするわ」
京子は確認しなかったが、車の前方から陸上型の無人機が接近してきていたようだ。
二〇〇八年にはじまった中国内戦では、兵器としての無人機が大いに活躍した。偵察や撮影のみならず、軽量な物資の運搬、爆発物の投下、歩兵と連携した射撃など、それは陸海空を問わず大規模に運用された。
凹凸のある地面はもちろん、壁や天井さえ走破できる八本脚の蜘蛛型無人機は、障害物の多い市街戦で目覚ましい成果を挙げたという。AI技術の発展により、操作に必要とされる技量も大幅に低下した。
空中のドローンでナビゲートし、地上の無人機で自爆攻撃を仕掛ける。無差別テロではありえない周到な罠。それは京子たちの意図が何者かに察知されていることを意味した。
何者か? ヤン以外には考えられない。
「一回立て直す?」
柏木が言った。
「いや、このまま行こう」
「ですよねェ~」
ヤンのマンションは既に目と鼻の先だ。百メートル近い高さの建物が、こちらを侮るように見下ろしている。京子はホーネットを手にしたままずかずかと大股で歩き、柏木を伴ってマンションの玄関ホールに進入した。
古代ギリシャ風の室内で異彩を放つカメラに目を向け、そこから観察しているであろうヤンを見据える。
「ヤン。楊博文。ちょっと話がしたいんだけど」
『ゲンザイ、ルスニシテオリマス』
電子音声に似せたヤンの声が響いた。
「ふざけてんの?」
『ルスニシテオリマス。オヒキトリクダサイ』
部屋主の承認がなければ、エレベーターは降りてこない。京子はちらりと天井に目を遣り、黒いドーム状の火災報知器を確認した。
京子はホーネットの銃口を上に向けた。報知器の中心から二センチずれたところを撃ち抜く。銃声の直後、マンション全域にけたたましい警報が鳴り響いた。人間の本能に訴えかける、甲高い連続したブザー。
『強引だなあ。ところで、無人機での出迎えはどうだった?』
挑発と警報に紛れて、エレベーターの脇で重い解錠音がした。災害時や緊急時にのみ使用できる非常階段への防火扉が解放されたのだ。京子は収納されていた把手を力任せに引いて、階段室に滑り込んだ。柏木には、いちいち指示を与える必要もない。
中は上まで突き抜けるシャフトになっている。階段のステップや手すりは黒く、それ以外は白く塗られていた。内壁に入った無骨な筋交いは、ギリシャ風のホールとあまりに対照的な、実用一辺倒の空間を作り出している。
ヤンの部屋は十階にある。京子は素早く、しかし慎重に歩を進めた。柏木もマンティスを片方抜き、構えながらついてきている。
京子が三階に到達したとき、月華が足音の接近を警告した。銃を構えながら待つと、中年の女性が慌てた様子で降りてきた。武器の類は持っておらず、見るからに着の身着のままといった様子だ。警報を聞き、外に避難しようとしたのだろう。銃を見て悲鳴を上げるのを無視し、さらに進む。
京子たちはそれから二度、逃げて来る住民と遭遇した。しかしほかにはさしたる邪魔もなく、数分のうちに七階まで到達した。少なくとも移動に関して、過半の住民が大人しくしているのは都合が良かった。
『上に三人、待ち構えてる』
月華が囁く。京子は後ろの柏木にうろ覚えのハンドサインを送った。二人はホーネットとマンティスの銃口を上に向け、敵の姿と射線を慎重に見極める。金属の柵の向こうで、わずかに動く人影があった。
次の瞬間、男が手すりから半身を突き出し、こちらに射撃を加えてきた。マズルファイアが瞬き、激しい銃声がシャフトの空気を震わせる。
しかし京子は着弾の寸前で位置を変え、相手の狙いから外れていた。ホーネットから放たれた弾丸が男の頭蓋を削り取り、周囲に血煙を舞わせた。手から離れた自動拳銃が、一階分の高さを落下して音を立てる。
それから、五秒ほどの沈黙が続いた。
焦れたらしい柏木から、自分が前進するとのハンドサインを送られてきた。
彼の援護に、と京子は上階の気配を探り、次いで壁の筋交いに目を遣る。大雑把に角度を見積り、跳弾の可能性を検討する。多分、十発も撒けばいいだろう。京子はホーネットをフルオートに切り替えた。
柏木と呼吸を合わせ、二度に分けてホーネットから弾を吐き出す。数発は大きく逸れたが、数発はおおむね京子の狙い通り、残る二人が待ち構えているであろう位置に跳ね返った。
敵にダメージがあったかどうかは分からない。しかし怯んだのは確実だった。その隙を縫い、二挺を構えた柏木が突出する。階段を二段飛ばしで駆けて高低差を詰め、冷静な射撃を見舞う。二、三発の応射はあったが、すぐに止んだ。
目線で前進を促され、京子も彼の隣に並んだ。階段に倒れている三つの死体。そのうち一人の顎には、皮膚が引きつったような傷がある。
「もういないな」
柏木はそう言って、片方のマンティスを腰に戻した。
「三人だけ?」
「さァ……」
あと二階分上れば、ヤンのいるフロアだ。京子は増援を警戒しながら、男たちの死体を踏み越える。
十階の防火扉。すぐ向こうで待ち伏せしている気配はない。重い扉をゆっくりと押し開ける。
ロの字型をした回廊は、一片がおよそ四十メートル弱。その内側は透明なアクリルガラスの壁になっていて、正面にはフロアの反対側が、吹き抜けとなった遥か下には中庭が見える。
「誰か倒れてる」
柏木が言った。二時の方角に住民らしき男性がうつぶせになっている。しかし京子には、その直上で動いているものの方が気になった。
それは掌より二回りほど大きい、蜘蛛に似た機械だった。天井に貼りつき、八本の脚を動かしてゆっくりと近づいてくる。先程車に接近してきたものと同型だろう。ただし今度は爆発物でなく、射撃装置を備えているタイプのようだ。
無人機がよく使用する弾丸は、口径も初速も一般的な拳銃弾に劣る。しかし人体に命中すると小さく砕け、重篤な損傷と出血を引き起こす危険なものだ。
京子がガラス沿いに進むのを、蜘蛛はその人工眼でしっかりと捉えているようだった。無人機の弾丸では、硬く分厚いアクリルガラスを貫くことはできない。角を曲がるまでは撃ってこないだろう。
しかし直線距離二十五メートルまで来たところで、蜘蛛が急加速した。脚をシャカシャカと動かし、気色の悪い不規則な軌道で出合い頭の射撃を躱そうとしている。
京子は足を止めて相手を待ち構えた。陸上型無人機の弱点は、動きが二次元に限定されることだ。蜘蛛が角を曲がる瞬間、通過しようとするラインに沿って、ホーネットで掃射を加える。
そのうち一発が人工眼を粉砕し、蜘蛛は天井に貼りついたまま機能を停止した。
次の瞬間、京子は背後で銃声を聞いた。振り返ると、柏木が背後から忍び寄ってきたもう一体の蜘蛛を撃ち落としたところだった。
「あんまバカにすんなって感じ」
柏木の足元には弾痕があった。京子が一人で来ていたら、完全に挟み撃ちされていただろう。
「行こう」
ショートして煙を上げる無人機を置き去りにして、ヤンの部屋を目指す。途中、倒れていた男性の近くを通ったが、彼は頭に弾丸を浴び、完全に絶命していた。
目的の部屋。当然、ロックがかかっている。しかし日常的な軽便さを追求したドアに、貫通力の高い弾丸を防ぐことはできない。柏木が錠を撃ち抜き、枠と扉の小さな隙間に指をねじ込んだ。そのまま力任せに開け、室内に踏み込む。
短い廊下の先はリビングだ。ヤンはまだいるだろうか?
そのとき、京子の目に強い光が差し込んできた。以前に見たディスプレイの光ではありえない。太陽より明るい、視界が白く染まるような閃光だ。
京子は柏木の背後にいたので、咄嗟の行動をとるだけの猶予があった。腕で目を庇いながら頭を下げると、髪の毛をかするようにして何かが飛んでいった。
光が目蓋を貫通して脳を刺すようだ。京子は無力化される前にと、被弾覚悟でリビングに飛び込んだ。
視力を奪われても聴力は健在。月華の指示を待つことなく、半径四メートル以内を動く気配に、ホーネットの連射を加える。なにかが床に落ちる音。それきりの沈黙。
気づけば光も消えていたが、多少なりとも見えるようになるまでは少し時間がかかった。直撃を受けた柏木は、しばらく目を押さえてのたうち回っていた。
「月華。黒豹の緒方さんに繋いで」
眼の痛みがましになっても、頭痛や平衡感覚の失調がしばらく続いた。傍らにはヤンの身体が転がっている。ピクリとも動かないので、おそらく死んだのだろう。
『いいけど、大丈夫?』
「多分ね」
数秒して、ウィスパーから緒方の声が聞こえてきた。
『どうした?』
「楊博文のマンションにいる。負傷してるから、迎えが欲しい」
『なにがあったんだ。説明しろ』
「頭が痛いから無理。あと氷嚢持ってきて」
『……まあいい。五分待て。至急送る』
通話を終え、涙でぐしゃぐしゃになった目頭を揉みながら周囲を見渡す。光を放っていたのは、細い柱のような形をした指向性のライトだった。京子が放った弾丸で、偶然にも破壊されたようだ。
ヤンの死体には、自動拳銃に似た形をした射出式のスタンガンが握られていた。これにもなにか、致死的な改造が施されていたのかもしれない。
楊博文は死んだ。罠を仕掛けるほどの余裕があれば、逃げることもできたはずだ。彼が部屋で待ち構えていたのは、差し迫った危機感のない、醒めた態度の表れであるような気がした。
もしかすると彼にとっては、黒豹に対する裏切りも、それが発覚してからの行動も、そして自分の死さえ、どこかゲームのように映っていたのかもしれない。
元々の性向なのか、あるいはモニタ越しの加工された世界に慣れすぎるとそうなるのか。
しかし今となっては考察する意味もないことだ。京子は眼に後遺症が残らないことを祈りながら、黒豹から迎えが来るのを待った。




