十七話 家路
京子はポイズンハイドレートを出奔した形になったが、住処のあてがないわけではなかった。山手から戻ったあと、黒豹ビルのトレーニングルームで緒方を発見し、物件の鍵を一つせしめた。それはビルのすぐ近くにある安マンションのものだった。二年前、京子はそこに住んでいたのだ。
地元民用のスーパーで総菜を買い、マンションに入る。さすがに部屋まで同じではなかったが、全体の様子は以前とほとんど変わっていなかった。
当時は気分の良い悪いに関わらず、調子外れの鼻歌を口ずさみながら階段を上がるのが日課だった。今はずんずんと脚だけを動かす。
割り当てられた部屋は五階にある。薬莢型のキーホルダーがついた鍵をドアに挿しこみ、屋内に滑り込んだ。
1DKの広くはない単身用。最近まで誰かが使っていたのか、一通りの家電は残っていた。前の住人はあまり綺麗好きではなかったようだが、食品や濡れた衣類を放置したまま退去するほど、良識を欠いた人間でもなかったようだ。
京子は窓を開けて空気を入れ替えたあと、湿った上着を脱いで銃をしまい、薄く埃の積もった合皮のソファに腰を下ろした。買ってきた総菜を食べようとしたが、やはりひと眠りしようと思い直し、目前のテーブルにそれを放置したままごろりと横になった。
次に目を開けたとき、外は暗くなりつつあった。京子は起き上がり、ビニール袋に入っていたパックを開封する。白身魚のフライをややぬるくなったジンジャーエールで流し込み、遅い昼食を終えた。一息ついたあと、テーブル上のELディスプレイにウィスパーを接続する。
「AI、バックアップから月華をダウンロード。そのままインストールして」
『了解しました』
それを待つ間、京子も思考を巡らせる。もしオートマタが黒豹を害するつもりならば、ドミニクを使い、シェリーを使い、月華を使ってスパイするなどという回りくどい方法を取るだろうか。それに、シェリーが京子の黒豹復帰を予期できるはずもない。
『京子ちゃん、ただいま』
ディスプレイの隅から、赤い目の黒ウサギが顔を覗かせた。
「おかえり」
『調子どう?』
「…………」
月華の能天気な声が気に障った。その理不尽さを自覚して、さらに自己嫌悪と苛々が募る。
「私、性格悪いな……」
『…………』
「なんか言いなよ」
『なにを?』
「……もういい」
八つ当たりだ。
『京子ちゃん、私は慰めたり励ましたりするのは得意じゃないけど、手伝えることはなんでも手伝うから』
「ロボのくせに」
『ロボじゃないよ、AIだよ……』
月華を虐めたところでどうにもならない。とにかく気分をリセットする必要がある。
「いつもの音楽かけて」
『はいはぁい』
再びソファに身を横たえ、頭をクッションで押さえつける。周りの雑音が耳に入らなくなるくらいにボリュームを上げる。両親がよく聴いていた八〇年代アメリカのロックで、散らかっている思考を一旦追い出す。
三十分ほどそうしたあと、京子はおもむろに身を起こした。ウィスパーをもぎ取って机に起き、シャワーを浴びる。音の外れた歌を口ずさみながら、髪の毛と顔を乱暴に洗う。身体を拭き、全裸で再びベッドに腰を下ろす。
寒さを感じるころになって、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
両親が殺され、復讐心を支えに生きてきた十年。大抵のことはそつなく、いくつかのことは卓抜と言えるほど上手くこなした。しかし京子には数少ない苦手もあった。謝ることと、人に助けを求めることだ。
心ならず、あるいは演技でやるのに躊躇はなかった。しかし真意からそれをせざるをえなくなったとき、京子の内には常に強い葛藤と抵抗があった。
人に謝るたび、助けを求めるたびに、自分の力が失われていくから。強い人間であるという確信が揺らぐから。
今考えればなんと幼い。独りよがりな、子供の思考にほかならない。
『風邪引くよ、京子ちゃん』
「大丈夫。……大丈夫」
京子は立ち上がり、ゆっくりと外出の準備を整えはじめた。
行先は、ポイズンハイドレート。
*
油断すれば湧き起こりそうになる疑念や迷いを抑えつけながら、京子は無風地帯へと足を向けた。考え事をするのに、ポイズンハイドレートまでの距離は短すぎる。回り道しようかという気持ちにもなりかけたが、ぐだぐだ考えたところで、することは変わらないのだ。
狭苦しい通りに飲食店が軒を連ねる地区。無国籍で無秩序。しかしこの場所にはどこか心安らぐ生活感がある。赤、緑、青。原色の安っぽいホログラム看板に並んで、見慣れたPoison Hydrateの文字が光っていた。京子は二年間で何千回と通り過ぎたドアを開け、中に入る。
この時間、店は既に営業中だ。こげ茶と濃い紫のインテリアがぼんやりとしたライトに照らされる中、哀愁を含ませた電子音声の歌が小さく流れている。
客はいない。カウンターの奥でグラスを拭いていたシェリーが顔を上げた。
「京子……」
「シェリーさん。……ええと、ごめんなさい。昼間はひどいこと言って」
「心配しないで。なにがあったの? あ、ちょっと待ってね」
彼女はカウンターから出て、店のドアに鍵をかけた。臨時休業ということにするようだ。
「とにかく座って。今コーヒーを淹れるから」
京子は断ろうとしたが、思い留まってテーブル席の一つについた。シェリーにも落ち着く時間が必要だろう。
二人分のコーヒーを淹れたシェリーが対面に座った。マグカップを口につけ、上目遣いで京子を見る。
話して、と彼女は言わなかった。話し出すまで待つつもりらしい。それは気まずい沈黙ではなかった。京子は気持ちと言葉の整理がつくまで少し時間をもらい、ミルク入りのコーヒーで口を湿らせた。
「どこから話そうか」
「どこからでも」
シェリーが実際にスパイをしてないのなら、かなりはじめの方から話す必要がある。
信じるか。信じないか。
「私が殺したいのは――」
京子はかいつまみながら、それでも重要な点を隠さず、関わっていることについて、把握している限りの全体像を話した。漏出すると不都合な事実も含め、すべて。それはシェリーに疑念を投げつけてしまったことへの埋め合わせであり、これから頼もうとしていることへの対価でもあった。
シェリーは黙ったまま最後まで聞き、それから口を開いた。
「思ったより、どっぷりね」
「まあ、そういうこと。引いた?」
「いいえ。正直に話してくれてありがとう。そこまでの覚悟があるなら、あなたの仕事について、私はもうしつこく言わないことにする。もちろん心配はするけど。それで今は、情報のリークを調べるために奔走してるってわけね」
「そのヤンって男に言われたときに、私はシェリーさんとユピテルの関係を疑った」
「ヤン……楊博文。確かに覚えてる。オートマタをクビになった理由は、機密情報への不正アクセス。見つけたのは私」
「犯罪者でも、義理堅ければいいんだけど」
「どうかな。チームプレーは苦手だし、嫌いだと思う」
浮かんだ苦笑は、なにか具体的なエピソードを思い出したからか。しかし多分、今は関係のないことだろう。
「……ええと、そうだな。これは頼んでもいいのかどうか」
「危険なこと?」
「危険だと思う」
「余計な危険を招くなら遠慮するけど、あなたが下手に冒そうとする危険を肩代わりするなら、むしろ歓迎」
下手に危険を冒す、というのはまったくその通りだ。ウィスパーの扱いさえ月華任せの人間が、プロのエンジニアを手玉に取れるはずがない。最終的には銃で解決できるとしても、動きを察知されれば先手を打たれる。
「私は、シェリーさんかヤンのどっちかなら、シェリーさんを信じる。ヤンに探りを入れたいけど手段がない。アイツが情報を漏らしたり、衛兵力と繋がってるかどうか、調べられない?」
「図らずも因縁の再試合ってわけね。いいでしょう。向こうも望むところかも」
それまで落ち着いた光を宿していたシェリーの瞳がキラキラと輝き出した。彼女はカップの残りを飲み干し、勢いよく席を立った。
「十五分後に作業を開始しましょう。シャワー浴びてくる」




