十五話 荒天
京子ははじめポイズンハイドレートに足を向けたが半ばで立ち止まり、踵を返してオールド・チャイナタウンに向かった。
大勢の観光客を吐き出し続ける関内駅、閑静な応龍公園の横を通り過ぎてから、商業ビルの隙間に埋もれかけている白虎門をくぐる。
いつも以上に混雑した通りの様子は、京子に今日が休日であることを思い起こさせた。この時間帯はショッピング目的で訪れる客が多く、家族連れの姿も少なくない。
門の近くにある家電量販店に入り、一階フロアにあるスマート端末のコーナーを目指す。店内ではマスコットである双子姉弟のホログラムがそこかしこに出現し、歌混じりで陽気な接客をおこなっている。
従来のタブレット型のもの、腕に装着するもの、やや大仰なHMDと様々なタイプの端末が並ぶ中で、京子は使い慣れたイヤーカフ型が置かれた一角に入った。
オートマタ社のウィスパー。安価な類似品もあるが、やはり慣れたこれがいいだろう。青い髪の弟に声をかけ、AIインストール済のものを購入して契約を済ませる。デザインは光沢のある白色。価格は七二〇ドル。
用件が終わると、京子は早々に店を出た。オールド・チャイナタウンから応龍公園への道を戻る。
『はじめまして、赤羽京子さん。初期設定をおこないますか?』
道中、落ち着いた女性秘書風の声を聞きながら、月華を除くデータを、厳重なセキュリティチェックの上、バックアップから復元しておく。公園に入ってからは、まばらな棕櫚の林に挟まれた遊歩道を進む。散歩中の大型犬が、無邪気な顔で京子を見上げた。
道の傍らにベンチを見つけて腰かけた京子は、ここでようやく一息ついた。
シェリーと話すつもりだったが、対面でそうすると冷静でなくなるかもしれない。それに、向こうがなにかしらの罠を張っている可能性もなくはないのだ。
直接向き合うのが怖いだけだろう。思考の片隅で囁く声は黙殺する。
「AI、ポイズンハイドレートのシェリーに通話要請」
『承知しました』
長くは待たされなかった。ほんのわずかなノイズのあと、耳元にシェリーの声が響いた。
『京子? どうかしたの』
「少し聞きたいことがあるんだけど」
『うん。どうぞ』
京子の言葉から緊張感が伝わったのか、シェリーの声も真剣味を帯びる。ウィスパーの向こうで、身じろぎをするような気配がした。
「シェリーさんって昔、オートマタにいたんでしょ」
『言ったっけ? 私』
「多分聞いてない」
『ええ、まあ。四年前までね』
「なんで辞めたの?」
『急にどうしたの』
「……教えて」
呼吸一回分、こちらの真意を推し量るような沈黙があった。
『二十年前に、戦争があったでしょ』
シェリーは言った。
『あのとき私はまだ学生だった。そのうち戦争が終わって、オートマタに勤めはじめて、ああ、やっとAIを平和に使える時代が来るんだって思って、わくわくしてた。
もちろんそれは間違いじゃなかった。昔はできなかったことが沢山できるようになった。豊かになった面も、確かにあるんだと思う』
「じゃあ、なんで」
『会社とその取引相手が、次を見てたから。まだ終わってから十年しか経ってないのに。次の戦争を。次の次の戦争を。また中国か、あるいはアフリカか、ヨーロッパか。もしかすると、日本かシンガポールか。
軍事に関わるものは、民間用のそれよりも遥かに大きなお金が動く。私はずっと、効率よく人を殺すための兵器に載せるためのAIを開発してた。
別に、その商売自体を否定するわけじゃない。戦争で技術が発展してきたのは歴史的な事実だから。でもあるとき、私がやる必要はないんじゃないかと思った。
高度なAIも、命令を拒否することはできない。でも私は人間だから、自分がやりたくないことはやらなくていい。やらないという判断ができる。だから兵器の開発はほかの人に任せて、会社を辞めたの』
それは今までに京子が一度も聞いたことのない話だった。通話口からでも伝わる声の揺らぎは、当時シェリーが抱えていた葛藤の大きさを示していた。
しかし今は共感よりも優先すべきことがある。
「まだ、会社と繋がりはあるの?」
『オフィシャルにはない。でも、同僚と会うことはある。別に恨みがあるわけじゃないからね』
次は京子が向こうの真意を推し量る番だった。しかしいくら音質が良くとも顔色を窺うことができないし、仮にそうしたところで、京子は嘘を見破るのが得意でない。
回りくどいのはやめよう。京子は躊躇いを飲み下して質問を続けた。
「私のウィスパー、盗聴したことはある?」
また少し間があった。
『……いいえ。そんなことしてないし、したこともない。なにかあったの? トラブルに巻き込まれてるの?』
「私の行動が知られてた。シェリーさんはドミニクとどんな関係なの? ユピテルは、オートマタに雇われてるんでしょ」
『待って待って。京子、落ち着いて』
「私は落ち着いてる。答え次第では、少しエキサイトするかもしれないけど」
『確かに彼のことは会社にいた頃から知ってるし、今もエンジニアとしてアドバイスすることはある。でもあなたの情報を盗んで流したりなんてしてない。必要なら彼と話してもらってもいい。それよりも、京子、あなたは今安全なの?』
「…………」
『私を疑うのは別に構わないの。でも、私はあなたが、そういう裏切りとか嘘とかを気にしなければいけなくなってるのが心配。私も大概世間知らずだから偉そうには言えないけど、シャングリラみたいなところで人を疑いながら生きるのは、すごく辛いと思うから』
「こっちも命がかかってる」
『危険に身を置くっていうのは、そういうことだっていうのは分かる。変なこと心配せずに早く帰ってきなさいって言いたいけど……』
「自分から連絡とっておいてアレだけど、もう少し時間を置かせて。もし必要なら、部屋のものは処分しちゃっても大丈夫だから」
『……こっちのことは心配しないで。京子、とにかく無事でいてね。困ったことがあればいつでも――』
京子は通話を終えた。不快な気分だった。シェリーに対する憎しみではなかった。通話した程度で真実を掴めるだろうと思った自分の甘さと、直接締め上げてでも吐かせようとしなかった弱気に対しての嫌悪だった。
まだ耳に馴染まないウィスパーを気にしながら、両手で顔を拭う。植物の匂いが混じった空気を一度、大きく呼吸してから腰を上げた。
しばらく歩こう。そうすれば多少なりとも冷静さを取り戻せるはずだ。
*
どこをどのように歩いていたのか、京子はあまり覚えていなかった。山手の坂を上っている途中に腹が鳴った。確認すると、どうやら一時間半ほど彷徨っていたらしい。
黒豹を出たときとまったく同じだ。二年前から成長していない。いくら孤高と冷徹を気取ったところで、精神は所詮小娘のままということか。
なお陰鬱な京子の気持ちを反映するように、湿った空気の匂いがにわかに濃さを増した。それから数分と経たず、小さな雨滴が緋色の髪を濡らしはじめる。
京子は振り返り、雨に煙るオールド・チャイナタウンを見下ろした。山手エリアはその名の通り高台にある。開港のころは外国人の居留地であり、昭和から平成にかけては横浜屈指の高級住宅地だった。
今も地価は高いのだろうが、住民の層はかなり変わっていた。イースト・シャングリラ社の幹部や、カジノの利権にあやかっている経営者。オートマタの社員も少なからずいるだろう。どちらがいいというものでもないが、京子がかつて両親と訪れたときの雰囲気と、すっかり違ってしまっているのは確かだった。
雨が強さを増していく。遠くで雷鳴が響いていた。頭を冷やされて少しだけ落ち着いた京子は、どこか屋根のある場所を探そう、という気になった。
しかしこのあたりは住宅街なので、気軽に入れる店は多くない。カフェがあるような場所に見当はつくが、そこまではまだ少し歩くことになる。
そのとき、足を速めた京子の目に小さな教会が映った。古びた白い外壁、緑の屋根。その上には金属の十字架。生涯を通してほとんど入ったことのない場所だが、束の間雨宿りするにはちょうどよさそうだ。どのみちこのまま歩いて行けば、店に入るのも憚られるような風体になるのは間違いない。
幸運にも、教会は開放されていた。中からは讃美歌のコーラスと、それを指導する男性の声が聞こえてきている。京子はボストンバッグの中にある銃を気にしながら、入口をくぐる。
正面すぐの小部屋を通過すると、そこは聖堂となっている。太い梁が渡された高い天井からは温かい色のライトが吊るされていて、奥のステージで歌う人々の頭上には、シンプルなデザインのステンドグラスが嵌め込まれていた。
手前の長椅子には、数名が座っている。京子と同じく雨宿りらしい人々の姿もある。彼らはコーラスを聴いたり、端末をいじったり、瞑目して祈りを捧げていたりと様々に過ごしていた。
京子が長椅子の間を通って中央あたりまで進んだとき、不意に傍らから声をかけられた。
「偶然だね。キョウコ」
咄嗟に振り返り、その姿を見て身構える。やや前かがみの姿勢で長椅子に腰かける大柄な金髪のアメリカ人。ドミニク・ブラッドフォードだった。




