十六話 ドミニク・ブラッドフォード
「なんでアンタが……」
長椅子が邪魔でなかったら、先手必勝で蹴りつけていたかもしれない。しかしユピテルの傭兵は非常に穏やかな態度で、そこからは殺気も悪意も感じられなかった。待ち伏せていたという風ではない。彼は唇に指をあて、沈黙のジェスチャーを作った。
「ここは神の家だ。大きな声を出してはいけない」
彼は流暢な日本語で言う。京子はその態度に毒気を抜かれ、まだ疑念のこもった目を向けながらではあるが、通路を挟んで反対側の長椅子に腰かけた。
「私はカトリック教徒だからね。休日に教会を訪れるのは不自然じゃないよ」
ドミニクはその武骨な手を開き、握っていた十字架のペンダントを示す。それからなにを言うでもなく、再び前方に視線を戻した。
「シェリーさんと話した?」
京子は尋ねる。背後で雷鳴が響いた。
「いつの話かな? 最近か、それともついさっきか」
「両方」
「何日か前に、君のことについて相談された。危険なことはして欲しくないが、もしなにかあれば彼女の相談に乗ってやってくれ、とね。まさかこんなに早く会うとは思っていなかったが」
「ついさっきの方は?」
「キョウコに出ていかれたと悲しんでいたから、慰めたよ。詳しいことは聞いてないけど、大体見当はつく。雷神だからといって、人間界に疎いわけじゃない。大尉ともなればなおさら色々と耳に入る」
ドミニクはアメリカ人らしい仕草で肩をすくめた。
「シェリーさんとはどういう関係なの」
「立ち入ったことを聞くね。少なくともロマンチックな間柄ではない。私には愛すべき妻と娘がいる」
「真面目に答えて」
「君が想像する通り協力者であり、そして友人だ。私が日本に来たときからのつき合いだ。ユピテルの大尉になる、ずっと前から。昔に取った写真を見せようか? 私の妻と何人かとで、奄美大島に行ったときの写真だ」
京子がなにか答える前に、彼は古ぼけた小さいタブレットを取り出し、素早くなにかの画像を表示させた。
突き出されたそれには、確かに若いシェリーとドミニク、ほか数人の姿があった。空の蒼と海の青を背景にしたその写真には、薄暗い策謀の陰など微塵もなかった。
京子に写真を見せたあと、ドミニクもまた手元のそれをじっくりと眺めた。
「少し、昔の話をしよう」
タブレットをしまい、彼は静かに語りはじめる。
「私はどこにでもいる貧しい農家の息子だった。父はトウモロコシを育て、国際価格の上下に一喜一憂した。政府の補助金と、不安を紛らわすためのアルコールでなんとかやっていたんだ。私は自分の家庭が嫌いだった。そこに希望のある未来なんてなかったからだ。
だからオレゴンのハイスクールを卒業したあと、合衆国陸軍に入隊した。はじめは学がないなりに、死に物狂いで頑張った。
おかげで、五年後には軍曹に昇進した。それでも大逆転には程遠かったよ。士官学校を出ていない私が上り詰めるには、さらに気の遠くなるような数の試験や課程が必要だった」
「……だからPMSCに?」
ぼんやりと前方を見つめたまま、京子は尋ねた。
「可能性を求めて。凝り固まった階級社会よりもましだろうと思ってのことだった。自由な社風を求めるのならシリコンバレーに行く方が賢いんだろうが、私はそこまで高度な教育を受けられなかったからね。
もっとも、PMSCの組織風土だって、軍隊より多少はましという程度だったし、激務という点では軍隊以上だった。
はじめはメキシコで。それから二年後には中国での内戦がはじまった。酷い戦いだったよ。そこら中ゲリラだらけだ。
私に言わせれば、アレは戦争ではない。テロでもない。もっと原始的な殺し合いに近いなにかだった。住処を失った人間、家族を失った人間、身体の一部を失った人がそこら中に溢れていた」
内戦のはじまりは二〇〇八年、今から二十年前の話だ。そのとき京子は生まれたばかりで、事態が一応鎮静したあとの混乱も、ニュース内の出来事として朧げに記憶しているのみだ。
もっともそれが生んだ出来事こそが、今の人生を決定づけていると考えるなら、京子にとっての戦争はまだ終わってないと言えるのかもしれない。
正規兵やゲリラや無人機や地雷に家族を奪われ、それでも生き残った人々は、一体なにを恨んだのだろうか。直接手を下した犯人か、それを作った技術か、戦争そのものか、戦争を引き起こす人間の心性か。
この二〇年で家族を失った人間が多いからといって、京子は両親の死を相対化するつもりはない。しかしそれらが同じ流れの中にあるのなら、全く無関係のこととして目を背けることもできなかった。
京子はなにも言わなかったが、ドミニクはその考えをぼんやりと感じ取ったようだった。
「誰も信じられなかった。現地人の隊員が裏切ったこともあった。それが原因で重傷を負ったことも、仲間が死んだこともある。だが誰も信じないということもまた不可能だった」
ドミニクはその大きな手を頬に当て、絞るような動きで顎を撫でた。
「自分も裏切られたことがある。だから信用しろ?」
「もちろん、そんなことは言わない。ただの昔話だ」
「私はあなたとシェリーが結託して、私のことをスパイしてるんじゃないかって思ってる。注意深く答えて。今はバーの店員じゃないから」
シャングリラで性善説は通用しない。だから京子もそう易々と他人の言葉を信じない。しかし悪質な嘘を纏う人間ほど往々にして百戦錬磨だ。そんな相手と腹の探り合いをするのは、銃弾のやりとりをするよりも遥かに難しかった。
「私の答えがイエスでもノーでも、君が信じなくては意味がない」
「なら証拠を――」
「証拠などないよ。少なくともすぐに提示できる証拠はね。さっき話した経験で私が学んだことは、人間関係は常に雲のような不確定性の中にあるということ。全ての可能性から距離を置くことも、安易な結論に飛びつくことも等しく危険なんだ」
「それ、結局は分からないってことじゃないの」
「違うね。信じたいと信じられないの間で葛藤し、それでも生き残らなくてはならない、ということだ」
中国内戦で身に染みた経験則。はじめからなにも信じなければ、嘘に惑わされる必要もない。とはいえ一人で生き残れるほど、世の中は甘くない。
京子にしたところで、一度はシェリーを信じたのだ。黒豹を出奔し、ポイズンハイドレートに居つくこともなかったら、今まで生き残ることができていただろうか。
「なにを信じる? キョウコ。君が決めろ。私はここで暴れるつもりはない。君が銃を使うなら、それもいいだろう」
「……お説教は好きじゃない」
京子は言った。他人の意見に対して、ひとまず反発するのは常だった。
「ここは教会だ。教会は祈る場所であり、お説教を聞く場所でもある」
ドミニクは笑った。大仰に手を広げ、椅子の背に身体を預ける。
「確かにお説教をすること自体が好きな人間もいる。だけど私はそれを年長者の義務だと思う。私も娘によく嫌がられる。でもきっと、いつか、真意を理解してくれるときが来るだろう」
「生きてればね」
「そう、生き残ることがなにより大事だ。もし君の生存のためにできることがあれば、私も協力しよう。信じられるのであれば、だけど」
「……どうも」
会話はそれで打ち切られた。讃美歌の練習が終わり、メンバーはばらばらと解散していく。気づけば雨は上がり、日が差してきていた。
「私はそろそろ行くよ。将来のことはゆっくり考えるといい」
お節介な傭兵が帰ったあとも、京子はしばらくそのままでいた。歌っていた人々が去ってはじめて、奥にマリア像があったことに気がついた。慈愛と愁いを含んだ白亜の顔を五分ばかりじっと見据えたあと、京子は腰を上げて教会をあとにした。




