十四話 監視者
京子は一旦オールド・チャイナタウンに足を向け、川に合流してからそれを遡った。改修され整備された護岸は一部がドローンや遊戯用ジェットパックの練習場になっていて、ときおりコースを外れた機体や人間が川に不時着する。
いくつか係留されているのは、舳先に竜頭のついた屋根つきの船だ。夜には客を乗せ、ライトアップされた竜が青い火を噴く。
毒の水和物。水で包めば毒は毒でなくなる。しかし京子はそうならなかった。わざわざあんなお節介を焼くということも理解できなかった。労働力となる若い女性など、シャングリラにはいくらでもいる。
しかし理解できなかったなら、なぜ二年前、シェリーの提案を飲んだのだろう。なぜシェリーの所に居続けたのだろう。自分もまた保護を求めていたのではないのか。
思考は川の水と同じように濁っていた。明快な答えなど見つかるはずもなかった。だから京子は無為な潜水を止め、地面を見つめながら黙々と足を動かした。
そして黒豹事務所の近くまで来たとき、建物を出てきた柏木と出くわした。
「オッス。機嫌悪そうだね」
ジーンズにジャンパーというラフな姿だが、髪と髭はしっかりセットしてある。
「別に」
「今ちょうど通話しようと思ってたんだけどさ」
「なんか用?」
「こないだカジノで話したじゃん。情報漏れてんじゃないかって話」
ペンライ・カジノでの一件。接触してきた衛兵力の男は、京子の顔も行動の目的も知っていた。それが単純に警戒の賜物であったと解釈するのは、少々楽観的に過ぎる。
「ああ」
「それで今から知り合いにアドバイス貰おうと思って。つっても、黒豹の関係者みたいな感じ。システムエンジニアってヤツ? そういうのの専門家」
「緒方さんの指示?」
「いや。でもしばらく仕事ないみたいだからさ。京子さんも会っとくといいよ。あんまり好きなタイプじゃないかもしれないけど」
仕事でないならつき合う必要はなかったが、今はなにかしら用事を作っておきたい気分だった。それに計画の漏洩は重大な事故に繋がる。京子は応じることにした。
「分かった。そのナントカさんはどこに住んでんの」
「ヤンさんね。フルネームは楊博文だったかな。家はネオランドマークの北あたりだから、近い近い」
京子と柏木はすぐ近くでタクシーを捕まえ、ヤンという人物の家に向かった。
言葉少なに車窓を眺めていると、十分もかからず目的地についた。そこは以前、MM21地区と呼ばれていたエリアだ。
改装を終えて五年前にリニューアルされたネオランドマーク、日本が誇る世界的IT企業であるオートマタの本社ビル、ほかにも富裕な人間が住む高層マンションや、比較的真っ当な企業が入ったオフィスビルが立ち並んでいて、住環境や治安という点では、他のエリアよりも数段優れている。
ヤンの住まいは地上二十階を超える海沿いのマンションだった。長い直方体の角を落としたようなシルエット。無数にある大きな窓が、曇天を反射して鈍色に光っていた。家賃は最低でも二千ドル、といったところだろう。
柏木とともにエントランスをくぐると、古代ギリシャ風の内装に見合わぬ黒いカメラが、天井でぐるりと首を巡らせて京子たちの姿を捉えた。十秒ほど待つとなにかしらの認証が終わり、スピーカーから音声が響いた。
『ご用件をドウゾ』
電子音声ではなく、それを大袈裟に真似た人間の声だった。
「おっすヤンさん。可愛い女のコ連れてきたよ」
『ガールフレンド自慢しに来たのか? 絶対入れねえからな。回れ右してとっとと帰れ』
「違うよ? 入れて?」
スピーカーから軽い舌打ちの音がした。それでも部屋の主は入室の許可を下したようで、目の前にあるエレベーターが稼働しはじめる。
「多分だけど好きなタイプじゃないわ」
京子は言った。
「だろうね」
音もなく戸を開いたエレベーターの箱に乗り込み、十階を目指す。マンションの中央部は吹き抜けで、エレベーターも三方の壁が透明なアクリルガラスになっていた。京子はそれに背を預けながら、増えていく階層表示を眺める。
「ヤンさんって広東の人?」
「確か台湾って言ってたかな。でも日本も長いらしいよ」
目的のフロアについたエレベーターを降り、ガラス越しに中庭を見下ろしながら回廊を行く。並ぶドアの数からすると、案外多くの人間が住んでいるようだった。柏木は何度か来たことがあるようで、迷いのない足取りで進んでいく。
彼は表札のない部屋の前で立ち止まった。ノブの近くにあるライトが一瞬青く光り、解錠を知らせる。こういう機器が既に一般的なのかどうか、京子はよく知らなかった。少なくともポイズンハイドレートは、なんの変哲もないシリンダー錠でドアの開け閉めをする。
部屋の外側に在るのはテクノロジーの香りだけだったが、内側はそれに加えて独身男性特有の生活感に満ちていた。
玄関ドアをくぐった京子は、機器の排熱と人間の熱に温められた、なにかすっぱいような臭いに顔をしかめた。リビングに続く埃っぽい廊下には、黒ずんだぬめりが付着したスナックの包装や、梱包材が入ったままの段ボール箱が放置されている。
定期的な来客を想定していないのか、スリッパの類はない。平均程度の繊細さを持ち合わせた女性であれば、まず入りたいとは思えない場所だった。
しかし京子は幸いそれほど繊細な性質でない。大抵のゴミは返り血よりもよほど清潔だ。靴を脱ぎ、邪魔なものを足蹴にしながら奥に向かう。
外から見た印象より広いリビングダイニングは、ホログラム装置やELディスプレイから放たれる白い光に満ちていた。
以前緒方の執務室で見たようなものと同じくらい高級な、しかも複数のディスプレイが部屋の奥に設置されていて、それぞれがまったく別の画像や映像を表示させていた。
明らかにシャングリラの一部だと分かるものもあれば、何を示しているのか分からない、リアルタイムで生成され続けるグラフもある。
その手前にあったチェアがぐるりと回り、それまで背もたれで隠されていた人物の姿が露わになった。ぼさぼさの黒髪に眼鏡型のHMDを装着した小太りの男。
年齢は三十代の半ばだろうが、顔つきはそれよりやや幼く見える。身体に比べると、太腿から下は筋肉が削げたように細かった。脚が悪いのかもしれない。
彼は今、小さな黒いバー状のものを齧っていた。おそらく羊羹だろう。
「やぁやぁ柏木君。そちらのお嬢さんは赤羽京子さんだね。スカーレットと呼んだ方がいいかな?」
レンズ越しに見えるヤンの目が細くなり、その口元に粘っこい笑みが浮かんだ。文法的には流暢な日本語だが、声には独特のアクセントがあった。
「どこかで会いましたかね」
そうでないことを確信しつつ、京子は冷たい声で応じた。
「ディスプレイ越しにね」
「覗きが趣味なの?」
「趣味ではない。仕事だ」
京子はヤンの奥で光を放つディスプレイ群に目を遣った。そのうち一つでは、巨大な蜘蛛の下半身を持った妖艶な女性が、身じろぎもせず眠っていた。
「仲良くしてくんないと、俺が気まずいんだけど」
柏木が困ったように、しかしどこか面白がるような口調で言う。
「オーケーオーケー、当面はお手柔らかにしておこう。まあ座んなよ」
ヤンはそう言って部屋の片隅にある、背の高い中華まんのようななにかを指さした。色は緑とオレンジ。どうやら変わった形のクッションらしい。京子が腰かけると、低反発の素材がぐんにゃりと沈み込む。すぐ立ち上がるのに不便なのが気に入らなかった。
「黒豹の動きって、ヤンさんの耳にも結構入ってきてると思うンすけど」
「ペンライ・カジノではご活躍だったね。シャングリラで一番のとこが滅茶苦茶だよ。俊豪御大はきっと、頭の血管ブチギレだろうさ。今日はその件かな」
「そんな感じ。俺に裏切り者の炙り出しなんて器用なことはできんけど、情勢的なところは理解しておかないと。緒方さんその辺あんま教えてくれないから。京子さんも今同じヤマで仕事やってるもんで、ついてきてもらったわけ」
「ん~、でも君ら、言っちゃ失礼だけど鉄砲玉でしょ? そんなの気にする必要ないんじゃないの」
こちらを侮り、煽るような物言い。柏木は馴れたものなのか、普段通り飄々とした表情でいる。
「そこはまァ、知っとくのと気にするのとは別ってことで」
「スカーレット嬢も同意見かな?」
「……おおむね。この件に関しては、単純な金と仕事の交換じゃないから」
京子は答えた。
「ほうほう」
自分と俊豪の因縁について、この男はどこまで知っているのだろう。京子はヤンの瞳から思考を読もうとしたが、それは無礼な光を湛えたまま、容易に奥底を悟らせなかった。
「頼みますよ、ヤン先生。アドバイスくださいよ」
「仕方ないなあ」
まんざらでもなさそうだ。おだてに弱いのかもしれない。
「ではそうだな。まず登場人物を整理しよう。俊豪と息子である嵐航の仲がピリついてること自体はもはや周知の事実。そして君たち黒豹が、息子の嵐航側についているわけだ。そしてペンライ・カジノの一件で、衛兵力の抑えつけにも成功している」
ヤンは椅子の上でその細い脚を垂らしたまま、饒舌に語りはじめた。
「もちろん俊豪にも、まだ忠誠心の篤い直属の護衛がいる。これは屍と呼ばれる衛兵力の精鋭部隊だ。ただ、こいつら情報戦にはあまり関わってこない。あくまでも実行部隊だからね。君たちが注意すべきなのは、むしろ嵐航側の人間だよ」
「黒豹の中に裏切り者がいる?」
京子が尋ねると、ヤンは勘の悪さを蔑むような表情を浮かべ、わざとらしくため息をついた。
「僕は嵐航『側』って言ったんだぜ? そっちにいるのは黒豹だけじゃない。ヤツは今やシャングリラの外交担当だ。裏以外にもパイプを持ってる。もしこの界隈で、イースト・シャングリラ社に対抗しうる表の勢力があるとしたらなにかな? 死に体の日本政府は論外として」
「はいヤン先生」
「柏木君早かった」
「オートマタ」
「正解だ」
オートマタ。日本でその名を知らない人間はまずいない。まだ創業から三十年ほどしか経っていないこのIT企業は、従来のAIが突き当たっていた諸課題を次々と突破し、それをスマートAIと呼ばれる存在に押し上げた。
スマートAIは世界中の軍事、交通、生産、通信、医療を一変させ、オートマタを世界に名だたる大企業へと成長させた。収益や資金の規模だけでいえば、イースト・シャングリラ社を易々と上回る。
「君らが使ってるウィスパーも、そこにインストールされてるAIもオートマタ製のはずだ。かく言う僕も、元はオートマタのエンジニアでね。クビになったんだけど」
「次はAIでカジノ運営すンのかね……」
「オートマタがシャングリラに野心を持ってるというよりも、嵐航自身が先を見据えて、オートマタの技術を取り込もうとしてるんだろう。カジノ好きの父親に反発して、ITを収益の柱にでもするつもりかな」
「でも、オートマタは合法な企業でしょ」
京子は言った。
「そう。だから自分自身の手はなるべく汚さずに、下請けを使う。カネさえ払えばなんでもやってくれる傭兵。PMSCの連中だよ」
「……ユピテル」
「よく知ってるじゃないか、スカーレット嬢。日本じゃヤツらはオートマタのお抱えさ。中国大陸で蓄積したノウハウをひっさげて、今度はシャングリラでなにをやらかそうってのかね?」
「はいヤン先生」
「どうぞ柏木君」
「腹黒い嵐航サンは、黒豹を切り捨てようとしてるってこと?」
「ヘマをすればね。オートマタとしても、俊豪を追い落としたあと、シャングリラに黒いシミがこびりついたままってのは好まないだろう。ま、あくまで動機があるってだけで、今現在妨害工作を受けてるってことにはならないけど」
オートマタとユピテルの関係。京子は耳のウィスパーに手をやり、ポケットの中に入っているユピテル大尉の名刺を意識した。
耳からもぎ取るようにウィスパーを外し、手動で電源を切る。
「どうしたのかな」
ヤンが尋ねた。口元に下品な笑みを湛えたままだ。
「ねえ、シェリーっていう名前のエンジニアを知らない? 三十代半ばぐらいで、黒髪の、男っぽい感じの美人。多分シンガポール出身。オートマタに居なかった?」
しばらく虚空を見つめたあと、ヤンは言った。
「……シェリー・メイか。たしか開発部門にそういう人間がいた」
京子は思わず顔をしかめる。当たって欲しくない予想だった。ウィスパーを握る手に力がこもる。繊細な機器はメキメキと音を立て、やがて最も弱い部分から二つに折れた。
「京子さん、どういうこと?」
ただならぬ様子を察知したのか、こちらを振り向いた柏木の声も神妙だった。
「私の……知り合いに、さっき言った人間がいる。このウィスパーは彼女から貰ったの。ユピテルともつき合いがある」
「おいおい、他人から貰った機器を使うなんて正気か?」
ヤンが呆れたように言った。彼にしてみれば、歯ブラシを共有するのと同じような感覚なのかもしれない。
「信用できる人間だと思った。それに、今のヤマがはじまるずっと前のことだった」
京子にとっては、自分の責任で計画を危険に晒したことより、シェリーが裏切ったと考えざるを得ないことこそが苦しかった。朝方のことも、善意からの提案だと思っていたのに。それすらも邪な意図のもとにおこなわれていたのだろうか。
「図らずも京子さんから情報が漏れてたってこと? つき合いのあるユピテルの人間ってのは誰なのよ」
柏木が言った。京子はポケットからドミニクの名刺を取り出し、彼に手渡す。
「んー、大尉っていえば現場指揮官クラスか。まぁまぁな地位じゃん」
一瞥してから戻された名刺を、京子もじっと見つめた。
「どうする京子さん。そのシェリーの居場所は分かってんの?」
分かる。分からないはずがない。しかしそれを言えば、ポイズンハイドレートに黒豹の構成員が殺到するだろう。あるいは京子自身が、彼女を殺さなければならないかもしれない。
「多分。でも、確かめるために少し時間が欲しい。まだ決まったわけじゃないから」
「こういうのは初期対応が重要だぞォ」
京子は面白がるように言うヤンを睨みつけると、彼は肩をすくめて目を逸らした。
「仲いい人なら容赦したくなる気持ちは分かるけど、やるときはやらんと、京子さん自身の目的にも差し支えるんじゃないの」
「……分かってる」
京子は低反発のクッションから立ち上がった。挨拶も述べずに踵を返し、リビングを出る。
「あとで連絡するから」
「連絡って、ウィスパー壊してるし……」
背後に柏木の声を受けながら、京子はヤンの部屋をあとにした。




